肆幕 胡蝶の夢
九、八、
ひらりひらりと舞い落ちる桜が好きな子供でございました。
もちろん普段の
あなたは少ないたくわえ切り崩して上等な唐紙を買いつけ、そこに柔らかな筆先で我らの目と鼻を添えてくださいましたね。たいそう可愛らしく作っていただいたおかげで、吾子も四六時中、唐服の帯に我らを添え、ほうぼうへ連れ出してくださいました。そうそう、あの夜色の帯にございます。主様のお古で作った紐帯も、吾子はやっぱり気に入ってらっしゃいました。
彼女とともに眺めた景色を数え上げれば、きりがありません。
朝露に濡れる椿の花弁。露店に並ぶ、ほくほくと湯気のたつ
何より吾子は、主様に憧れおりました。彼女と来たら、四六時中、「あさひらきのはなをしおりにして、ととさまにあげよう」「ととさまはからいまんとうがすきだから、じぶんもそれにする」「もうすぐととさまがかえってくるから、やねのうえにのぼって、おそらをながめていよう」と、それはもう、「ととさま」という言葉を聞かない時はないほどでしたから。
おや主様、口元を押さえられてどうなされましたか。え。めったなことをいうんじゃない、ですか? いえいえ、我らは主様が命じたとおりに述べたまでのことですよ。
まぁ! そうやって背中を向けてしまわれて。そう恥ずかしいことではないでしょうに。吾子もきっと喜んで、もっと主様を褒めそやすはずです。
だからどうか、胸を張って微笑んでやってください。吾子は主様のその顔が、いっとう大好きなのです。
そしてそんなお二人を守るためにこそ、我らは存在しているのです。
*****
極光が刹那のあいだ空を彩り消える。彼とも彼女ともつかぬ人影はそれを見届け、今しがた沈黙したばかりの紙片を見やった。
そこは、倒壊した木造の家屋と、崩れた石柱に囲まれた地であった。
かつては龍をたたえた
真夏の満月の夜である。手の中の紙片はずいぶんと薄汚れていて、あちこちが焦げていた。これもやはり、往時は上等な唐紙に違いなく、持ち主には大切にされたことだろう。けれどやっぱり、形あるものはいつか終わりを迎えるのである。
ぴり、と音を立てて紙片をちぎった。別れの挨拶でもするかのように、彼とも彼女ともつかぬ人影は両手をゆったりと振って紙片を散らす。
ひらりひらりと花弁のように散ったそれは、地面に落ちる前に儚く消えて後には何も残さない。
*****
彼女がついてきたのはこれが原因か、とシロは苦々しく思った。
西区の民家は、婚礼の日を迎えて大変な賑わいを見せている。古く小さな家は、今日ばかりは朱金の吹き流しや布飾りで彩られていた。
そして、大人げないことに彼女も、である。
「いやー、シロくん! ここの饅頭は最高だぞ! なんでも
「なにが残しておいた、ですか」
シロは呆れ顔で、彼女――
「蓮安先生。僕たちは依頼でここに来たんですよ」
「分かってるとも。もちろん」
「じゃあ、依頼の内容は?」
「花嫁の部屋から妙な音が聞こえる、だろう?」小皿から一時たりとも目を離さぬまま、蓮安が力強く頷いた。「で、今日は婚礼当日でお祭り騒ぎだ。したがって、祝いのために用意された食事は美味しく食さねばならない。うん」
「うん、じゃないでしょうが」
返事の代わりに、蓮安は
試しに小皿を右に動かせば、彼女の視線もゆらりと右へ。
ならばと、小皿を左に動かせば、同じように視線は左へ。
ややあってシロはがっくりと肩を落とした。
「食いしん坊かよ……」
「私の……焼売……最後の……
「……あぁもう分かりました。分かりましたってば」
情けない声に根負けして、シロは小皿を卓に置いた。顔を輝かせた蓮安は焼売をそうっと醬汁に浸し、一口で頬張る。もごもごと動く頬に手を当てて、
妙に悔しくなって、シロも大皿から
「なぁシロくん、私もそれが食べたい」
「紙が擦れるようなカサカサとした音、ですよ」揚げ物の皿を蓮安のほうへ投げやりに押しやって、シロは依頼内容を繰り返した。「依頼人はこの家の主。婚姻を控えた娘の部屋から夜な夜な妙な音が聞こえる。気味が悪いから原因を調べて解決してほしい……と、こういうわけなんです」
「分かっていると言ってるだろう。君は心配性だなぁ。音の正体なんて、すぐに見つけられるさ。
「その適当な返事が不安なんですってば。あのですね、蓮安先生? たしかに
「本物だよ、これは」
小海老の揚げ物をごくんと飲み込み、蓮安はこともなげに言う。シロは口を閉じて半信半疑の目を向けた。彼女は得意げに箸先を振る。
「ここは匣庭だ。でなきゃ、私が来るはずがないだろう?」
「根拠は」
「客人の中に死人と生者が混じってる。そこの子供と、主人は死人だ。子供の隣にいる若者は生者。今しがた入ってきた年頃の娘は匣庭の幻」
「……見た目には分からないですけど」
「だが、このやりとりに聞き覚えはある、だろう?」蓮安はにやにやと笑った。「懐かしいなぁ。君と初めて会ったときも、こういう情けない面をしていたんだった。まさに犬みたいな」
「どこかの誰かさんは今と変わらずの食いしん坊でしたけどね」
「ふふん。
「
「状況は至極簡単さ。匣庭の主を探して、説得すれば万事解決というわけ」
「説得、って……」シロは驚きのあまり、痛みを忘れて顔を上げた。「え。消滅させるんじゃなくて、ですか?」
「お、シロくんもとうとう私に協力する気になったか?」
「そんなわけないでしょう……って、いいえ違います。今はそういう話をしてるんじゃなくて」
シロはまじまじと蓮安を見やった。
「何でも物騒な方法で解決しようとする先生から、そんな平和的な言葉が聞けるなんて……文明が追いついた感動とでも言うんでしょうか……」
「おい待て、シロくん。さては私のことを馬鹿にしてるな?」
蓮安が唇の端を引きつらせた時だった。
「やぁやぁ。やっと見つけたぞ、
嬉しげな声とともに、白髪の男が蓮安の腕を掴んだ。蓮安は
にこにこと笑う男はまさに、今日の依頼主だ。先ほど
ほんの少し嫌な予感がした。蓮安も目を細めて頷く。けれど、そんなシロ達の無言のやりとりに気づいた素振りもなく、依頼主の男は幸せそうな顔をしてシロと蓮安を見比べる。
「こうやって、未来の旦那と仲を深めていたというわけか。うんうん、実に良いことだ」
「未来の……?」
「旦那……?」
シロと蓮安はぎょっとして依頼人を見やった。そんな二人に挟まれて、初老の男は目元の涙を拭う。
「いいんだよ。わしも伝統を守れと厳しく言い過ぎてしまった。けれどもね、こうやって幸せそうなお前を見ていられるのなら、しきたりなんてどうでもいいんだ」
「ま、待て待てご主人」蓮安が慌てたように声を上げた。「なにか勘違いをしてるようだがね。私はあなたの娘ではないし、まして結婚なんて」
「そうだ! わしとしたことが気遣いが足りなかったな。若い二人だ。もっと静かな場所で仲を深めるべきだとも!」
「いや話を」
聞け、と蓮安が言い切る前に、ぱちんと周囲の空気が鳴って景色が変わった。楽しげに話す人が消え、朱金の派手な祝飾りが消え、山と盛られた食事が消え、代わりに現れたのは一組の立派な布団が敷かれた板間である。
シロと蓮安は言葉を失った。その時にはもう、依頼人の男の姿も消えていたが、お節介な声だけはよく聞こえる。
「人払いは念入りにしておこう。なに、
*****
「どこの二次創作よ」
「二次……なんですって?」
不格好な黒蝶の紙片から話を聞き終えたイチルは、向かいの座席の少女を見やった。
夏の日差しが差し込む
よく言えば味わい深い、悪く言えば長らく酷使された車体は、線路のつなぎ目を越えるたびに大いに軋み、座席の中敷きはこれ以上ないほど擦り切れ、手すりの塗装は
この有様に、肩で切り揃えた黒髪を持つ少女――
彼女は呆れの中に
「定番ネタでしょ。性交しなきゃ出られない部屋じゃん。超ウケるんですけ、もご」
「ちょ、ちょっと……!?」イチルはさっと顔を赤くして、慌てて姫子の口元を手で
「……ヒメちゃんは質問に答えただけなんですけど。つーか」
イチルの手を無造作に引きはがして、姫子は不愉快そうに唇を尖らせた。
「なんでキシちゃんはへーぜんとしてられるわけ? これでもヒメちゃんは、キシちゃんをつけ狙ってた泣く子も黙る
「術士に負けた妖魔、でしょう?」イチルは冷静に返した。「あなたは、あの女に従わざるをえないと聞きましたわ。だから、わたくしには危害を加えられないし、こうやって手伝いもしてくれている。そうじゃなくて?」
姫子はぐっと眉をひそめ、イチルの手を乱暴に突き放した。両腕を組んで窓の外を見やる。
「つまんねー、つまんねー、つまんねー! 笑っちゃうくらい平和ぼけしてんじゃん。
「信用なんて、
「善人ヅラの説教はいらねーんだよ。十二年経っても信用とやらを得られなかったくせにさ」
イチルは返事に詰まったが、幸いにも姫子へ目を閉じてしまった。依頼先に着くまでは寝るということなのだろう。
ほっとしながら、イチルは肩掛け鞄から依頼書を取り出す。紙片の
最寄りの駅名を確認し、飽きるほど読んだ依頼文を見るとはなしに眺める。
線路が東区の歓楽街に入り、車内がさっと夏影に染まった。開け放たれた窓から入り込む風に、少しばかり
蓮安は姫子を
仲が深まったというわけでは決してない。話すたびに姫子は不機嫌になり、イチルの心も沈んだ。それでも彼女はついてくるし、イチルも断れない。だからこうして、だらだらと不毛な関係が続いている。
ちりと胸が痛み、イチルは目を伏せた。不毛と、少しでも感じてしまった自分が嫌になる。
拒絶しきれないのは自分のほうだ。姫子は善人ではないが、イチルに興味を持ってくれた。それが、ほんの少し嬉しい。本当は。けれど同時に、彼女は自分の見たくないものばかり突きつけてくるから、怖い。
なにより姫子が自分を嫌っていることも分かっているから、やっぱり何か実を結ぶような関係にはならないとも思う。
がたんと車体が揺れ、路面電車が建物の入り組んだ地域を抜けた。差し込んだ夏の日差しの眩しさに惹かれて、イチルは依頼書から顔を上げる。
鉄塔の立ち並ぶ深灰の最東端は森を切り開いて造られた土地で、晴れ渡った空がよく見えた。
こんなふうにあっさりと浮かない気持ちが晴れればいいのに。思ったが、そんな弱音は依頼書と共に肩掛け鞄に押し込めた。
イチルは意を決して姫子を起こす。目的地はもうすぐそこだった。
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