20 千客万来です
魔術軍医部の立ち上げ業務の中には、従来の軍医と同じように医務室ないしは陸軍病院での勤務当番がある。
実際に医務室での当番をしてみると想像よりも多くの患者がやってきたので、エディットの毎日は大忙しになった。
「メランデルさん、転んで膝を擦りむいちゃってさあ」
「俺は指を切っちゃって」
「なんか歯が痛い」
こうして一気に三人来ることも珍しくない。虫歯に関しては専門外なのでお帰り頂いて、残る二人は男達がひしめく待合室に座ってもらう。
「あっお前……! 何だよ、見ないと思ったらここにいたのか⁉︎」
「お前こそ、擦りむいたくらいで治してもらおうとしてんじゃねえ!」
軍人達は体育会系の者が多いので、皆じゃれ合うように喋りながら治療の順番を待っている。声が反響して聞き取れないほど賑やかな待合室を出て、エディットは医務室に戻った。
「お待たせしてごめんなさい、ボリスさん」
「いや、大丈夫。なかなか大変そうだな、エディットちゃん」
軽症者が多い中で、ボリスの怪我は結構な重症だった。
五点着地の訓練で足を捻挫してしまったのだ。ボリスはロルフの連隊の中でも精鋭とされる第一大隊の所属なので、他とは比べものにならないほどの過酷な訓練を受けているらしい。
「ボリスさんに比べたらそうでもないわ。今治すから、じっとしていてね」
「ああ、頼むよ」
腫れ上がった足首を手のひらで包み込む。ロルフ以外の者に対しては、本来ならこうして触れた方が魔力効率がいい。
「はあ、捻挫なんてだせえよなあ」
「そんなことないよ、頑張った結果だもの」
「そう言ってもらえるとありがたいんだけどさ……」
魔力を流し込みながら雑談に興じる。ボリスが大袈裟なため息をつくので、エディットはつい笑ってしまった。
「ふふ。まあ、私たちとしても怪我なんてしてほしくないけどね」
一分ほど手を当て続けた末に治療は終了した。あっという間に治ったことに驚きの声を上げたボリスは、靴下を履きつつ考え込むような顔をした。
「なあ、魔術医務官の治療って触らないとできないんだっけ」
「基本的にはね。私の場合はできないわけではないけど、魔力の効率が悪いし時間がかかるから」
「ふーん……」
ボリスは軍靴の紐をきっちり締めて立ち上がった。礼を言われたので笑顔でどういたしましてと返したのだが、彼は何故だか神妙な顔をしている。
「なあエディットちゃん、軽い怪我の奴は容赦なく叩き返した方がいいんじゃねえの?」
「え? そんなこと……」
「これは100パー当たる予言なんだけどさ、これからも患者は増え続ける。この調子じゃあ下手すると患者じゃない奴まで来るぜ」
ボリスが何を言い出したのかわからず、エディットは首を傾げた。
もしかして何か大規模な訓練でも予定されているのだろうか。けれど、そういうことなら患者じゃない奴まで来ると言うのは説明がつかないし。
「どういうこと?」
「うーん、伝わらねえか。つまりだな……」
ボリスが困ったように頬をかいた瞬間、カーテンで隔てた待合室の空気がざわりと揺れ、すぐに静まり返った。
一体どうしたのかと二人して振り向いたところで、聞き覚えのある声が低く空気を振動させる。
「貴様の怪我が何なのか言ってみろ」
エディットは思わずボリスと顔を見合わせたが、彼もまたこの声が誰のものなのか一瞬で理解したようだった。
恐る恐る二人でカーテンの隙間から様子を伺うと、そこにはやはり仁王立ちになったロルフの背中があって、周囲の兵たちはすっかりすくみ上がって敬礼しているではないか。
「ほ、匍匐前進中に草で指を切ったのであります、大佐殿!」
指された兵がやっとの思いと言った様子で答えを述べる。エディットは明らかな怒気がロルフの肩から噴出するのを幻視したような気がした。
「そんなもの唾でもつけておけ、馬鹿者が!」
壁を大破させるのではと思う程の一喝が轟き、兵たちは掠れた悲鳴を上げる者まで出てくる有様だった。エディットもまた肩をすくめ、後ろのボリスも身を硬くしたのが気配で伝わってくる。
「これよりかすり傷で魔術医務室を利用することを禁ずる! わかったら動けぬ者以外はただちに戻れ!」
兵たちは一斉に短い声を返すと、蜘蛛の子を散らすように退散してしまった。
エディットは何が何だかわからないなりに、もぬけの殻になった待合室を見て衝撃を受けていた。たしかに軽症者が多い印象はあったが、まさか本当に全員動ける状態だったとは。
「まったく、うるさい部屋があると思ったらこの有様か」
ロルフが舌打ちをせんばかりの低音で吐き捨てる。そうしてようやくこちらを向いたと思ったら、エディットと目を合わせるなり目を細めた。
「……メランデル軍医少尉」
実際に軽症者だらけだったことから、この医務室がサボり場と化していたのは明らかだ。良かれと思って治療をしていたのだが、そのせいで皆が怒られることになってしまい申し訳ない。
エディットは罪悪感に身を縮めたが、ロルフはエディットの背後に視線を滑らせると俄に眉を顰めた。
「ヤンソン伍長か。我が連隊の所属だな」
「は……はっ!」
一度目を丸めてから敬礼したあたり、ボリスは名前を呼ばれたことに驚いたらしかった。大佐ともなれば数千の部下を率いる身なので、下士官まで記憶している者はそうそう多くないのかもしれない。
しかしロルフは部下を労る気はないようで、明らかに不機嫌そうに眉間に皺を寄せている。ボリスもここでサボっていると誤解されたのだと察したエディットは、無礼を承知で声を上げた。
「た、大佐殿! こちらのボリス・ヤンソン伍長は、訓練で捻挫をしてここに来ました! たった今治療を終えたところです!」
エディットは決死の覚悟でロルフを見上げた。とても厳しい人だけれど本当は思いやりがあって公平な人でもあるから、きっとわかってくれるはず。
しかしそんな期待はあっさりと空回った。ロルフはどうやらますます機嫌を急降下させたようで、グレーの眼差しに剣呑な輝きが宿ったのがわかる。
ボリスも上官の不興を買ったことに気付いたらしく、青くなった顔を引き攣らせていた。
「……そうか。大事がなくて何よりだ、ヤンソン伍長」
「お、恐れ多いお言葉であります、大佐殿! では、私はこれで失礼致します!」
勢いよく踵を鳴らしたボリスは、最後にエディットと目を合わせた。
(ごめん、後よろしく!)
声には出さなかったものの明らかに無責任な台詞を視線で伝えて、ボリスは医務室を出て行ってしまった。
——え、あの、ボリスさん⁉︎
エディットは絶望的な気分でボリスの背中を見送った。助けてあげたのに、この状況で置き去りにするのは酷くないだろうか。
しかしあまりのことに沈黙するエディットに対して、ロルフが掛けた言葉は予想外に優しかった。
「兵が世話をかけた。これからはかすり傷の連中は叩き出してやればいい。困ったら俺を呼べ、いいな」
「え? は、はい」
「よし。では、失礼する」
言うだけ言って、ロルフは医務室を出て行った。
それからはごく軽症の患者がいなくなり、エディットの仕事は随分と楽になったのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます