りーちゃんと秘密

 本屋から離れ、駅前の広場に自転車を停めて、ベンチに腰掛けた。宵月と出会った公園に行こうかなと思ったが、彼女との別れ方を今、考えたくなかった。

 目の前にはタクシーがエンジンをかけながら客を待っていた。広場には騒ぐ大学生と、スーツ姿のおじさんと、スーパー帰りのおばさんたちが現れては消えた。消えた彼らの3分の1は駅に吸い込まれていった。帰路に着くのか、遊びに行くのか確かめようはない。おそらく彼らのほとんどが明日も存在しているが、確証はない。誰かは電車に飛び込むかもしれない。

 友達は、首を吊った。電車には飛び込まなかったし、ビルから飛び降りたりもしなかった。なぜだろう。なぜ、首を吊る死に方を選んだのだろうか。家族以外の誰にも迷惑をかけないと思ったのだろうか。父親と母親に迷惑をかけたかったのだろうか。

 そもそも本当に、首を吊って死んだのだろうか。首を吊ったというのは、噂でしか知らない。紅根の流した噂だ。手首を切ったり、薬を飲んだりしたのではないだろうか。そもそも自殺方法は、紅根が創作した可能性もある。

 だが、紅根に聞く勇気も元気もなかった。電話をしたら、あの件はどうなんだと怒鳴られるかもしれないし、創作を見破ったらそれこそ殺されるかもしれない。彼女からしたら、あいつに関する真実も秘密も嘘さえ宝物だろう。嘘を吐いている気もしないが。

 生きていればよかったのに。死なずに、ここで、俺の話を聞いてくれればよかったのに。音楽の話で盛り上がって、親の意見を無視すればよかったのに。失恋から立ち直ればよかったのに。秘密を共有できればよかったのに。

 俺は俯き、顔を両手で覆った。涙は出てこない。風邪のときとは違い、頭はさっぱりしている。だが、心は暗澹としていて、どこにも行こうとしていない。家にも帰りたくない。

 マスエさんの家に泊めてもらおうか。ありもしない悩みを聞かせて、甘えようか。

「おい」

 俺の弱さを叩き壊すように、背中に衝撃を受けた。その衝撃は、紙袋によって与えられたものだった。顔を上げると、その持ち主はよくクラスで見る女の子。俺の元彼女だった。

「まだ体調悪いの?」

 身長160センチもない元彼女を見上げたのは久しぶりだった。俺の心臓は音を立てて鳴っていた。

「体調は……悪くない。食欲はないけど」

「立ちなよ。立って、帰りなよ。風邪ぶり返すよ」

「立つ元気はない」

 俺がそう言うと、彼女は隣に座った。毛先がカールした可愛い髪がすぐそばにあった。

「秋頃から変だよね。やっぱり、あれが原因?」

「分からない」

「なんか気取った言い方。彼女が可愛いとそうなるの?」

「気取ってるかな?」

「気取ってるね」

「りーちゃんこそ、クラスでは猫被ってない?」

「みんなそうじゃない?」

「夏目さんも?」

「なっちゃんもそうかもね。でも、友達の前では違うよ。私もこんな感じ」

 俺は頷いた。

「で、帰らないの? それともさっきの女の人のところに行くか迷ってるの?」

 見られていたか。

「見てたの?」

「本屋にいたから。ヒロこそ、本屋の中、じろじろ見てたでしょ」

 気付かなかった。

「見てたけど、なんとなくね。理由はないよ」

「理由ないのに見てたの? 不審者?」

 俺は声を出して笑った。

「不審者だよね」

「また気取った言い方して」

 りーちゃんは紙袋を地べたに置いた。それで俺は不意に落ち着いた。

「今日は買い物?」

「まぁね。デートだけど?」

「デート⁈」

「そう。デート」

 意外だった。意外だったが、ここ数ヶ月は意外な事実ばかりを知った。

 おかげで免疫はあるはずだったのに、俺は自分が落ち込んでいるのに気付いた。

「男と?」

「当たり前でしょ」

「誰?」

「誰でもいいじゃん」

 俺は頭の中でりーちゃんの周りをぐるぐると回ってみた。仲のいい男子はいただろうか。何人かいるかも。

「まさか田中とか?」

「田中? バスケ部の? あるわけないじゃん。彼女いるよ」

 そうだよな。

「じゃあ、誰?」

「誰でもいいでしょ」

「教えてよ」

「嫌だね」

「俺の知っている人?」

「知らない人」

 そっか。知らない人か。誰だろう。

 俺が必死に考えているのをどう見たのか、少しの間を空けて、りーちゃんはあっさりと教えてくれた。

「年上。大学生」

 俺はその言葉を繰り返した。

「年上。大学生」

 意味はなく、何の効果もなかった。

「ねえ、何で死んじゃったの?」

「分からないよ。本当に。もしかして、という話はあるんだけど誰にも分からない。俺にもあいつの親にも分からない」

 暖かそうな赤い手袋をしている。プレゼントだろうか。

 俺はマフラーを外して、手に持った。

「全部、秘密だ。あいつは秘密をそのまま持っていった。俺にも教えてくれなかった」

「ヒロは、秘密教えてたの?」

「全く。深い話はあまりしなかったから。今思えば、すればよかった」

「秘密あるの?」

 俺はりーちゃんの顔をじっと見た。そして、目線を外した。

「俺の秘密なんてみんな知ってるでしょ。りーちゃんと別れた理由がそれだよ。夏目さんには、ひどいって言われたよ」

「ははは。でも、それが秘密なら私以外、誰も知らないはずだよ」

「じゃあ、なんで俺はひどいのかねえ」

「ヒロくんはなんで私と別れたの?」

「言わなくても、みんな知ってるでしょ」

「ヒロくんは浮気したから、私と別れたの」

「いや、違うよ。浮気はしていない。ある意味、浮気をしたくなかったから別れたんだよ」

「違うよ。真実はそうでも、私はみんなに浮気が原因って言ってる」

「なんで? なんで、そんな嘘つくの」

「本当のこと言ったらバカじゃん。私って、どんな理由でフラれてんのよ。ヒロくんだって、学校いられないよ。いや、私のほうがいられないわ」

「つまり、俺の浮気が原因で、俺たちは別れたということになってるのか。心外だな」

「はあ?」とりーちゃんは言って、俺の腕を握った。「ヒロくんも分かってると思ってたのに。危なっ。本当のこと言わないでよね。私たち笑い者になるよ」

 俺がすぐに頷くと、腕から手が離れた。残念だった。

 周りを見渡すと、だいぶ暗かった。日が落ちて、夜だった。

 あ、早くりーちゃんを帰さないと。いや、俺は彼氏でもない。こんはなこと思わなくてもいいか。でも、帰してやらないとな。

「暗くなったし、帰ったほうがいいよ。家族、心配するよ」

「大丈夫。連絡入れてるし、ヒロくんといたって言えばいいわ」

「なんで?」

「知らない。なんかうちの家族には評判いいんだよね、ヒロくんって。別れたって言ったら、お姉ちゃん、なんでか落ち込んでたわ」

「大学生とは付き合ってるの?」

「え? ああ、付き合ってない。でも、付き合うかも。またデートの約束したし」

「好きなの?」

「好きでもないのにデートしないでしょ」

 りーちゃんはこちらを見て、ふっと笑った。

「する人もいるか」

「まぁね」

「彼女、可愛いよね。ファミレスで見たよ」

「うん。かなり可愛いね。でも別れると思う」

「なんで?」

 俺はどこから話そうか悩んだ。宵月の性格か、思考か、俺の考えか。でも、どれも説明しづらい。……シンプルに答えるか。

「いつかフラれるし。付き合っていても、孤独だし」

「かわいそう」

 でも、宵月もそこは分かっているはずだ。

「友達もいなくなって、しんどいよ」

「新しい人見つけなよ。さっきの人とか」

「俺は」と言いかけてやめた。話を少し変えよう。

「りーちゃんと別れるとき、酷いこと言ったよね。酷いこともしたし」

「別にいいよ」

「なんで? あんなに怒っていたのに。『君は恋人じゃなくて、お嫁さんにしたい』なんて、ひどいよね」

「ヒロくんは悪くないから。自分に正直なのはバカだと思うけど、そんなこと前から知ってたからね」

「いや、ひどいでしょ」

 俺がそう言うと、沈黙が訪れた。りーちゃんはため息をつき、バイクはエンジンを吹かして去っていく。その音には誰も付いていかない。

「あのね」とりーちゃんは言って、また、ため息を吐いた。

「どうした?」

「最後ね、私、お嫁さんにしたい子って言われて『結婚するわけがないでしょ』って言ったよね」

「言ったね」

「あれね、いや、なんでもない。いや、やっぱり言うわ。殴っていいからね。ここじゃあれか、暗いところで殴る?」

「ごめん。さっぱり分からない」

 りーちゃんも俺と同じで会話が飛んでしまう癖がある。

「……あの、あれ。黙ってたんだけど、あの、実は……浮気したのは、私。……ごめん。ごめんなさい」

 世界が落ちていく。でも、俺はそれをすぐに認識して両手で土台から受け止めた。指を引っ掛けたのは地球平面説でいうところの象か亀のあたりだと思う。世界は落ちない。落としてたまるか。でも、俺自身を俺は支えられない。

 俺はりーちゃんの手を上から握った。

「分かった」

 りーちゃんはこちらを横目で見た。俺はその目を真剣に見た。目線を外されても見た。

「話せる? りーちゃんが今、話せるなら話してほしい。殴らないし、俺は泣かないし、落ち込まないし」

 落ち込まないし、なんだろう。そうだ。

「俺は死なない。誰の秘密を知っても、それが俺を傷つけても死なない。俺は誰も残したくないし、ひとりで旅立ちたくない」

「私、最低だよ」

「それはりーちゃんが思ってるだけでしょ。俺はそうは思わない」

 世界はまだ落ちない。ただ、ぐらぐらと動いてはいる。

「結婚するわけがないのは、私に資格がないから。結婚できるわけないってのが正しいか。でも、ヒロくんにも怒ってたからね。バカみたいな理由で、私をフってさ」

「うん」

 次の言葉を考えているのか、りーちゃんはじっと地面を見ていた。俺は何も促さなかった。

 一台のタクシーにスーツ姿の男女が乗った。手を繋ぎ、指を絡めていた。酔っているのか、上機嫌に騒がしいのが窓越しに揺れる人影で分かった。すぐそばにいるのに顔を近づけていて、今にも事が始まりそうだった。

 俺は自分の手を見た。思っていたよりも、小さく細かった。りーちゃんの手は変わらず可愛かった。ちんまりとしていて、柔らかい。手袋越しにも分かる。

 駅の世界がひと回りしても、俺たちは言葉を出さなかった。りーちゃんは泣かずにじっといた。俺も泣かなかった。悲しさより、二人がここにいる安堵感の方がまさっていた。

「どうしても断れなくて。いや、違う。一回だけならと思って。バレないかもと思って」

 きっかけがなく、話し始めた。

「いつ頃の話?」

「私がフラれるちょっと前かな」

「相手は?」

「ヒロが知らない人」

「俺は知らないほうがいいかな?」

「どうだろう」

 彼女は悲しそうに、どこか呆れるように呟いた。冷気に吐き出された言葉は、カラカラと音が鳴りそうなくらい、干からびていた。

「俺は知りたい」

「ネットで知り合った大学生」

 大学生か。

「俺よりかっこよかった?」

 冗談はまだ出てくる。しかし、せつない。

「ある意味ね。私たちより、大人だったから。ていうか、冗談やめてよ」

「ごめん」

「ネットで仲良くなった人で、オフ会しようってなって、それで遊んで、魔が差して」

「それで?」

「それで? ……それで、自己嫌悪して、連絡取らなくなって、ヒロにフラれた。自業自得というか、因果応報というか。バカみたいでしょ」

「バカじゃないよ」

「バカだよ。今日のデート相手、また大学生だし」

「ネットで知り合った?」

「違う。なっちゃんのお兄さんの友達」

 夏目。夏目よ。

「そう。それが、りーちゃんの秘密か」

「うん」

「他に知ってる人は?」

「誰も」

 紅根の気持ちが分かる気がするな。秘密の共有は、毒であり、快楽だし、時に薬だ。

「話してくれてありがとう」

「ごめん」

「俺の因果応報でもあるかも。でしゅ?」

「でしゅ、だって」

 りーちゃんは俺を見ながら吹き出して、俺も笑った。

「ヒロくん自身に秘密はあるの?」

「俺に?」

「うん。秘密」

 あるよ。

「ないよ。全部、正直にさらけ出してる」

「そっか。じゃあ、聞いたらなんでも答えてくれるの?」

「もちろん」

 俺はまだりーちゃんの手に手を重ねていた。答えたくない質問はするなと念じながら、大昔に何度も感じた手に懐かしさを感じていた。

「私と別れた後、最初は誰とヤッたの?」

「高一のときに、別の高校の先輩と。他県の大学に行ったから、別れた。勉強ができる頭のいい人で、ほぼ体だけの関係だった」

「次は?」

「高二の春。これも別の高校の子。年下で、すぐに俺がフッた。泣いてた。自分が嫌になったし、りーちゃんと先輩の強さに甘えてたと思った。でも、仕方がなかった。先輩はどちらかというと、最初から割り切ってたけど」

「どうだろうね。分からないよ。意外と寂しくて傷ついていたかも」

「そうか。難しいな」

「次は?」

「宵月。あ、今付き合ってる子ね」

「なんだ。思っていたよりと少ないわ。業平くらいかと思ってた」

「夜這いの風習が残っていたら、そうかもしれない」

「現代に生まれて残念だね」

「そうだね」

「気取ってるわー」

 そう言ってりーちゃんは笑った。秘密の暴露と懺悔ですっきりしたのかもしれない。ただ涙はすぐに出てもおかしくなかった。目薬でごまかしたいくらいだと思う。

「……じゃあ、そろそろ帰ろうかな。家族心配させちゃいけないし」

「そうしな。送っていこうか?」

「ううん。いい」

 手が離れて、りーちゃんは立ち上がった。

「ヒロも帰りな。死ぬなよ。生きろ。秘密ができたら話せ。話せる人をつくれ」

「分かった」

「あ、紅根さんとか適任なんじゃない? デートしたんでしょ?」

「デートはしてない。でも、それもいいかもしれないね」

 俺は立ち上がって、りーちゃんを見下ろした。りーちゃんは、決して背伸びはしないだろう。目も閉じないし、あの日のように俺の背中に腕をまわすこともない。

「じゃあね」

「風邪のこと気にしてくれてありがとう」

「病気には気をつけて」

「うん」

 りーちゃんはバイバイと手を振って行った。俺は弱く振り返し、姿が見えなくなるまで見送って、またベンチに腰を下ろした。

 世界はもう平穏で、平面から球体に戻り、回り始めていた。夜は暗く、外灯は明るく、人は歩いていた。たった一人か複数人で、時間を突き破って前に進んでいた。だが、俺は急に井戸の中に引き込まれていった。深く、月明かりは届かない。

 俺は財布からマスエさんから貰ったメモを取り出し、破った。額を抑え、携帯を開き、紅根に電話をすると、彼女はすぐにとってくれた。

「分かったの?」

「恐らく分かった」

「なに?」

 ああ、ダメだ。

「お、憶測の範囲から出ないけど。た、たぶん紅根に話すべきじゃ、ないけど」

「え? どうしたの?」

「そ、の前に、聞いて、ほしい」

 実は昔、りーちゃんと付き合っていて、浮気以外の、俺のバカみたいな理由で別れて、だけど、やっぱり、りーちゃんのことが好きで、今、そこで久しぶりに話して、うれしくて、苦しくて、どうすればいいのか分からない。やり直したいけど、無理そうだ。だから苦しいし、死にそうだ。死なないけど、誰かにこの事を言わないと死んでしまいそうだ。だから、話していて、だから、だから、なんだろう。

 紅根は途中から、相槌を打って聞いてくれていた。俺の拙く、支離滅裂な言葉はどう聞こえているのか。でも、考える余裕はない。

「連織くん。やることは簡単だよ。今から追いかけるんだよ。連絡先を聞くんだよ。フラれるかもしれないけど、だから何? 私だったらそうするし、連織くんにはそうしてほしい。分かった? 分からなかったらもう一回平手打ちしてやるからね。あなたも彼女も、まだ生きてるんだからね」

 もう私にはできないことなんだからね。

 そう言ったか、言わなかったか、判断できないまま電話は切れた。

 あいつは、俺と友達のままでいたかったから秘密を話さなかったのかもしれない。でも、俺はりーちゃんとクラスメイトや元恋人のままいたくない。

 つまり俺は、情けなくて、隠したい秘密を暴露しなければいけない。

 誰のためでもなく、自分のために、正直に。

 俺は少しずつ近づくりーちゃんの背中を想像した。そこには、切れそうになる息を、無我夢中に肺に押し込み、走る俺がいる。走り続けて、走り続けて、走り続ける。その後はどうなるだろうか。分からない。死の先も分からない。生の次も分からない。でも、進むことで解決することもあると、信じることにした。

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