第14話 あ、おしっこ……




 

 そんなことがあっても、藍子の朝子先生に対する気持ちは変わらなかった。

 さらさら揺れる長い髪、包みこむような笑顔、ミルク色の頬とピンクのくちびる、ピアスの耳、ピアノの鍵盤をなぞる細い指……なにもかもが大好きだった。


 だからこそ、かけっこの件で、またしても憧れの先生をがっかりさせてしまったという絶望的な思いに打ちのめされた藍子は、どうしたらいいかわからなかった。

 地面に叩きつけられた瞬間より、もっとずっと、心と身体がズキズキと痛んだ。


 手の平、膝小僧、鼻、ひたい、頬……傷ついたところがいっせいに悲鳴をあげている。なぜこうなったか、本当のことを、どうしたらわかってもらえるのだろう。


 けれど、しゃくりあげる藍子のすがたは、むしろ嘲りを招いてしまったらしい。

 教室に広がるくすくす笑いの波に呑まれた藍子は、小さな1枚の木の葉だった。


 奇妙な感覚が、立ち尽くす両脚をつつーっと走り抜けて行く。

 悲しみの泉のように湧き出た熱い液体が、太腿の内側を伝う。

 だれかに撫でてもらっているような、へんにほっとする感触。


 堰をきったようにほとばしり出た熱い湯は、内股から膝へ、ふくらはぎへ、くるぶしへと一直線に駆け抜けて行く。はっとわれに返った藍子は、身体を堅くした。


「なんか、くさくねえ?」


 裕也が尖った鼻先をひくひくさせる。

 クラスメイトが悲鳴をあげて立ち上がる。

 われさきに教室のうしろへ逃げ出して行く。


 ぽつんと取り残された藍子は、両脚の肌が急速に冷えていくのを感じていた。

 

 ――絶体絶命だね、おねえちゃん。

 

 なぜか弟の慎司の声が聞こえて来た。


 どういうつもりか、背後から忍び寄っただれかが、藍子をぐいっと横に押した。

 よろめいた拍子に、上履きに溜まっていた生ぬるい液体がざぶんとこぼれ出た。


「うっわ、きったねえ!」

「こっちへ来るなっつうの!」


「ばか、おれに近寄るなってば!」

「ちょっとぉ、あたしだってやだよ!」


 無秩序な烏の群れのように騒然となった教室。

 朝子先生が高くも低くもない冷静な声で命じた。

「藍子さん、保健室に行って着替えてらっしゃい」


 濡れた下着を肌に張りつかせたまま、渡り廊下の向こうの保健室まで歩いて行くのは至難に思われたが、教室でパンツを脱ぐわけにもいかないのだから仕方ない。

 おかしな格好に脚を開いた藍子は、長すぎる廊下をトボトボと歩いて行った。


 下校時刻を迎えた学校は、どこの教室もざわついている。

 いきなりドアが開き、とつぜんだれかが飛び出して来るのではないかと思うと、生きた心地がしない。歩き慣れた廊下がこんなに長いとは思ってもみなかった。


 消臭剤がきつく匂うトイレの横の渡り廊下を過ぎれば、保健室は目の前だった。

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