第11話 羽化する天使 その七



「青蘭」


 たくさんお別れをしたいけれど、時間がない。

 龍郎は最後に一度だけ、青蘭を抱きしめた。

 未来永劫、ずっといっしょにいたかった。生きるときも、死すときも、二人でならば、どれほど幸福だろうと。


「今すぐ、みんなで撤退しよう。クトゥグアをふせぐことは不可能だ。せめて天使たちと力をあわせて、しきりなおしだ。ヤツが召喚されれば、人間も、世界も、甚大な被害をこうむる。だけど、ここで犬死にするよりは」


 言いながら、いつ、ルリムのもとへ走りだそうとうかがっていた。


 クトゥグアは地面を割りながら、今や全体の半分以上、こっちに出現している。この召喚をとめることはできないと、誰の目にもあきらかだ。


 龍郎の案は現状ではベストのはずだ。青蘭もすんなり乗ってくれると思っていた。

 しかし、どうしたことか、青蘭はじっと龍郎の目を見つめ、視線をそらさない。何かがおかしい。もしや、龍郎の考えが見すかされたのだろうか?


「青蘭? いいね? みんなで逃げるよ?」

「うん……」


 うなずいたあと、青蘭は微笑んだ。なぜか、ドキリとした。なんだろうか? 青蘭が麗しいことなど、とっくに承知なのに?


「龍郎さん。大好き」

「うん。おれも。青蘭を好きだ」


 本来なら、このとき、龍郎は気づいていなければならなかったのだと、のちになって思う。

 いつもの青蘭なら、敗走だ。フレデリックと組んでいる必要はない。龍郎さんといっしょがいいと、言いださないことは不自然だと考えるべきだった。


「では行くぞ」と、ガブリエルが告げ、龍郎の腕をつかもうとした。


 その瞬間、龍郎が走りだそうとするより早く、青蘭が行動を起こした。いきなり、星流の形見のロザリオで、フレデリックの手をつきさしたのだ。左手だ。苦痛の玉をえぐりだした。


「青蘭!」


 龍郎の手をすりぬけ、青蘭はマルコシアスに一人でとびのる。マルコシアスは青蘭の考えを完全に読んでいたようだ。命じられることもなく、虚空へと飛翔する。


「青蘭! もどってこい!」


 ぐんぐん上昇するマルコシアスの背中から、青蘭は微笑んだ。その透きとおる笑みを見て、何をするつもりなのか、ハッキリわかった。


(まさか、青蘭——)


 まちがいなかった。

 クトゥグアの真上まで来ると、青蘭は叫んだ。


「アンドロマリウス。契約だ。クトゥグアを倒せ!」

「やめろ! 青蘭!」


 龍郎の声など届くはずもない。

 アンドロマリウスのしわがれ声が、やけに響く。


「いいぜ。おまえのどこをくれるんだ?」

「全部。残ってるところ、全部だ!」


 哄笑こうしょうがあたりをゆるがす。アンドロマリウスが歓喜にふるえている。


「やっと、このときが来たな。青蘭。今、おまえと完全に一つになる」

「そうだね。やっと……」


 巨大なクトゥグアを背景にして、微笑む青蘭の姿が輝きに包まれる。快楽の玉と苦痛の玉が、青蘭のなかで重なる。


 一つに。今こそ、一つに。


 まぶしい光輝がこの世界のすべてを真っ白に染めた。

 赤い玉と青い玉が渦をまきながら一体となり、卵を作る。青蘭の姿が殻のなかに消えた。


「青蘭! 青蘭ーッ!」


 龍郎の目の前で、愛する人は転生する。

 今このときから、青蘭は青蘭でなくなる。

 永劫にも等しい時のなか、青蘭の望んできたことであるとわかってはいた。それでも、悲しかった。


(イヤだ。青蘭。行くな。まだ、もう少しだけ……)


 青蘭の微笑がほのかに見えた気がする。卵のなかで、青蘭は笑っている。夢見ながら、歌っている。


 ああ、あの歌だ。

 ずっと昔、聞いたことのある……。


(青蘭。今、君は幸せなんだね?)


 ——龍郎さん。ありがとう。あなたのおかげ……。


(ほんとは、おれも君と一つになりたかった)


 ——ごめんね。でも、龍郎さんを死なせたくなかった。だから、これが最良の形だと思う。


(青蘭。君はおれのすべてだ。おれの肉体より、君の存在のほうが慕わしい)


 ——僕もだよ。


(また会える?)


 ——わからない。なんだか……眠くなってきた。もう考えられ……な…………。


 永遠の一瞬。


 やがて、天使は目覚める。

 すさまじい速さで転生し、時の彼方から降臨する。

 殻がひび割れ、輝きわたる者が現れた。


 まちがいなく、アスモデウスだ。堕天する前の神々しい光に満ちた、至上の美を誇る天使。


 その誕生の光に照らされただけで、クトゥグアは溶けた。

 ルリム=シャイコースの巣のなかにある悪しき者たちは、いっせいに浄化され、たちまち光の粒となり、アスモデウスの口中に吸われる。

 マルコシアスも転生のときに、青蘭と命運をともにしたらしい。姿が見あたらない。


「……青蘭?」


 龍郎はそっと声をかけた。

 姿は変わっても、まだそこに青蘭の魂があるのではないかと、かすかな望みをいだき。


 だが、かえってきたのは冷たい視線だ。

 アスモデウスは無感情に龍郎をながめ、無言のまま、いずこへか飛びたつ。


 ガブリエルが龍郎とフレデリックの腕をつかんでいた。


「龍郎。この世界は瓦解する。私につかまれ。ここを脱出するぞ」

「青蘭は……?」

「……あれは、熾天使セラフィムアスモデウスだ。転生前の記憶はない」


 言葉にならないほどのショックをおぼえる。

 記憶がない。

 では、あれはもう、青蘭ではないということか……。


 崩壊する世界から逃亡するあいだ、龍郎は何も考えることができなかった。





 第十二部『羽化する天使の音』完

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