1章 6.僕は学校で、ヘドバンする。

「お兄ちゃ~ん、お兄ちゃ~ん、朝だよ~遅刻しちゃうよ~」


 目を開けると僕のベッドの脇にいつものグレーのブレザーに赤チェックのスカートの制服を着た準備万端な妹がきょとんと立っている。


「由衣、やっぱり土曜ってお台場行った……?」

「うん、まこちゃんのサイン会に行って~、お台場に行って~帰宅して~そして~お兄ちゃんがずっとまこちゃんの写真集見ながら泣いているの~。昨日もずっと泣いてたよね~そんなに好きなんだね、まこちゃんのこと」


 やはり現実なのか。

 今日は月曜日、学校だ。

 ベッドからゆっくりと起き上がった僕は頭を抱えた。


 僕は土曜日あることに遭遇した。


「どあふぉ、どあふぉ……、どあふぉ……?」


 この言葉が頭から離れない。あの声は間違いなく『最上まこ』だった。しかも目があった気がするのは気のせいだろうか。いやしっかりしろ、最上まこがあんなこと言うわけないじゃないか。だって『守ってあげたい少女ナンバー1』だぞ? 守ってあげたい少女ナンバー100でもきっとあんな風に叫んだりしない。あんなのただのイカれたおっさんじゃないか。あれはきっと違うなにかだ。

 

 でも、なぜだ。あの走り去った黒塗りのセダンのあの高級車はいつも学校にまこさんを迎えに来ている車と一緒じゃないか。おい、待ってくれ。それを思い出させないでくれ。今『違う』証拠を思い出しているんだ。しっかりしろ、しっかりするんだ、隆斗……!!

 

 まさか僕ってばれてないよな……? だってすごいスピードで走り去っていったし……。ああ~何から考えていいのか、今僕の脳は完全に処理能力の限界を超えている……!!


 頭を抱えているうちにいつの間にか妹は消えていて、なぜだが虚しくぽつんと取り残された気分になる。ベッドからさっと立ち上がった僕は急いでいつもの白シャツとネクタイ、紺色のブレザーを羽織り、グレンチェックのズボンに足を突っ込む。今日学校へ行けば何か分かるかもしれない。


 『彼女ではなかった』というなにかが。


 その時『最上まこ祭壇』に飾ったサイン付き写真集が目に入る。そう、土曜日に妹からゲットしてきてもらったものだ。

 

 僕はいつものように『絵』のアイディアを考えるためのお気に入りスポット、レインボーブリッジの歩道を歩いていただけだった、そう、それだけなんだ。なのにが起きてしまった。


 その後ふらふらと辿り着いたお台場にあるあの実物大ロボットを上の空で見つめていると、急に現れたにっこりな妹から『りゅうとさんへ』と書かれているミカエルスマイル溢れる表紙の写真集を手渡された時、頭が真っ白になった僕の背後で突如変身を開始したあのロボットの壮大なテーマ曲が「あーあーあーあーああああー」と盛大に流れ出し、あの主人公のように未知の領域へ行きそうになるが、踏みとどまる。希望はある、あるんだ……!!

 

 由衣は言っていた、名字は言っていないと。きっとこの世の『りゅうと』は無数にいるはずだ。妹の兄が僕ってばれない限り、僕が『エンジェラー』ということはばれない、はずだ。はずなんだ……。


――


 土日に大好きな絵さえも描けなかった僕は、この世のすべてがまるで霧がかかったかのようにぼやける中で、どうにか学校へ到着した。いつもの一番後ろの席へ着席するとはぁぁぁぁ、やってきたのだ。


 ――が。


 彼女も自分の席へ可憐にストンと座り、文具やらを取り出しているようだ。ああ、もう動きすべてが天使だ。僕と同じ人間だなんて到底思えない。


「どあふぉなんて叫ぶわけないじゃないか……」


 そうだ、僕の癒しアイドルがあんなおっさんなわけがない。なんだ、このどこかで聞いたことがあるような言葉は。いや、何か、何かがおかしい……


 そんな憧れの彼女に誰も話しかける人はいない。これはいつものことだ。


 ……彼女には友人がいないのだ。


 学校中の誰もが彼女に一目を置いているし、男子は顔を赤らめ、女子は時々彼女を見ながらひそひそ話をしている。例え話しかけた人がいたとしてもなぜか彼女との会話は長く続かないのだ。それが繰り返されるたびに皆いたたまれない気持ちになり、今はもう誰もがただ見つめるだけになってしまった。

 そう、まるで仏様扱いだと言ってもいいだろう。


 僕もそのうちの一人だ。

 あの仏様へ向かって賽銭さいせんの如く推し活を行い奉仕し、ただ見つめ拝むだけなのだ。だがそれで僕はとんでもなく救われてきた。

 

 そんな推しと同じ高校だと知った時、僕はもう一生の運を使い果たしたと思った。いや実際そうだ。だってこの状況の意味が分からないじゃないか。まだ名の知られていない彼女を中学の時から推してきた僕にとっては300円の宝くじ1枚で前後賞合わせて3億円当選したみたいなもんだ。そう言ったらこの凄さが伝わるだろうか。


 僕は絶対に怪しまれないように彼女を5分に1回視界に入れるようにしている。最も後ろの席にしてくれた出席番号14番立石隆斗という自身の名前に感謝をしてもしきれなくらいだ。そんな彼女の後ろ姿を見ると、土曜の出来事はやはり夢だったのだろう。そうだ夢だ。あれはレインボーブリッジの精霊が僕にちょっと可愛いいたずらをしたのだ。


「……ははっ」


 不気味に笑ってあちらの世界へ行きかけてしまった。我を取り戻すようにロックバンド並みのヘドバンをする。隣の席のクラスメイトからこの世のモノではないものを見たような恐怖さえ抱いている目で見つめられているが、そんなことはどうでもいい。僕は今、人目を気にしてる場合じゃないんだ……! 


 

 ――放課後になっていた。


 ああ、今日僕は果たして授業を受けていたのだろうか。記憶がもう『最上まこ』しかない。もう何が現実の記憶で何が夢だったのか分からなくなっている。


 学校から出てとぼとぼと帰路についている時、人気のない道端で背後から低い声で呼び止められた。


「立石隆斗様ですね?」


 振り向くと、30歳ぐらいだろうか。非の打ち所がないような真っ黒なスーツでびしっときめ、豊かな黒髪をオールバックにした黒ぶち眼鏡の長身イケメン男性が立っていた。


 この後、その男性がだと名乗った時、僕の脳内は完全に崩壊した。

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