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***


「……ったい」


 百合子は寮のベッドで目覚めると、ゆっくりと自分を抱き締めた。百合子の動きが緩慢なのは寝起きだからでも、周囲の人目を気にしたからでもない。ただ、幻想のような痛みが彼女の全身を蝕んでいたのだ。痛みとも熱とも取れるその感覚は百合子の全身を侵食して離そうとしない。逃れようが無いのは当然である。彼女を苛むそれは彼女の体自身が発しているのだから。

 しかし、千切れたはずの指も、燃えるような熱を放つ太腿も、そこには無い。自分の体を抱く腕がある。上体を起こせる脚がある、抱かれる形を保っている胴体がある。それだけではない、安全な空間と、暖かいベッドまであるのだ。百合子は意識に刻み込むように、怯えなくてもいい理由を一つ一つ数えた。もう恐れる必要も痛みを感じる必要もないことを、幼子に説くように優しく、紐解くように積み重ねていく。


「違う。もう、痛くないわ……」


 異形の者に食い殺されるという、非常に強烈な体験だったせいか、焼き付いてしまった感覚はなかなか抜けない。頭は既に全てを理解していた。もう誰かに襲われる可能性が無いことも、自分が安全なところにいることも、元よりあれは夢のようなもので、今の百合子に何の影響も及ぼせないことも。落ち着くまで身体を丸めて過ごすことにした百合子は、布団の中で背中を丸め、ゆっくりと膝を折った。

 少しだけ落ち着きを取り戻してから、百合子は自分が泣いていることにやっと気付いた。痛みに対して生理的に涙が出てしまうものとは違う。ショッキングな体験に傷付いていたのは彼女の心だ。

 神に頼めばこの手の体験については記憶を薄めてもらえるが、贖罪を原動力にしている百合子にとってその選択肢は存在しないも同然だった。こういった体験こそが自らの罪の意識を和らげてくれるのである。贖うためにモブをしている彼女の危うさを知る者は、ほとんど居ない。過去に何があったのかを知る、一人を除いて。


「……百合子。大丈夫?」

「えぇ……大丈夫じゃないわ……」

「どっちさ」


 何故ここにいるの、と言われる気満々だった春華だが、ただならぬ様子の百合子へと、自分から声を掛けた。携帯を忘れたっぽいという理由から百合子の部屋を訪ねたが、彼女は既に別世界へと意識を飛ばしていたのだ。

 深い呼吸の音だけが部屋に響く。嗚咽が混じる彼女の呼吸は、とても危なっかしいものだった。整うまで、まだもう少しかかるだろう。百合子が落ち着くまで、いつまででも待つつもりだった春華は、ぽつりと零された言葉に耳を疑った。鏡面のように完全に凪いだ水面に、一粒の水滴が落ちるような。酷く静かで、印象的な一言だった。


「来て」

「……分かった」


 しかし、春華は掛けられた言葉に驚いてみせたりはしない。何を言っていいのか分からないのであれば、何も言わない方がいいだろう。そう判断した彼女は、もぞもぞと百合子の布団の中に潜り込むと、背中に回された腕も拒むことなく受け入れる。

 高貴で堅物な印象とは裏腹に、春華の腕の中でそっと息をする百合子は小さくて儚い。強く抱きしめればそのまま消えてしまいそうな感触に、どこか怯えながら慎重に抱き返す。そして、しばらくの沈黙の後、春華は囁くように呟いた。


「スポットモブなんて、もうやめなよ」


 返事は無い。きっと拒否されるのだろうと思っていた春華は、少し面食らう。百合子はいまだに春華がここにいる理由も問わないし、別の世界で何が起こったのか話そうともしなかった。


「さっきからうるさいわ」

「え、ごめん」

「あなたじゃなくて。神よ。ずっと「ごめん」とか、「君しかいなかった」とか言ってるの」


 一応、神という立場でありながら、罪悪感を抱くことはあるらしい。春華はそれを知ると、落ち着いた声色を響かせる。


「あぁそっちね。じゃあ伝えといて」

「……なんて?」

「くたばれって」


 百合子の頭を抱く腕に、自然と力が入る。純度百パーセントの憎悪を込めた呪詛に、百合子は思わず笑ってしまった。


「それだけ迫力のある声を出せるなら、きっと大抵の役はこなせるでしょうね。きっといいモブになるわ」


 百合子は贔屓目を抜きにして、彼女を褒めた。しかし、春華はちっとも嬉しそうにしなかった。


「なんないよ」


 そして返答を待たずに続ける。


「一緒に主役になるって、言ったじゃん」


 春華は百合子の頭を離し、斜め上を向かせる。布団の中にすっぽりと潜っていた百合子の視界には、僅かな光と、春華の顔しか映っていない。


「本気だよ」


 百合子は、何も言えなかった。出来る事ならその甘い誘いに乗って、何もかも忘れてしまいたいと一瞬でも思ってしまったことに、罪悪感だけが募る。

 春華もまた、それ以上何かを言うことはなかった。この部屋に入った経緯や、どうせだから何かが起こったらすぐに体を揺さぶってこの世界に戻してやろうと思っていたことなど、説明すべきことはいくつかあったが、そのどれもが野暮になる気がしたのだ。


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