苦艱 -Kukan-




 雨が強か地を打っていた。庭に配置された石の足場の上でも雨水が踊っている。


「雨の中ご苦労だったね」

「いえ、とんでもない。こちらこそ時間をとって頂き、感謝申し上げます」


 土方は守護職邸を訪れていた。壬生浪士組はこの京都守護職を務める会津藩の預かり組織である。庭園に面した部屋で、いつもよりきちんとした格好の土方は一人の男と向き合って座していた。


「相撲取りと乱闘騒ぎになったそうじゃないか。相変わらず元気がいいな」

「お耳が早いようで。無事ことは収まりましたよ」


 茶を啜る彼は、井上いのうえ松五郎まつごろう。源さんこと井上源三郎の兄であり、土方達と同問の天然理心流近藤周助の弟子であった。多摩にいた頃から優れた剣客として彼の名は有名で、現在は将軍警護で上洛していた。京でも向こうにいた頃のように懇ろにして貰っており、土方や近藤の良き相談相手である。


「どうだね、浪士組は」

「お陰様でなんとかやっていてますよ。大所帯にもなってきたことですし、最近は屯所がやや手狭に感じます」

「そうかそうか。順調そうで良かった。こっちにも浪士組の活躍がよく聞こえてくるよ。見廻組より実績を積み上げているようだね、凄いじゃないか」

「うちは実力重視の剣客集団ですから。お坊ちゃん方のお遊戯会より役立ちはするでしょう」

「相変わらず歯に衣着せぬ物言いだな。聞いていて気持ちがいいよ」


 弟と似た優しい面相の彼は、成長した後輩の凛とした面構えを見て目尻の皺を深めて微笑んだ。若かりし頃は喧嘩に明け暮れていた彼も、今ではそのよく回る賢い頭脳を活かして浪士組の中核を担っている。土方は現状報告や今後の方針についての相談事を話し出す。井上はそれを何度も頷きながら聞いた。


「良いんじゃないか。よく統制が取れているし、それでいて存分に機能している。今のところ言うことはないよ」

「分かりました。暫くはこれでやっていこうと思います」

「承知した」


 土方に茶菓子を勧めながら、そういえば、と思い出したように井上は顔をあげる。


「面白い子が入ったんだってね。勇から聞いたよ」


 ああ、と土方は藍の少年を思い出す。


「爽葉ですか」

「そうそう、その子。盲目なのに腕が良いとか。歳が可愛がっていると聞いたが、そうなのかい」

「やめてください。あれは面倒を押し付けられているだけです」


 いらん事を言う幼馴染のお陰で変な噂が立ったらと思うと厄介だ。それを口実に今後も彼のお守りを押し付けられるに決まっている。


「盲目の剣士とは興味が湧くねえ。どんな子なんだい」

「チビで世間知らずの戦馬鹿です。仕事の邪魔をするわ大食いだわ、飼うには骨が折れますよ」


 井上は楽しそうに土方の話を聞いている。終いにはもっともっとと彼の話をせがむので、土方は彼の小噺をする羽目になった。


「いやほんとに、愉快な子だね。皆に世話を焼かせる天才だ。多摩に帰る前に一度は会ってみたいよ」


 井上は笑い過ぎて目尻に溜まった雫を指先で拭う。面白いならば良いとばかりに、眉根を寄せた土方は食べかけの饅頭をんだ。


「でも、彼にとって歳は随分と大切な存在なんだね」


 ごほっ、と饅頭の欠片が喉に転がり込んできて、土方は咳き込んだ。急いで茶を飲み、饅頭を胃に押し込んで、土方はその意図を汲もうと井上の焦げ茶色の瞳を見つめ返した。その面貌は試衛館時代に、稽古後に手拭いと冷たい茶を持ってきてくれた時のそれと、重なった。


「今の話から何故その結論に?」

「話の端々から感じるよ。何をしても結局頼るのは歳。可愛いじゃないか」


 はあ、と土方は返事ともあらぬ応えを返した。


「聞くに、不思議な子だね。彼の所感は私達の捉えるそれとは別角度からものを見ているのだろう。他の者が見えないものが見えているのやもしれないし、他の者が見落としすものを愛でるのやもしれない。……酔狂とも常軌を逸しているとも思える彼の云為うんいは、ゆくりなく真理に繋がっているのかもしれないね」

「奴がそんな深い思考をしているとは思えないのですが」

「お前も、その子が阿呆じゃないとすぐに判ったんだろう?きっと自然と見ているんだ。私達が自然と視覚に頼っている様に、彼も己の心の視覚に頼っているのだと、私は思うね」


 井上はそうやって感心したように、会ったこともない爽葉を褒める。


「彼に為次郎さんを重ねたりしたんだろう?」

「そうですね……」


 土方は、布団から身を起こして、庭に積もった雪を感じる兄の姿を思い起こした。肌が張るような冷たい空気の中、真っ白く吐き出される息の事などつゆ知らず、彼は幼子のように喜んでいた。春は、胸いっぱいに花の香を吸い込んで、春が来たねと微笑んでくれた。夏は蝉と風鈴の音を背に、今日も暑いねと土方の汗を拭いてくれた。秋は、お腹がやたらと空くねと、蒸した芋を分けてくれた。

 土方は、為次郎が好きであった。問題児だった土方を唯一可愛がってくれていた存在だからという理由だけではない。彼の心はとても綺麗だったからだ。目の見える人々に比べれば世の多くを知ることが出来ないのに、人よりも心は豊かであった。穢れを知らず、純粋で、慈しみ深い。あまりにも純白なその真心に思わず顔を背けたくなる時もあったが、それはいつも傷だらけの土方をも優しく包み込んでくれた。

 爽葉は違うと思っていた。否、思いたくなかっただけのかもしれない。彼の住む世界は土方と同じだ。剣を握り、血に濡れ、狂気を孕んだ笑顔を魅せる彼の心を読もうとも思っていなかった。同じだと思っていたから。穢れを悟り、世の不純な部分を理解して、慈しみだけでは腹が膨れないと考えている。それでも彼はあちら側の心を持っていた。時折、目を覆いたくなるほど無垢な部分が垣間見えることに気付いてはいた。彼の清い心は土方を静かに包み込むのだ。兄と同じように。


「歳の強情な鎧も解いてしまいそうだね。……彼を大切にするんだよ」


 あまのじゃくな土方の適当な返事も相変わらずで、井上は気持ちのいい笑顔を見せた。


「いつ、ご帰郷なさるんですか?」

「今月中かな。寂しくなるが、手紙を出すよ」

「そうですね。帰東の折には送迎の宴でもしましょう。ご要望のチビ助にも会えますよ」

「おや、それはいい。楽しみにしておくよ」


 土方は感謝を述べ、屋敷を後にした。ここから屯所まではそれほど遠くなく、土方の脚では半刻程度で着いてしまう。屯所の門ももう直ぐ、となった時、遠くから水を跳ね飛ばす足音が近付いてくる。


「トシー!平助に縁側に落とされたよぉぉ」


 奴の嗅覚は犬並みだ。この距離でも土方の匂いを嗅ぎ分け、飛んで来たようだ。傘もさしていない彼の袴は水と泥に塗れ、白い包帯も茶色く滲んでいる。うええん、と喚きながら汚い袴を振り乱して、脇目も振らず此方へ駆けてくる。数日前、芹沢に連れられて大坂に出立していたが、土方の外出中に帰って来たようだ。


「おい、その汚ねえなりでこっち来るんじゃねえ」

「ひどいんだよ!総司も泥投げてくるし、左之助も水跳ね飛ばしてくるし!ハジメなんて笑って見てるだけで全然助けてくれないんだぞ!」


 爽葉は土方の声など全く耳に入っていない様子。抱きつくように飛び込んでくる彼をすんでのところで躱すと、彼は水飛沫をあげて道に突っ伏した。


「何してんだ」


 むくりと起き上がった彼は服どころか顔も頭も泥塗れである。包帯は解け、だらんと不恰好に肩に引っかかっていて、青い目が土方を見つめ返した。酷い有様だったが、愛くるしくも整った顔立ちに嵌め込まれた透き通る青は、土の中に姿を現わした宝石のよう。土方は暫しその幻想的な虹彩に魅入られていたが、突然堪えきれなくなったとばかりに吹き出した。


「な、なんだよ!」

「……いや。ひでえ格好だと思ってな」


 ほら帰るぞ、と土方は左手で彼を引っ張り起こした。


「それ、迎えに来た僕の台詞じゃない?」

「この有様を迎えに来たっつーのか?おい、こっちに近づくな、泥が付くだろうが。こら、寄るな!」


 一つの傘をさして、二人は屯所の門をくぐった。





「まあ、なんだ。和解できて良かったな」

「そうですよ、近藤さん。そんな気落ちしないで」


 両副長に励まされているのは、我らが浪士組を率いる大将、局長近藤だ。大坂での力士との乱闘は、芹沢から報告を受けた近藤がすぐに大坂西町奉行松平大隅守に届出を出したことで、無礼討ちとして処理された。喧嘩した相手は、小野川部屋の力士だったそう。こちらが京都守護職預かりの壬生浪士組だと知り、金五十両と酒樽を持って謝罪してきたことで和解が成立した。葉月に開催される今日での相撲興行の手伝いもすることになり、土方も山南も、今後友好的な関係を築いていけそうだと考えていた。そんな割り切った思考の参謀二人に対し、実直で正論を好む近藤にとっては、少し気掛かりな事件だったようだ。


「近藤さん、お人好しもいいけどよ、良い機会が出来たと考えりゃあ悪くもねえだろう。新しい仕事もできたことだし、素寒貧すかんぴんなうちの懐もちったあは潤うってもんだ」

「うむ、そうだな。皆無事だったことだしな」

「和解の宴も行いますし。この繋がりは浪士組にとって良いものになりますよ。近藤さんが収めた一件です、自信を持ってください」

「しかも、俺らと交流のある京都相撲との仲介も兼ねれば、どでかい興行になる。なんでも、壬生村で大半を開催するらしいじゃねえか。俺らの名前を売るにはもってこいだ」

「そうだ。八木の皆さんも招待したらどうですか?いつもお世話になっていることですし、恩返しの絶好の機会では」

「いいじゃねえか」


 近藤はこの壬生浪士組の顔で、誰もが皆認める大将だが、実際に組織を回していたのはこの二人の副長であった。学問に優れ、知識の豊富な山南。そして、知恵の回る、天才的策略家土方。彼らの頭脳無くして浪士組は無い。


「ああ、丁度良いところに」


 山南が腰をあげ、庭を挟んで向かいに居る男女に声をかけた。八木夫婦だ。二人を部屋へと招き入れる。事のあらましを伝えれば、彼らは一も二もなく招待に応じてくれた。


「今回は稀に見る大きな興行になりそうですよ」

「そら楽しみどす」


 相撲好きの八木の夫婦は揃って相好を崩した。他の家族にも早速伝える、と気が早い。


「喜んでいただけてこちらも嬉しいです」

「そういうたら、黒神関は来るんどすか?以前から御贔屓にさせて頂いとって」


 夫人は嬉しそうに両手を合わせ、目を輝かせている。


「黒神関……?」


 はて、と首を捻る近藤の後ろで、土方と山南は一瞬焦燥を走らせてから、こそこそと耳打ちしあった。


「おい、誰だ黒神関って奴は」

「大坂力士の一人ですね」

「まさか、斬っちまってねえだろうな」

「ええっと。いや流石に……」


 何しろ力士達の喧嘩相手は芹沢や爽葉である。斬ってしまっていても不思議ではない。山南の指が名簿を素早くめくってゆく。そして、一覧の途中で視線を止めると、旦那の方を向いてにっこり。


「はい、いらっしゃいます」


 土方は横を向いて静かに胸を撫で下ろした。期待以上に喜んでくれた夫婦が去り、部屋にはまた三人だけが残る。


「一瞬ひやりとしましたね」

「開催するときには、いい子にしてろって厳しく言わねえと駄目そうだ」

「そうですね」


 爽葉のことを思い出したのか、山南は口許に手をやり、くすりと笑った。夫婦の前ではしゃんとする土方は、二人が居なくなったとあらば早速煙草を取り出す。窓を開け、濁る空気を外に逃がした。


「そうだ、近藤さん、新しい隊士の募集が完了したぜ」

「おお!どうだった。腕の立つ奴はいたか」

「中々良い人材が居ましたよね、土方君」


 土方は頷き、新隊士の名前がずらりと並んだ紙を身を乗り出す近藤に渡した。


「上から力量の順だ」


 今回の隊士募集は、土方と山南の二人が推し進めたものだ。近藤が芹沢と共に大坂に行っている間、土方が雇う金を工面し、山南が新たな隊士を前川邸に住まわせる策を立てていた。爽葉にも新しく部屋を与えてやったのだが、居心地が良いのか彼は暇さえあれば土方の部屋に居候している。


「この松原まつばら忠司ちゅうじって奴は、良い腕持ってやがる。副長助勤に就けてもいいかもしれねえな」

「それほどなのか!歳の勧めで隊士募集をして良かった。浪士組の強さが増してゆくな」

「入隊試験も大盛り上がりでしたよ。松原君と一君の試合は中々手に汗を握りました」

「ほお。それは見たかった」

「それとあと一人、こいつは良い」


 土方は煙草を持たない方の手で、紙面に載った三文字を指した。


島田しまだかい

「永倉の紹介で入隊した者です。勿論、試験も行いましたが、かなりの腕利きです」


 近藤は嬉しさに大きな口をあけて破顔する。仲間が増えることが単純に嬉しいのだろう。そうかそうか、と悠然と頷いていたが、ぴたりとその動きを止めた。

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