凡夫

譚月遊生季

序文 ゲオルク・マイヤー

 くたびれた身体を寝台に寝かせ、鉱夫の男は目をつぶった。

 うとうとと意識が遠のいて来たあたりで、大砲の音が男の意識を呼び覚ます。ハッと起き上がり、男……ゲオルク・マイヤーは叫んだ。


「敵か!?」


 夜のとばりに包まれた部屋はシーンと静まり返り、やがて、誰かが寝ぼけた声で怒鳴った。


「ちくしょうめが! 今、何時だと思っていやがる!」

「……! す、すまねぇ……」


 どうやら、悪夢のたぐいだったらしい。

 再び軋む寝台に身体を横たえ、ゲオルクはきつく目をつぶり、耳を塞いだ。




 ゲオルクは時折、かつて戦場で聞いた音を、日常の中で聞くことがある。

 大砲、銃声、悲鳴、怒号……


 若かりし頃、どれほど気が乗らなくとも、漂う血の香りに吐き気が止まらなくとも、妻子を守るためにゲオルクは戦場を駈けた。

 元は一農民でしかなく、銃など握ったこともないゲオルクでも、徴兵された以上は戦う他なかった。


 国境付近の村では、妻子が自分の帰りを今か今かと待っている。

 そう信じ、ゲオルクは無我夢中で戦った。


 ……けれど。


 その想いは報われなかった。


 故郷の村は、突如起こったゲリラ戦に巻き込まれ、住民の大半が死に絶えていた。


 砲撃により崩れ落ちた教会に並べられた、死体、死体、死体……

 腕や足が欠けた死体、腐った臓物にハエが集った死体、頭を吹き飛ばされた死体……惨状が広がってはいたが、茶色の瞳は、既に死体を見慣れていた。

 数え切れない死体の中から、ゲオルクは、妻の姿を見つけ出した。人の形を留めていなかったが、半分残った顔に、懐かしい面影を見つけてしまった。

 黒ずんだ血のへばりついた亜麻色の髪はかつての輝きを失い、片方だけ残った眼球も、眼窩からこぼれて腐り落ちかけていた。


「……この人手では、並べるだけで一苦労じゃて……」


 地下室に身を隠して難を逃れたと語った老人は、ゲオルクの妻を前に、すまなさそうに指を組んだ。

 ゲオルクは呆然と妻の死体を眺め、「子供は」と、呟いた。


「……逃げ仰せたとしても、小さい子じゃ。生きているとは、とても……」


 老人は目を伏せ、ぼそぼそと語る。


 嗚呼、何のために。

 一体、彼は何のために、戦場を駈け、人を殺めたのだろうか。

 ゲオルクは失意のうちに、思い出の詰まった村を去った。


 その後は、古傷の痛む身体を引きずって鉱夫となり、日銭を稼いでは酒と賭博に費やした。

 我々が隣国から勝ち取った鉱山だ、と、誇る鉱夫もそれなりにいた。……が、ゲオルクにとっては、もはやどうでもいいことだった。

 鉱夫仲間に娼館に誘われることもあったが、ゲオルクは断り続けた。……どうしても、妻以外の女を抱く気にはなれなかったのだ。

 守るべきものは既になく、生きる目的も、希望もない。虚しさを持て余しているうち、茶褐色の頭には白いものが混じり始め、顔にもシワが増えていった。


 起きて、石炭を採掘し、運んで、寝る。

 そんな繰り返しを、辛いと思うことすら次第になくなった。


 小麦を育てながら家族と過ごした頃の、優しく穏やかな日々も、

 大砲の鳴り響く戦場を駆けた、険しく苦難に彩られた日々も、次第に色褪せて、遠い過去へと変わっていく。


 ──アンタ。絶対に、帰って来なよ


 ゲオルクは、妻の声を忘れた。……いっその事、笑顔や泣き顔も……死に顔も忘れてしまえたなら、このどうしようもない虚しさから解放されたのだろうか。




 ***




「盗賊が出る?」


 ある日、酒場で飲んだくれていると、娼館の支配人から声をかけられた。


「マイヤーさん、あんた、元兵士なんだろう? 頼れないかと思ってね」

「……確かに、あっしは戦場帰りですが……」


 多少の火傷や切り傷の痕が痛むことはあったが、元兵士でありながら手足も失わず、鉱夫としての働きもそれなりのゲオルクは、盗賊退治に持ってこいの人材とも言える。

 支配人はすがるよう、よどんだ瞳をわざとらしく潤ませた。


「何でも、賊は複数人いるみたいでねぇ……今は倉庫を漁られた程度だが、今後どうなるかわかったもんじゃない。娼婦達にも悪さをされないか心配だ」

「ですがねぇ……」

「もちろん、報酬は弾むよ。……お願いできないかい?」


 危険な仕事だと、ゲオルクは直感で理解した。

 盗賊、しかも徒党を組んだ相手と戦うとなれば、殺す可能性も、殺される可能性も充分にある。

 ゲオルクは、自分の命などもう惜しくはない。鉱山で働く以上、常に落盤事故の危機に晒されている。……けれど、再び殺し合いの場に赴くのは気が進まなかった。


 それに、個人に盗賊退治を頼ろうとする支配人がどうにもきな臭い。おそらくは、後ろめたいような経営を行っているのだろう。

 ……だとしても、盗賊が出ることは事実で、娼婦達に危害が加えられる可能性があるのも事実だ。死に損なった自分にも出来ることがあるのなら、力を貸してやるべきかもしれない。


 ゲオルクは迷った。


 依頼を承諾し、いつもと違った行動を取るか。

 鉱山に赴き、いつも通りの色褪せた日常を続けるか。


 ─────────────────────────────────


 この物語は、選択によって展開が変わります。


 依頼を受ける→次のページへ

 依頼を受けない→3ページ目へ

 娼館の調査をする→4ページ目へ

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