三、

 深灰シンハイは炎に包まれておりました。


 新月の晩に現れた名も知れぬ妖魔は、腕利きの術士を集めても到底太刀打ちできるものではありません。民家の石壁は焦げ、柱は燃え盛り、逃げ惑う人々が炎に巻かれ、術士の亡骸が積み上がる。吾子あこ様が目にしたのはそんな世界で、けれど彼女は逃げませんでした。


 己の命と引き換えに、吾子様は禁術を使って妖魔を討ったのでした。討ったはずでした。妖魔はたしかにたおれたのですから、間違えようがありません。


 ですのに、あぁ、なんということでしょう。


 妖魔の高らかな笑い声はやまず、けがれた爪が瀕死の吾子様の体をなぶり、汚穢おわいに満ちた手足で吾子様を暴き、彼女の全てを踏みにじって、それを主様に見せつけて、あぁ、許せない、我らが守るべき全てが傷つけられて壊れて、だのに我らはなんの抵抗もできず、許せない、許せない、許せない、守らなければならない、妖魔を殺す、それが叶わずとも、主様を、吾子様を、なのに主様の四肢が飛んで、妖魔は嘲笑あざわらって、吾子様が泣いているように見えて、主様は願いをかけて、慈悲深き龍はこれを聞き届け、ゆえに我らは、我らは、我らは。




 我らは、守らねばならない。




 深灰の大火が収まったのは、それから十日あまりが経ってからのことでした。

 妖魔は消え、主様は命をとりとめ、吾子様は生き続けておりました。

 まさにこれこそがこの上ない幸い、主様の望みそのもの。ゆえに我らは、存在し続けているのです。


 お二人を生かし続けるために。

 そうして全ての幸いのために。



 *****



 積み上げられた古書の山に書物を足し、シロは新たな書物を開く。

 蓮安リアン邸の板の間で、丸椅子に座ったイチルが遠慮がちに声をかけた。


黄龍コウリュウ、少し休んではいかが……?」

「大丈夫さ、イチル。朝はついさっき食べたばかりだろう?」

「そんなの、とっくの昔に終わってますわよ。もう昼の三刻を過ぎたんですから」

「おや、そうなのかい? だったら、君は休んでくれても構わないよ」

「わたくしではなくて、あなたの話をしているんですの。黄龍」


 イチルの厳しい物言いに、シロは少しばかり苛立って顔を上げた。彼女は怯えたように――けれど意を決したように口を開く。


「心配する必要はないのだわ。匣庭はこにわが全て消えたなんていうのは、ニノマエ蓮安リアンの嘘よ。だって、こんなにも残ってるじゃない」


 真夏の陽光を避けるようにして広げられた地図には、匣庭がらみの依頼とおぼしき場所に陶器の犬人形が置かれている。シロがはじめてここを訪れた時に、蓮安が得意げに説明していた入れ子の人形だ。


 あの時のことを思い出して、シロは目を伏せた。乱れそうになる息を無理矢理に吐き出す。


「黄龍、聞いているんですの」

「分かっているよ、イチル」頭をゆるく振り、シロはなんとか肩をすくめてみせた。「君の言うとおりだ。深灰にはまだ、疑わしい場所がいくつかある。なら、蓮安先生を……いいや、蓮安先生との約束を果たす時じゃない」


 殺すなんて、恐ろしくて言えなかった。シロは重い口を閉じて、意味もなく地図を眺める。


 中庭の古木が夏風に揺れて音を立てた。陶器の人形は、青黒い影に沈んでいる。


「黄龍、あなたは帰らないつもりなんですの」


 シロが再び顔を上げるのと、イチルが目をそらしたのは同時だった。彼女は揃えた膝の上でぎゅっと唐服の裾をにぎったあと、「ごめんなさい」とささやく。


「やっぱり、少し休憩しましょう。十無ツナシを呼んできますから、待ってらして」


 こんっと義足で床板を叩いて、イチルは逃げるように板間を後にした。


 気を遣わせてしまったのだと遅ればせながら気づいて、シロは不甲斐なさから後ろ向きに倒れ込んだ。


 まぶしい陽光から逃げるように目元を腕で覆う。夏の世界は明るく浮ついていて、とてもじゃないが耐えられなかった。三日前、蓮安は自分を殺して匣庭から出るようにと言った。その時からずっとだ。


 まぁ、いきなりというのもなんだからだな。準備が整ったら声をかけてくれればいいさ。まるでちょっと買い出しに行く時のような気安さで蓮安は付け足し、それ以外はまるっきり日常が戻ってきている。けれど。


「むぐ」


 重い溜息をつこうとしたところで、口の中に何かが入ってきた。驚いた拍子に噛んだそれは、ざらりとした舌ざわりで甘い。


 シロが飛び起きると同時、すぐそばに座り込んだ蓮安がひょいと両眉を上げる。


「おや、本当にうまくいくとは思わなかった」

「……な、にしてるんですか。蓮安先生」

「酒を買いに行くぞ」

「はぁ?」

ヤシロが飲み会をするって言い出したんだ」蓮安は膝の上にのせた懐紙かいしたたんで立ち上がった。「だが、あいつに酒を選ばせるとろくなことがない。というか、あいつを潰せるような酒じゃなけりゃ駄目だろう?」

「……今なんか別方向の本音が入りましたよね?」

「おいおい、細かいことを気にするなよ。もてないぜ」


 蓮安はやれやれと首を振って、身をひるがえした。


「さぁほら。とっとと準備したまえ。君には自転車を運転してもらわなきゃならんのだから」

「待ってくださいよ。まだ僕は行くなんて」

「さっき君が食べた薬丸だが」戸口で立ち止まった蓮安は、神妙な面持ちで言った。「私と一緒に来ないと腹を下す術をかけておいたからな」


 シロはさっと自分の腹へ手を当てた。夜色の女は、にやっと笑って部屋を出ていってしまう。


 遠ざかる足音と、縁側を照らす真夏の陽光と、いつからか軒先に吊るされた風鈴が鳴らす涼音と。


 実に夏らしい部屋で、シロは顔をひきつらせた。腹を下すなんて、そんな馬鹿げた術があるわけない。何度か言い聞かせたが、気のせいか手のひらの下が冷えてきたような気もする。


 いやいや、とシロは呟いた。


 呟いたものの、結局彼は蓮安を追いかけて部屋を出る。


 *****


 十無から受け取った冷茶を運んできたイチルは立ち止まった。地図と書物が散らばる板の間には誰もいない。


「あいつなら女と買い物に行ってるけど」


 聞き覚えのあるぶっきらぼうな声に、イチルはびくと肩を跳ね上げて振り返った。いつからそこにいたのだろう。縁側に座った姫子ヒメコが白い足を遊ばせている。


「ひっどい話だよね。きしちゃんが心配してるってのにさ」

「……あなた、いつからここにいたんですの」

「べーつーにぃー? ヒメちゃんがどこにいようが、きしちゃんには関係ないと思うんですけどお?」

「それは、まぁ、そうですけれど」


 だからって聞き耳を立てるのは失礼ではないか……と言おうか言うまいか迷ったところで、イチルの眼前に手が差し出された。


 びっくりして目を瞬かせれば、立ち上がった妖魔の少女は面倒くさいの言葉を顔に貼りつけて手をふる。


「座れば? 手くらい貸してあげる」

「……でも、靴がないわ」イチルは機械じかけの右足へちらと目をやった。「座るためには中庭に降りなければならないし」

「はぁ? そんな細かいこと気にすんなっての。こんなおんぼろ屋敷に、いまさら土埃の一つや二つ増えたって変わりゃしないでしょお?」


 姫子はひったくるように冷茶をのせたぼんをとりあげた。


 イチルは迷った挙げ句、つま先立ちで中庭へおりる。ぐらりと体が傾いたのは、先に下ろした右足に体重をかけた時だ。


 あ、とイチルは思う。腕を痛いくらい思い切り引っ張られたのはその後だった。


「ばっか! なにしてんの!」


 イチルを引っ張り上げて縁側に座らせた姫子は、憤懣ふんまんやるかたないといわんばかりにまくしたてた。


「信じらんない。ちゃんと確認しろよ。つーか、妖魔が来ねーからって平和ボケしすぎだし。頭のなか花畑なわけ?」

「ご、ごめんなさい……」

「謝罪はいらねーんだよ。そうじゃなくてさぁ、もっと気合をいれろっていうの? まったくどいつもこいつも」

「あの、姫子」

「なによ」

「あなた、私の心配をしてくれるんですの」


 姫子がぴたりと口をつぐんだ。これ見よがしに唇を曲げ、そっぽを向いて乱暴に縁側へ座る。


自惚うぬぼれんなよ、ばーか」

「ごめんなさい」

「謝んなっていってんでしょ」


 姫子は盆から冷えた烏龍茶を取り上げて一気に飲み干した。つまんねー、と呟く。その言葉はゆらゆらと陽光の中に漂っている。


 困ったように笑いながら、イチルは水滴の浮いた茶杯を手に包んだ。姫子がため息をつく。


「ほんとに、きしちゃんと話してるとえる」

「……そう」

「そうだよお。ヒメちゃんはさぁ、お綺麗な人間の化けの皮が剥がれる瞬間が大好きなの。綺麗事を言ったのと同じ口でさ、相手のことを罵倒するのなんて最高にウケるでしょ? なのに、きしちゃんは全然つまんない。猫かぶりがド下手で、すぐに泣くくせにさ」

「泣いてなどいないわ」

「強がりだってド素人じゃんか」姫子がうんざりとした声で言う。「なのに、全然、きしちゃんは汚くない。ほんとに、だから嫌いなのよ。だいっきらい」


 イチルは目を伏せた。そんなことない。自分は汚いと思う。だって、姫子を助けたのだって下心だ。シロを手伝っているのだって、この居心地の良い匣庭を去りがたく思っているから――そう、本当に帰りたくないのは、自分のほうだ。


 そう、思う。けれどそんなことは姫子も気づいている気がしたから、イチルは己を恥じる気持ちと、この日常が終わってしまうかもしれないという漠然とした不安とを冷茶と一緒に飲み込んで、言った。


「わたくしは、姫子は綺麗だと思うわ」


 一拍の沈黙。それから「しょうもねえ綺麗事」という返事がある。

 イチルは姫子の耳がほのかに赤くなっているのには気づかないふりをした。



 *****



 びた自転車の荷台に蓮安をのせ、彼女にあれこれと指図されるまま辿り着いた場所に、シロはしばし唖然あぜんとした。


 東区の限りなく西寄りのそこは、曲がりくねった薄暗い路地に露店が連なっている。店のすぐ後ろには背の高い西域風の建物が黒ぐろと突き立っていて、電線やら千切れた天幕やらが縦横無尽に渡されていた。


 空気はけぶっていた。露店のあちこちに積み上げられた蒸籠せいろのせいならばいいが、時折、明らかに人相の悪い男が怪しげな香を炊いている店もあったりして、本当にここで息をして大丈夫かと疑いたくなる。


「……めちゃくちゃ治安悪いじゃないですか、ここ」

「びびるなよ、舐められるぜ」


 荷台から飛び降りた蓮安は、夜色の唐服をさっそうと揺らして歩き始めた。シロも慌てて追いかける。


 色あせた慶祝けいしゅくの張り紙と落書きで飾られた壁、やけに粘ついた水たまりのある石畳、怒鳴り声とぼそぼそとかわされる商談の声。それらを抜けた先で蓮安が足を止めた。


 大小様々な瓶が所狭しと並ぶ店だ。蓮安が店主へ話しかける間に、シロは瓶の表面に見覚えのある酒名が書かれているのを見つけ、どうにもここは酒屋らしいと納得する。


月宵酒ゲッショウシュ。それが君の好きな酒か?」


 卓に片肘をついた蓮安が、にやにやしている。

 シロはため息をついた。


「お酒なんて、どれも同じでしょう」

「おいおいおい、聞き捨てならんな。酒道は奥深き道だぞ。十把一絡じっぱひとからげで語れるわけがあるまい」

「そういうのは社さんとどうぞ。それより先生。酒を買うなら、いつもの店で良かったでしょう。なんだって、こんな怪しげな場所に来たんですか」

「そりゃあ君、これさ」


 蓮安が得意げに言うと同時、店主が酒器を卓に置いた。彼女はさっそく一杯目を口にし、目を細める。


「なるほど。最初からガツンとくるやつか」


 至極真面目な顔で頷く彼女に、シロは半眼になった。


「なにしてるんですか」

「ちょっとした試飲さ」悪びれもせずに応じ、蓮安は酒盃をぐいとシロへ押しつけた。「君も飲みたまえ。店主とっておきの強い酒だ。名前が分からないから先入観に左右されずに選べる」

「いや、流石に昼間から飲むわけには」

「ちょっとやそっとじゃ酔わないだろう。ほら早く。次のが飲めないじゃないか」


 シロは仕方なく盃に残った酒を飲み干した。強い香りとともに、喉が焼けるように熱くなって思わず咳き込む。


 蓮安が爆笑しながら背中を叩いた。


「いい反応だ、シロくん」

「なっ、んですかこれ……! ほぼ酒精では!?」

「それが良いんだよ。冬国では暖まれるだろ」


 蓮安は空の盃を取り上げ、新しいものと交換した。


「ふむ。これは甘めだな。イチルちゃんとか好きなんじゃないか」

「未成年になに飲ませようとしてるんですか……ん、まぁ、たしかに花の香りがするし、飲みやすいですけど……」

「ふむ。社を潰すには可愛らしすぎる酒だな。それよりはほら、これとか辛めだぞ」

「うわ、本当だ。というか、なんか赤い……唐辛子ですか、これ?」

「どうだろう、シロくん。これを社にたくさん飲ませば、腹を下すと思わないか?」

「発想が子供すぎてびっくりするんですけど……というか、そんなにたくさん飲みますかね。それよりは普通の酒を選んだほうが良くないです?」

「出た。いかにも君らしい凡庸ぼんような回答だなあ! 店主、どうだね? おすすめは……ふむ、これか」

「あっ、これはすごく落ち着く味ですね。まろやかで」

「却下。誰が悲しくて、旨くて飲みやすい酒を選ばなきゃならん。それよりはこれとか。あとこっちでもいい」

「ちょ、ちょっと待って下さい。辛めの酒が好きなのはよく分かりましたけど、どれがどれだか……さっき飲んだのは四番目に出してもらったやつですっけ? こっちの盃のは五番目のほう?」

「あっ、待てシロくん。それはまだ私が飲んでないぞ!」


 ぐらっと頭を揺らすような酒精の強さに、シロは思わず口元をおおった。同じ盃を煽った蓮安も、たちまち顔をしかめる。


「これは……もしかしてあの憎き……」

「『うわばみよい』ですね……」


 記憶の中で、実に元気溌剌はつらつとした社が指をぐっと立てたような気がした。いやー、まったく飲み会明けの茶漬けほど至高の食べ物はないのだがねェ!


 二日酔いで目覚めたあの日を思い出し、シロは思わず蓮安と顔を見合わせる。


「……もう少し強い酒を選びましょうか」

「よしきた。待っていたよ、シロくん。君のその言葉を!」


 実に嬉しそうに頷いた蓮安の声が、酒選びを再開する合図となった。



 *****



 ぶえーっくしょい! という実に典型的なくしゃみを二度した社は、鼻をずずとすすりながら嬉しげに呟いた。


「いやはや、どこかの誰かが吾輩わがはいの偉大なる業績を褒めたたえている気がするのだねェ!」


 土間で湯気の立つ鍋をぐるぐると回していた十無は、おっとりと笑んだ。


「ふふ、どちらかといえば悪口のような気がするけれどね。くしゃみが二回だもの」

「なーはっはっは! 二度も一度も誤差なのだがねェ! さっすが吾輩、びっくりするくらいポジティブシンキング!」


 相変わらずの上機嫌さで返した社は、酒盃から酒をぐびりと飲んでから作業台に散らばった皿集めを再開した。


 残った野菜の切れ端を一つの皿に集め、汚れた皿とさして汚れていない皿とをきっちり分けて重ねる様子は、黒色眼鏡サングラスに絶妙にださく着崩した洋装という、ちんけな見た目には随分とそぐわない。


 人間は見た目によらないのだな、と十無は思いながら、鍋の蓋を少しだけずらして中身を確認した。もちろん、極力湯気に肌が触れないように注意してである。


「十無クンは、後悔はないのだがねェ?」


 十無は蓋を戻して振り返った。社は手ぬぐいで作業台を拭いている。なるほど、突然に問われるというのはびっくりするものだ、と少しばかり反省しながら、十無は苦笑いした。


「後悔というのは、蓮安先生の匣庭がいつか消えるという事実に対してかい?」

「それ以外にないのだがねェ。まったく三日前に聞かされたときは、さしもの吾輩もびっくりして開いた口が塞がらなかったものなのだよ」

「あなたが驚くのは、さして珍しいことでもないけれどねえ」十無はおっとりと笑った。「そうだね。私自身には驚きはないよ。だって他ならぬこの体を作ったのが蓮安先生なんだから」

「なるほど。すべて最初から承知の上というわけか。まったく、労働上の問題があるのなら真っ先に吾輩に申し出ればいいものを」

「あなたに言ったって、どうにもならないでしょう?」

「そんなことはないぞ。なんといっても吾輩は社長だからな。社員の働く環境をきっちりばっちり整えるが使命であるからして」


 社はずり落ちた黒色眼鏡を手の甲で押し上げた後、また一口酒を飲んで問いかけた。


「というわけで、先の質問なのだよ。一蓮安の式とはいえ、君にも命はあり、吾輩の立派な従業員だ。なれば、生活の不安から老後の心配にいたるまで、なんとでも主張する権利がある」

「面白い事を言うね」

「当然なのだがねェ。それで回答は?」

「回答も何も」


 十無はゆっくりと土間を見回した。


 元々は蓮安のために食事を準備するだけだった場所は、シロを迎えて食器の数が増え、社が出入りするようになって酒のつまみを保管するための棚を作り、イチルと姫子のために甘味を作る調理器具を買い足した。


 この家はずいぶんと変わった。きっと自分も。社がうっかりすみを滲ませたせいで出来た右頬のあざをそっと撫で、十無は目元を緩める。


「私は愛しいと思うよ、この時間を。でも後悔はない。十無という存在は人に似せて造られた贋作がんさくだけれど、本物の時間を過ごすことができたからね。そういうおじさんはどうだい? 蓮安先生の匣庭が消えれば、私と蓮安先生は消えてしまうわけだけれど」

「無論、寂しいし悲しいとも。吾輩、きっと大泣きしてしまうのだろうがねェ……まぁ、出会いあれば必然別れもありだ。なれば吾輩にできることは、別れが最良のものになるよう行動することなのだよ」


 十無は笑った。頼りになるんだか、そうでないんだか分からない回答は実に社という男らしい。


 さて、もうひと踏ん張りするかね、と社が言うので、十無も夕食作りを再開する。ありあわせの食材を集めて作った鍋は、ずいぶんと季節外れだけれど、いい酒のつまみになるはずだ。



 *****



 怪しげな露店街からの帰り道に、蓮安の機嫌良さそうな鼻歌が響く。


 日はずいぶんと傾いていて、茜色の空にはぽつぽつと星が灯り始めていた。錆びた自転車の軋む音にあわせて、ハンドルで酒瓶を下げた布袋がゆらゆらと揺れている。


 そういえば、とシロは自転車を漕ぎながら後ろに尋ねた。


「蓮安先生は酒の名前を御存知なんですか?」

「うん? そういえば聞き忘れたな」

「……聞き忘れたんですか。てっきり知ってるからいてないんだとばかり……」

「ま、そう問題でもなかろうさ。むしろ名前を知らない方が先入観に左右されずにすむってもんだろう?」

「でっちあげの言い訳だなぁ、いてっ」


 シロの背中をぺしりと叩いた蓮安は、「そんなことはないぞう」と実に真剣を装った声音で言う。


「名前というのは、古今東西どこの書物を紐解いたって重要なものなんだぜ。名を与えるは命を与えるも同義。真名を知られるは命の掌握。すなわち名を知るということは、名前の持つ性質に我らがとらわれるということでもある」

「はあ、そうですか」

「シーローくーんー?」蓮安の声が一気に不機嫌になった。「もう少し感情を込めて言いたまえよ。ねるぞ」

「あはは、心底どうでもいいなー」

「ひどい! こんなにも可愛いくて、美しくて、いたいけない私を無碍むげにするなんて!」

「人に下剤を飲ませておいて、よく言いますよ」

「なんだ、君。あんなものを気にしてたのか? あれはただの軟落甘なんらくかんだよ」


 蓮安邸目前というところで、シロはぐっとブレーキをかけた。振り返った先では、蓮安がどこ吹く風といった顔で、まさにあの懐紙を開いている。


 淡い桜色に色付けされた扇形の砂糖菓子がころんと出てきた。それをつまんでかじった蓮安は、にこりと笑う。


「ほろっと溶けて、じんわり甘い。さすがは花凛カリン堂の手土産だな。ほら、残りを恵んでやろう」

「むぐ」


 かじりかけの軟落甘を唇に押しつけられ、シロは仕方なく口を動かす。指先についた砂糖を舐めた蓮安が期待に満ちた眼差しで言った。


「どうだ、美味いだろう?」

「……そりゃあ、美味しい、ですけど」ほろほろと舌先で軟落甘を溶かすうち、シロは怒りを通り越して呆れてしまった。「だったら、なんであんな嘘をつくかなぁ……」

「ふふん、これもまた名前に縛られない良い例というわけだ」

「偉そうに言わないでくださいよ」

「あと君の反応が面白いから」

「絶対にそっちが本音だろ」


 シロがぼやけば、蓮安がにやっと笑う。まるでいつもと変わらないやりとりをしたところで、イチルの呼び声が聞こえた。


 蓮安邸に帰れば、宴会の準備はすっかり整っていた。大皿に盛られた湯気たつ食事は縁側に並べられていて、中庭には板と箱を重ねて作られた即席の卓がある。一体何事かとシロが問えば、イチルは肩をすくめた。


「宴だからと社が張り切ってるのよ」

「とかいって、きしちゃんものりのりだったくせにね」

「ちょっと、姫子! そういうことは言わなくていいのだわ……!」


 意地悪そうに舌を出した姫子を追いかけて、イチルが卓の奥に去っていく。なんだか楽しそうだなぁとシロが思ったところで、社に背中を叩かれ卓に案内された。


「やぁやぁ、しっかり酒を買ってきてくれているのだねェ! 重畳ちょうじょう、重畳! 吾輩もサプライズで締めの花火を用意しておいたのでな! さぁではさっそく、パーリナイッのスタートなのだがねェ!」

「ぱーりない?」

「宴会という意味だそうだよ」


 十無は鍋をよそった皿をシロへ渡し、にこりと笑う。


「買い出しお疲れ様。龍のお兄さんは何を飲むの?」

「あ、僕は烏龍で」

「私もだ、十無」シロの隣に座った蓮安は、水餃子に手を伸ばしながら言った。「冷えた茶で頼む。ついでに社には、じゃんじゃん酒を注いでおけ」


 流石にあからさますぎるんじゃないか、とシロが言いかけたところで、蓮安につま先を踏み抜かれた。


 日が完全に落ち、十無が並べた灯籠とうろうに火を灯してまわる。


 社の突発的な提案はしかし、思いのほか盛り上がった。酒を飲んで赤ら顔でべらべらと組織の長とはなんぞやを語る社は言わずもがな、かたわらの十無はさっぱり聞く様子もなく穏やかな笑みで相槌あいづちを打っている。


 縁側に座ったイチルと姫子が花火を持ち出してくれば、すでに酒に――散々話し合って、酒精の強さを除けば美味い酒を選んだのだった――手を出していた蓮安が目ざとくそれを見つけて飛んでいった。


 シロも興味をひかれて立ち上がる。珍しいあずまの国の花火だ。細くりあわせた唐紙の先では、炎の花がぱちぱちと音を立てながら咲き誇っている。


「なかなかに興味深いぞ、シロくん」地面にしゃがみこんだ蓮安は、花火片手にシロを見上げた。「これ、揺らすとすぐに火の玉が落ちてしまうんだ。なぁ、どっちが長く燃やすことができるか勝負しようぜ?」

「いや、なんでそうすぐ勝負したがるんですか。もうちょっと綺麗とか、趣があるとか、そういうのを楽しむべきでは?」

「いいから、いいから」


 呆れるシロの手に、蓮安は早速花火を一本押しつけた。いそいそと灯籠も用意する彼女の頬はわずかに上気している。これはほろ酔いだろうな、とシロは苦笑いした。


「合図で炎をつけるぞ。抜け駆けはなしだ。負けたほうは勝ったほうの言うことを何でも聞くこと。ちなみに明日は、果実たっぷりの豆花ドゥファが食べたい気分だな」

「始まる前から欲望がだだ漏れなんですけど」

「よーし、三、二、一」


 シロは蓮安とともに縁側の灯籠に唐紙の先を垂らした。炎がついたそれを引き上げれば、ぱちぱちと音を立てて炎の華が咲き誇る。なるほど、たしかにこれは少し揺らすと落ちてしまいそうだと、シロは気を引き締めた。


 ほんの少し酸っぱい、けれどどこか懐かしい独特な香りを漂わせて、ゆらりと白煙が夜に舞う。唐紙の先の炎は見るたびに形を変えて大輪の花を咲かせた。


 息を潜めて隣を見れば、蓮安の黒瑪瑙くろめのう色の目を柔らかな炎の華が彩っている。彼女の耳元から濡羽ぬれば色の髪がこぼれて胸元に滑り落ちた。それにシロは少しの間だけ見惚れた。この時間を大切にしたいと、自然と思った。


 そして、けれど、そこで思い出してしまった。


 もう匣庭はどこにも残っていなくて、ここに残っているのは蓮安の匣庭だけで。

 そして自分は、彼女を殺してここを出ていかなければならない。


「っ……」


 ひやりとした現実に、シロの息が揺れる。ぼとりと花火が落ちた。勝ち誇ったように顔を輝かせた蓮安の手からも炎が消え、ふっと世界が闇に沈む。


「ふふん、私の勝ちだな。まぁ当然の結果だから落ち込むな。君は明日、私に豆花をおごってくれればいい」

「…………」

「シロくん?」

「……すみません、ちょっと風に当たってきます」


 蓮安の顔を見ていられなくて、シロはふらりと立ち上がった。花火は消えても縁側の灯籠は灯されていて、はしゃいだ声も聞こえてくる。夜の世界は明るかった。けれど急に、なにもかもが薄っぺらく無意味に思えた。


 シロは逃げるように中庭を飛び出した。裏手の井戸にたどり着く頃には、すっかり息が上がっていて、シロは井戸べりに手をつく。花火の残り香が心臓をぎりと掴んで、息をうまく吸い込めない。


 大切にしたいだなんて、馬鹿げていた。


 鵬雲院ほううんいんに帰りたいのなら、自分は彼女を殺さなければならない。方法なんて唯一つに限られていて、人を滅ぼす力を使うほかないのだ。貫いた人間の命も、その人が関わってきた時間の全ても、何もかもなかったことにしてしまう、あの力を。


 駄目だと、シロは思った。それだけは、どうしても嫌だった。ならば、彼女の本当の願いを探して、納得させるしかない。そう思って、けれどそれだって結局は、彼女がいなくなってしまうことと同義だと気づいた。だから書物を漁ったのだ。探していたのは匣庭らしき噂なんかじゃなかった。なんとかして匣庭を存続させる方法だった。だが、そんなものあるはずがなかった。


 それに、どうしようもないと思い知らされて。なにも打つ手がないことに怖くなって。


 蓮安を失いたくないと、今更ながらに気づいてしまって。


「ならば、俺がなんとかいたしましょう。あの時のように」


 不意に響いた静かな声に、振り返ったシロは呆然と呟いた。


「……真武シンブ


 夜のとばりをぬって、冬の静寂をまとった少年が現れる。一つくくりの黒髪を揺らした彼は、龍の証たる翡翠ひすい色の目を細め、ほんの少しほっとしたように笑んだ。


「お久しぶりです、叔父上。やっとあなたに会えた」

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