第12話 西王母の庭


 祖父と運に続いて、シルラと共に御簾へ向かって礼をし、僕らは広間を後にした。


 当然の事だとは思うが、西王母が御簾から出てくることは無かった。西王母が脇息に凭れ玉勝ぎょくしょうを頭に着けているのか、虎の歯と豹の尾を持つ姿なのか、気になったものの僕に確かめるすべは無かった。


 祖父や運に恥をかかせることはするべきではない。西王母の姿を捉える事がたとえ世紀の大発見に繋がったとしても、それは恩を仇で返してまでする事ではないだろう。


 僕らがもと来た扉から大広間を出ると、廊下では白が待っていた。最初に案内してくれた時とは違い、花の装飾の付いた行灯を手にしている。


 揺らめく蝋燭の火が朱塗りの壁をぼんやりと照らす。白の立姿は『牡丹灯記』を彷彿とさせた。俯いて行灯を見つめる表情に幽霊の如き儚さが滲み出ていたせいかもしれない。


 白は僕らが四人揃ったのを確認したのか一礼すると、先程と同じように祖父の少し先に立って歩き始めた。


 祖父はもう透き通っていないが線香の煙の如く細身だから、たちまち僕らは二人の幽霊に連れられて冥界巡りをしている一行のようになってしまった。


 その二人のすぐ後ろをギリシャ神話から抜け出たような運が歩いていなければ、志怪小説や伝奇小説の雰囲気そのものだったはずだ。


 廊下は広間から玄関に目掛けて真っ直ぐ続いており、来る者を拒まない不用心ともいえる造りだった。


 僕らが玄関の方へ廊下を半分ほど歩いた頃、白が右側にあった朱塗の板戸の前で立ち止まった。


「こちらへどうぞ」


 白は扉に取り付けられていた金属に手を当て、ゆっくり押して開いた。


 その先もまた、同じような朱色の壁の廊下が続いていた。


 左右とも等間隔に並ぶ木戸と小さな斧だけが焦げ茶色だった。おそらく、斧は火事の際に木戸を破るために置かれているのだろう。奈良ホテルの旧館にもそういった理由で古い工具が掛かっていた。


 そんな景色が五十メートルほど続くと、僕の直前を歩くシルラがまた左右に揺れはじめた。まるで反復横跳びでもするかのようだった。


「シルラ。さっきからめっちゃ揺れてんで。なんか床板軋んでるし、そのうち絶対怒られるから今のうちにやめとき」


「えー。だって暇じゃん〜。いつまで続くのこの廊下。地図とか欲しいわ。つーか、誰も怒んないでしょ。だって俺ここのお客様だしぃ〜」


 振り向いたシルラは得意げにニヤニヤと笑っていた。


「はぁ…。お客さんにも品性とか必要やと思わん?まぁ、地図ないと不安やって気持ちはわかんで。ただ、地図ってそう簡単に渡してええもんとちゃうやん。世の中どこに何あるか知らせてええもんと悪いもんとあるわけやし。それでうとここは西王母様の住んではるお屋敷やねんから、きっと機密事項やで」


 廊下はよく響くため僕は意識して小声で話した。


 部屋の数は奥へ進むほど減ってきていたが、それでもどこで誰が耳をそばだてているかはわからない。


「だよね〜。確かに十日の禍で一番被害受けたのは崑崙山だし、これも仕方ないわ」


「そうなんや……。たぶん崑崙山が桃源郷の入り口やからやな」


 人間が神仙になる際、最初に通る場所が崑崙山だ。『楚辞』にもその思想が反映されている。


 この桃源郷にとっての入口も崑崙山だと言うのなら、大広間で見たものはやはり后羿の矢の跡だった可能性が高い。


 西王母の近くには鳥が描かれることがある。司馬相如は〝大人の〟の中で三本足の烏を西王母の使いとして描いていた。この桃源郷においても八咫烏が日常的に西王母の元を訪れていたなら、八咫烏は崑崙山にいたせいで后羿の矢の被害を受けたのかもしれない。


 なんにせよ、口に出すのを憚られるような話題だった。


 廊下の果てに見えていた朱塗りの木戸の前で、白は立ち止まった。先程とは違い、周囲に他の部屋は見当たらない。


「このお部屋は西王母様の中庭へも出られます。何泊でも、ごゆっくりどうぞ」


 開かれた扉の向こうは、真紅の絨毯が敷かれた三十畳ほどの客間だった。


 扉を入った正面と右手には、御簾が備え付けられていた。正面の御簾は上がっており、奥に巨大な天蓋付きのベッドが置かれている。


 僕は玄関先で会った韋駄天のことを思い出した。


 韋駄天の像は中国の寺院においてよく見られる。一般的に天王殿の中央に置かれ、大きなお腹の弥勒菩薩の背後に安置されている。


 韋駄天の像はたいてい武将のような甲冑姿で手には金剛杵を持つ。この金剛杵の位置によって寺院からの伝言がわかるのだ。


 もし金剛杵が韋駄天の肩に凭れていれば、その寺院は無料で三日間の宿泊と食事を与えてくれる。金剛杵が韋駄天の胴の辺りで地面と平行に持たれていれば、その寺院は無料で一日の宿泊と食事を与えてくれるが、金剛杵が地面についていればその寺院は食事も宿泊もさせてくれない。


 祖父に目掛けて走って来た韋駄天は金剛杵を持っていなかったため推し量りようがないが、僕らが破格の待遇を受けているであろうことだけは確かだった。


「なぁ、白。もし時間あれば中庭案内したってや。三人とも中庭初めてやろうし。何も知らんと毒の花に触ってもぉたら大変や」


 祖父は絨毯の中心に置かれたソファに腰掛けた。繊細な刺繍の施された絹のソファに祖父の青い着流しが馴染んでいた。


「かしこまりました。それでは皆様疲れていらっしゃるかと思いますので、また後ほどご案内致します」


 白は扉の外で一礼した。


「かまへん。すぐ行こ。さっきまで宴で休憩してたようなもんやし、さらに休まんでええわ」


 運は右側に張り巡らされた御簾の端を揚げて、庭へ出て行った。


 祖父に運を止める素振りは見られなかった。


 僕はリュックサックを背負ったまま、運の後を追って庭に出た。ここは山頂のはずなのに、五月の昼間に感じるような生暖かい空気が辺りを覆っていた。


「白さんさ、戻って何かすることあったんちゃうの?なんか無理矢理案内させる流れになってへん?」


 背の低い草を踏まないように砂利道を探しながら運に近づく。葉に珠のような露をつけているものもあった。きっと誰かが水遣りをしたのだろう。


「あー。まぁ、ええんちゃう?代わりに用事する奴なんていくらだっておるやろ」


 革のブーツが視界に入り顔を上げると、運は月明かりに照らされて少し灰色っぽくなった瞳で僕を見ていた。


「はぁ。たぶんそーゆーとこやで。皇帝って言われんの」


「せやなぁ。気ぃつけるわ……。おーい。白、なんか余所でやることあんねんやったら代わりのやつ寄越しー。俺毒草好きやし、そもそも神仙は達神と会わな死ぬ要素無いから案内役は誰でもかまへんわ〜」


 自分の過ちを認めすぐに訂正するのは運の良いところだ。


「そういやなんでここ来んの初めてなん?崑崙山には何度か来てるはずやんな」


 運は探し物をしていて桃源郷に辿り着いたと言っていた。そのことからしても、昇仙して真っ先に通るであろう崑崙山には何度か訪れているはずだった。


「この中庭ってな、西王母と特別懇意にでもならんかぎり基本立ち入れんとこやねん。せやし、何千年も仙官しとったかて東王父の治める蓬莱山ほうらいさん側に住んどる俺は招待されたこと無い場所なんや。この度来れたんは葛城竜殿下のお陰やな」


 運は謝辞を述べるかのような柔和な眼差しを御簾の方に向けた。


「なるほどね。西王母様おんねんから東王父様もそりゃおるよな」


「まぁな。せやけど、東王父はえらい長いこと東の山留守してんねん。仕事も全部兄弟の西王母に任せっぱなしやから、西の山の連中はみんな思うとこあるはずやわ」


「そりゃ多少恨まれても文句言えん状況な気がするなぁ……。その西王母様と東王父様ってやっぱり天帝陛下の子なんやんな?」


「せやで。それと北斗星君ほくとせいくん南斗星君なんとせいくんを合わせた四柱は天帝陛下が直接創造した存在やから、簡単に言うと全員兄弟やな。北斗星君には明日会いに行く予定やし、失礼無いようにな」


 運は口角を上げた。


「僕が初めて会う人にすすんで変な事するわけないやろ……。うっかりなんかやってたらちゃんと止めてや」


「その辺は任して」


 運は得意げに笑った。


 そこに、白に揚げられた御簾からシルラが庭に出てきて、その後に白が続いた。


「お待たせいたしました。では、参りましょう」


 祖父は庭に来たことがあるのか、客間で留守番をするようだった。


「なぁ、仕事大丈夫なん?お前に迷惑かけたら俺が焔に怒られんねんけど」


 運は白の方を見て桃源語で語りかけた。


「申し訳ございません。お気遣い頂いて恐縮です……。代わりの者がおりますので、心配には及びません」


 白は僕らに向かって一礼すると、行燈を手に運の少し前に立って砂利道を歩きはじめた。


「なあなあ。焔って運様とどーゆー関係?」


 シルラは運について歩きつつ、振り返って僕を見た。


「あはは。ただのご近所さんやってうてるやん」


 僕は列の最後尾を守りながら西王母の庭を歩きだした。



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