自殺を止めてきたオタク青年の話。そのまま隣人にオタクへ染められた話。そんな彼が死んだ話。(仮)

二上圭@じたこよ発売中

01

 わたしは友人が多い。容姿に恵まれている自負もある。学力もそこそこ。クラスで一番の人気者といかないまでも、そのグループ内に所属しており、引き立て役としてではない平等な関係を築いていた。高校は別々となってしまったがイケメン彼氏だっている。しかも親の仕事の都合上、わざわざマンションを借りて一人暮らし中だ。


 まさに周りに羨まれる、順風満帆な花の女子高生生活をわたしは送っていた。


 そんな女子高生となって、初めての夏休み。


 その一日目、わたしはベランダから飛び降りようとしていた。


 誤解のないよう断っておくが、マンションが火事になったとか、暴漢が部屋に押し入っててきたとか、そんな逃げ場を求めての命惜しさからくる行動ではない。


 むしろその逆。


 この命を散らすための身投げである。正しい使い方を持って、このベランダから飛び降りようとしているのだ。


 二文字でこの行動を表すのなら『自殺』である。


 わたしの胸の中は今、失意とか悲哀とか絶望とか、そんな二字熟語で満たされているのだ。


 現実逃避をしようにもなにも手がつかない。普段楽しんでいる全てが虚しく感じる。テレビの中から上がる笑声が、わたしへの嘲笑にしか聞こえないほどに。


 息をしているだけでも苦しいほどに、わたしの心は追い込まれていた。


 ベランダに出たのはなんとなく。死にたいからと外へ出たのではない。


 たまたま出たその先で、ここから飛び降りたら楽になれるのでは? そんな衝動に襲われただけだ。


 なにも考えず、後先考えず、気づけばわたしは身を乗り出していた。


 手すりに跨るように、その半身を向こう側へと乗り越えたのだ。


「あ……」


 そこで目に入ったものを見て、ついそんな声を漏らしてしまう。


 目に入ったというよりは目があった。


 大人というにはまだ若く、子供というほど幼くない。新社会人ではなく大学生。そんな雰囲気を漂わせていた。


 坊主頭のそんな隣人男性は、部屋の境界線たる仕切り壁を正面に据え、椅子に腰掛けていた。タブレットを片手に、お酒らしき缶に口をつけようとしているところだ。


 最初からその目は見開かれており、時が止まったように微動だにしない。


 目と目が合ったまま、隣人に引きづられるようにしてわたしもまた硬直していた。


 一秒、二秒、三秒、そして四秒。


 止まっていた時を動かしたのは、隣人でもなければ、わたしの意思によるものでもない。


「わっ、わっ、わっ!」


 手すりに跨ったままでいた身体の、崩れたバランスである。


 マンションの内側ではなく外側。予定通りに投げ出さんとされたのこの身体を、必死に維持しようとしたが無理だった。


 わたしは落下した。


 地上四階の高さからではない。ベランダ床のコンクリートに叩きつけられたのだ。


「いった!」


 後頭部を打ち付けられて、その痛みにもだえ苦しんだ。


 時刻は夜の十一時。近所迷惑も甚だしい。うるさいぞと玄関を叩かれても、おかしくないほどの悲鳴であった。


「お、おい!」


 玄関からではなく、仕切り壁の向こう側から声があがる。


「大丈夫か?」


 ただしそれは苦情ではなく、わたしの身を案じるものであった。


 女子高生が住む部屋のベランダを、隣人男性が覗き込んでくる。本来であれば管理人に対して苦情をつけるどころではない。通報しても許される事案だ。


 が、今回ばかりは自分の責任である。


「……は、はい」


 嫌なところを見られてしまいバツが悪い。


 二つの意味で頭を抱えながら、隣人男性とお見合い状態となってしまった。


 先程のようにまた時が止まったが、すぐにそれは動き出す。


 今度はわたしに起因するものではない。


「そうか」


 とだけ言って、向こうがあっさりと顔を引っ込めたのだ。


 ……え、それだけ?


 思わぬ向こうの対応に、わたしはキョトンとしてしまった。


 わたしがやろうとしたことは、誰が見ても言い訳のきかない身投げ。どうしたんだ、なぜこんなことをしたんだ、と聞かれたくないことを聞かれるのだと信じてすらいた。余計なお世話よ、わたしのことなんて放っておいて、と喚く気ですらあったのに。


 そうか、とだけ言い残して、余計なお世話もせず放っておかれてしまったのだ。


 飛び降り自殺を図ろうとした、明らかに問題を抱えていそうな女の子。しかも隣人。


 普通、なにもせず聞かずに放っておく? 


 失意、悲哀、絶望。


 胸の中で満たされた二字熟語たち。ここに一つ、ふつふつと腹の底から湧いて加わったものがある。


「ちょっと待ちなさいよ!」


 憤懣である。


 衝動に促されるがまま、わたしはそんな怒声を張り上げた。


「ここは普通、なにをやってるのか話を聞くところでしょう!?」


 近所迷惑などなんのその。引っ込めたその顔を追うように、今度はわたしのほうが隣人のベランダを覗き込んだ。


 愕然とした。


 また椅子に腰をおろしていたその姿は、これでもかと寛いでいた。タブレットを手にしながら、お酒らしき缶をグイッと呷っていた。


 わたしの顔を見るなり、その眉間には深い皺が刻まれ、


「面倒事になど関わり合いになりたくない」


 バッサリと隣人はそう切り捨ててきたのだ。


「め、面倒事って……」


 いやいやいやいや、と。


 未遂で終わったとはいえ、隣人が飛び降りようとした現場を目撃しているのだ。普通その一言で片付けるか。私が死のうとしてから、まだ二分と経ってないのに。


 もしかして……わたしがやろうとしたことの意味をわかっていないのか?


 ベランダの手すりを跨ぐその意味。それを勘違いしているのかもしれない。


「そっちに侵入しようとした泥棒だとは思わなかったの?」


「だったらもっとこちら寄るだろ」


 こんな勘違いしていないかと問うも、あっさりと違うと断じられた。まあ、そんな勘違いをしていたとしたら、そうかの一言で終わらすわけがないか。


「た、確かにそうだけど……じゃ、じゃあ私のやろうとしたことは、わかってるの?」


「SNS映えを狙った自撮りだろ。くだらん」


「違うわよ!」


「愚か者が……そういうことにしておけばいいものを」


 と、隣人は小声でそんなことを呟いた。


 やっぱりわかっていたのだ。わたしが手すりを跨いだ先で、なにをしようとしていたのかを。わたしが自殺しようとしていたのを、正しく理解していたのだ。


 それをそうかで終わらし、見なかったことにしてくれた。余計な世話を焼こうとせず、あえて放っておいてくれたのだ。


 果たしてそれは彼なりの善意か、はたまたその主張を額面通りに受け取ればいいのか。


「私、次はやるかもしれないから……」


 胸の内で蔓延る負の二字熟語。それらがごちゃまぜとなり、自分でも制御できない感情に流されたわたしは、気づけばそんなことを口にしていた。


 なぜ話を聞いてくれないのかと拗ねる、構ってちゃんのように。


「……はぁ、わかったわかった。止めてやる」


 大きな大きなため息を、嫌々そうに隣人はついている。


「ここからの飛び降りは止めておけ。四階とはいえ、落下先は雨上がりの芝生だ。よっぽど運が良くなければ楽には死ねん。無駄に痛い目に合うどころか、運が悪ければ半身不随。首から下が一生動かなくなる可能性もある。そうなると一生、自分の意思で死ぬに死ねんぞ」


 淡々とした早口で、隣人はそんなことを語りだした。


 命を尊いものとして扱う、社会模範な説教ではない。ここから飛び降りるデメリットをつらねあげたのだ。


「後は電車に飛び込んだり、人を巻き込むかもしれないやり方もやめておけ。そのときに出た損害補償は遺族へ向かう。貴様の場合は両親がそうだろうな。娘の死に泣き明ける暇もなく、そんな対応をしなければならん。まさに泣くに泣けんというわけだ」


 次もまた、その口が語るのは自殺のデメリット。


 自分だけで済む問題ではない。社会を巻き込んだ自殺が、家族にどのような迷惑がかかるか。わたしの身を一切慮らない正論に、つい怯み苦い顔をしてしまった。


「人に迷惑をかけず自殺することなどそうそうできん。川や海に飛び込んだり、樹海でひっそりやったところで、死体が見つかれば始末をつけんとならん。そのときにかかる費用は、自治体の血税から支払われる。死にたいというのなら、人の迷惑をよく考えてから死ね」


 徹頭徹尾わたしの身、心を案じることなく、正論だけをまくし立てられた。


 もうわたしになにも言うことはない。興味を失ったように、あっさりとタブレットへその目を戻した。


 わなわなと身体が震える。


 文字通り死んで楽になりたいほどに、この胸は辛い二字熟語で満たされている。それなのになぜ、こんな正論を浴びせられなければならないのか。


 なぜこんなわたしを労ってくれないのかと、苛立ちと憤りが込み上がってきた。


「わたしのなにを……あんたにわかるって言うのよ!」


 逆ギレなのはわかっているが、それでも抑えられないものは抑えられない。


 人の事情と気持ちも知らず、なぜこんなにも酷い正論を吐き出せるのかと。


「自殺しようとした動機のことか? 彼氏に捨てられたとか、奪われたとか、二股をかけられてたとか、どうせその程度の話だろ」


 隣人はタブレットから視線を逸らすことなく、あっさりと正鵠を射てきたのだ。


 わたしがなぜ楽になりたいか。それが見抜かれていることに愕然とした。


「思春期女子の死にたくなるような悩みなんて知れている。対人関係の悩みだ。損害補償の話が出たときに怯んだから家族関係ではない。貴様のようないかにもな陽キャ女子は、学校内での立ち回りが上手いに決まってる。なら友人、上下関係で死にたくなるほどの失敗はそうは起きん」


 淡々とした早口。


「そうなると残されてるのは恋愛沙汰だ。自殺の強い動機としてパッと思い浮かぶのは、先に上げた三つくらいだ」


 全てその通りである。


 中学校のときから好きだった同級生がいた。わたしもそうであったが、向こうもまた人気のある男の子だ。心地よい関係が崩れるのを恐れて、ずっと友人のままで我慢してきた。


 そこに進路が別々となる由々しき事態が訪れた。


 心地よい関係の維持と、一歩踏み出したいという彼への想い。後者に大きく天秤を傾いたのは、卒業式の日であった。


 このまま離れ離れとなり別の道へと行くくらいなら、当たって砕けろ。


 彼に告白したわたしは、無事恋仲へと至れたのだ。


 人生最大の幸福であった。


 だがわたしたちの間には、物理的な距離が少しばかり開いてしまった。別の高校となってしまっただけではない。わたしが引っ越しをしたのだ。


 親が海外転勤となった。飛ばされたのではなく栄転であり、三年後には戻ってこられる。けれどわたしがそれについていくのは、生活だけではなく学業にも支障が出る。わたしは日本に残ることになった。


 けれど我が家は社宅である。近隣住民全員会社の関係者。わたしが一人そこに残り、近所付き合いで問題が起きようものなら、父の仕事にも支障がきたす。


 結果として高校からほどよく近い、父の友人が保有するマンションを借りる流れとなった。


 わたしとしても父の会社関係者がひしめく場所で、一人取り残されるよりずっと気楽である。なにより彼氏を気軽に連れ込めるのだ。まさにウキウキであった。


 それでも距離の問題が出てしまったので、週に一度会えればいいほうだ。彼のことは大好きだったし、電話もいっぱいしたし、今年の夏休みは彼に全てを捧げ、大人の階段を登る気ですらいた。


 それが裏切られた。


 夏休みの一日目。早速それを満喫せんと、友人たちと街に出たとき、彼が他の女と腕を組んでいたのを目撃したのだ。


 もちろんひと悶着が起きて、友人たちはわたしの全面的な味方をしてくれた。けれど彼はまともに話をしようともせず逃げ出したのだ。


 一週間前に、初めて唇を交わした先でこれである。言い訳の連絡すらも未だに来ない。


 こうして夏休みの一日目から、わたしは絶望の底に叩き落された。


 大好きだった人に裏切られたという想いが、わたしを一度、自殺すれば楽になれるのではと追い込んだ。


「この手の動機は時間が経てば、その内怒りのほうが勝ってくる。死ぬかどうかはビンタを一発を入れてからでも遅くはないぞ」


 垂れているのは説教ではなく正論なのだろう。


 ぐうの音も出ない。ただし感情論を封じてくるような偉そうな態度が、とにかく気に障るのだ。


「……あんたのそれ、ロジハラだから」


 辛うじて出てきた言葉がそれだった。


「ロジハラされて怯むなら、なおさら一過性の衝動だったというわけだ」


 鼻で笑いながら、なおもロジハラしてくる。


「なら死ぬのはなおさら止めておけ。貴様のような陽キャ美少女が、くだらん男のせいで散るのは割にあわんぞ」


 と、最後の最後で正論ではない、自身の観点からの主張であった。


 わたしを美少女だなんて表しながら、死ぬのは割に合わないと。


 可愛いとか綺麗とかなんて言葉は、今までいくらでもかけられてきた。今更男に容姿を褒められたところで、喜んだり胸がうずいたりすることなんてない。


 ただ、取り入ろうとするのでもなく、おべっかでもなく、当然の事実としてそう評されたことに、つい心が乱される。それこそうぶな少女のように『い、いきなりなにを言い出すのよ!』とベタな台詞を、赤面しながら吐き出しそうになってしまった。


 そうやって、死ぬのは割に合わない。なんでわたしが死ななければならないのか。


 隣人によって確かにそうだと思わされてしまったのだ。


 もうわたしの中からは、死んでまで楽になりたいなんて衝動はなくなっていた。


 けれど……胸の苦しみまで消えたわけではない。


 時間が経てばその内怒りのほうが勝ってくるというが、今この瞬間は、負の二字熟語たちがこの胸に蔓延っている。


 息をしているだけで苦しい、思い出すだけでも泣き出しそうになる。


 いつまでこんな辛苦を抱えなければならないのか。


「はぁ……ここまで言って、放って置くのも無責任だな」


 と、自らの胸の内と対峙していると、やれやれといった感じの声が上がった。


「おい、貴様、パソコンくらいは持ってるな?」


 タブレットに向けられていた興味が、ようやくわたしに割かれたのだ。こちらの姿を捉えたと思ったら、いきなり貴様呼ばわりである。


 少し、動揺してしまった。


「そ、そりゃあノートパソコンくらい持ってるわ」


「DVDドライブは付いてるか? 今日日、薄型パソコンにはついてないこともあるが」


「ちゃんと付いてるけど……」


「待っていろ」


 一方的にそう言い残し、隣人は部屋の中へと戻っていった。


 ポカン、とした。


 パソコン、DVDドライブ。


 会話を吟味すると、隣人が重要視しているのはこの二つ。それを確認して待つよう言い含めてきたが……一体隣人はなにをしようとしているのか、その考えがまるで読めない。


 スーパーやコンビニ前でよく見る忠犬のように、黙って隣人が戻ってくるのを待つ。


「なにもしないで考え込むから、くだらんことを延々と考えるんだ」


 待たせたな、の言葉もなく戻ってきた隣人の第一声だ。


「でも普段やっていることはなにも手につかんのだろ?」


「なにこれ……」


 渡されたのは中身入りのメディアケースだ。


 よくある音楽CDで入っているような透明なプラスチック製。


 中身のディスクにはDVDを示すロゴと、


「蒼き叡智の……魔導書?」


 作品名が記されていた。


 映画か、はたまたミュージックビデオか。タイトルからはまるで想像がつかない。


「俺の人生を変えた神ゲーだ。なにも手つかずに考え込むくらいなら、無心となってこれをやれ」


 得意げに隣人は、このDVDの正体を口にした。


 神ゲー。


 普段耳にしない単語でこそあるが、これがゲームであることは察せれた。パソコンを持っているかの有無を聞いてきたくらいだから、ゲーム機が必要なく、パソコンでできるゲームなのもなんとなく察した。


 ただ、


「私……ゲームとかやらないんだけど」


 ゲームセンターに行っても、精々プリクラを取るくらい。今まで無縁であったものをポンと渡されても困るだけだ。


「難しい物じゃない。マウスをクリックするだけだ。紙芝居みたいなものだと思え」


 なのにゲームが得意じゃない、と隣人は受け取ったかのか。それだけを言い残すと満足したように、部屋へと戻っていってしまった。


 あっけにとられたわたしは、カーテンを閉められていく様まで見届ける。


 このままこうしていても仕方ない。室内へと戻ると、そのメディアケースを机にポンと置いてテレビをつけた。


 気晴らしになる番組はないかと、延々とチャンネルを回し続ける。そんなものはないのだと思い直すと、一分も経たずに電源を落した。


 スマホを見ると、メッセンジャーアプリから沢山の通知が届いていた。今日一緒に浮気現場を目撃した友人たちからだ。


 内容は慰めの類なのはすぐに察せれた。心配してくれるのは嬉しいが、今はそれに返事をする気力がない。彼女たちには悪いが、このまま未読無視させてもらった。


 そうやってまた、わたしはベッドに倒れ込む。


 なにも考えたくないのに、嫌でも彼のことばかりが思い浮かぶ。


 こんなにも大好きだったのに裏切られた。胸が苦しい。目頭が濡れているのを感じた。


 気を紛らわせたいのになにも手がつかないのが、なによりも辛い。 


『でも普段やっていることはなにも手につかんのだろ?』


 ふいに、先程の隣人の言葉が蘇る。


 ベッドから起き上がり、渡されたメディアケースを手にとった。


 そろそろ日付が変わろうとしている。


 いくら夏休みとはいえ、生活リズムを狂わしてまで無駄な夜ふかしはするつもりはなかった。けれどこのままだと眠れず、延々と嫌なことを考えるのは目に見えている。


『なにも手つかずに考え込むくらいなら、無心となってこれをやれ』


 ものは試しだと、わたしはパソコンをつけた。


 普段は調べ物をしたり、動画サイトを見るくらいにしか使わないこれに、ゲームのDVDをセットした。


 ディスクが高速回転する音。


 それを耳にしてしばらくすると、


「うわっ……」


 つい顔を歪めてしまうほどに、変な声を出してしまった。


 DVDを読み込んだ結果、勝手に立ち上がってきたインストール画面。そこには金髪の女の子のイラストが、大々的に占めていたのだ。


 青い刀身の剣、それを手にしたそのキャラクターは、まさにいかにもなあれである。


 そう、あれ。いつも教室の隅でこそこそと盛り上がっている、お近づきにはなりたくない男子たち。まさに彼らが好きそうなキャラクターだ。


 萌えキャラ。そのくらいの言葉はわたしでも知っている。そしてこういうものを好きな人たちを指す総称もわかっていた。


 オタク。わたしとは絶対相容れない人種である。


 こんなゲームを持っているくらいだし、あの隣人はオタクなのだろう。よくよく考えると喋り方もなんか変だったし。ちょっとおかしい人なのかもしれない。


 わたしのパソコンに、こんなゲームなどインストールしてたまるか。今すぐ郵便受けにでも入れて返還しよう。そして隣人とは二度と関わらないよう気をつけなければ。


 と、思ったのだが、普段なら絶対にやらないことをすれば、なにも考えず無心になれるのでは?


 そんな気の迷いが、インストールボタンを押してしまった。


「ちょっとだけ……試してみよっかな」


 楽しむためではない。


 あくまで現実逃避の手段として、オタクなゲームに手を出してしまったのだ。


 紙芝居みたいなものだと思え。始めてすぐにその意味がわかった。


 このゲームは小説のような、文章だけを延々と読むものではない。絵や音を前提とされているものだから、演出として視覚的にもわかりやすいし、聴覚にも訴えかけられる。マンガやアニメの好いとこ取りしたようなものだ。


 ゲームとは言うが、やることは文章をただクリックするだけ。ただ途中に選択肢が出てくることにより、自らが選んで話を進めている、という感覚も得られるのだ。


 最初は現実逃避の手段として、無心となってクリックをし続けていた。テレビのように受動的に情報を取得しているのではなく、能動的に情報を得ているのが良かったのかもしれない。文章を読み、キャラクターの声を聞いている内は、余計なことを考えずに済んでいた。


 そして物語を楽しむゲームである。無心はいつしか先を知ろうとする興味に移り、そして没入感へと至っていた。


 日が出ていることに気づいたのは、空腹を感じたときである。あれ、今何時だろうと壁にかかった丸時計を見ると、短針が一周していたのだ。


 冷蔵庫の中にある物をお腹に詰め込むと、パソコンに向き合うことなく、ベッドへと倒れ込んでいた。眠りたかったわけではない。むしろ眠ると嫌な夢を見るかもしれないと、このまま起きていたかったくらいだ。


 ちょっとした休憩のつもりだったが、電池が切れたようにそのまま意識を失った。次意識を取り戻したときは、これまた短針が一周していたのだ。


 顔を洗うと、再びパソコンへと向き合った。


 短針が一周し、お腹にご飯を詰め込み、電池が切れて短針が一周する。


 二日ぶりのシャワーを浴びると、パソコンへ向き合った。ゲームの続きをやろうとしたのではない。パソコンに入ったままのDVDを取り出して、ケースへと収めたのだ。


 それを手にしたまま、ベランダへ出る。


 手すりの向こう側に身を乗り出した。ただし二日前のように跨ったのではなく上半身だけ。隣室のベランダを覗くために。


 なんとなく、いそうな気がしたのだ。


「……こんばんは」


 一昨日の姿そのままで、隣人はベランダで寛いでいた。


 覗き込んできたわたしに驚くこともなく、失礼な奴だと渋面したり憤ることもない。


「神ゲーだっただろ?」


 ただ、得意げに口角を吊り上げたのだ。


「自信満々ね」


 肯定も否定もせず、どこからそんな自信が湧いてくるのかと問いかけた。


「蒼グリは神ゲーだからな。一度始めたら最後、夜通しでやってしまうのも仕方あるまい」


「なんでそれを……」


 蒼グリとは、あのゲームの略称なのはすぐにわかった。


 DVDには蒼き叡智の魔導書としか書かれていなかったが、ゲームのタイトル画面には、魔導書の上にグリモワールとルビが振られていた。


 蒼き叡智の魔導書グリモワール。それがあのゲームの正式なタイトルだ。


 そんな蒼グリをやらない可能性を考慮していないどころか、夜通しやっているのを知られていたのだ。監視されていたのではないかと、顔を歪めるほどにゾッとした。


「覗いていたわけではないぞ。部屋の電気がついた時間を考えれば、昼夜逆転してしまったのは想像に難くない」


 わたしの内心を見抜いた隣人は、すぐにそれを否定した。


 こちら側の仕切り壁に向かい合うよう、隣人は椅子を置いているのだ。日が没した時間ならば、監視する意図がなくても、部屋の明かりがついたかどうかくらいは嫌でもわかるだろう。


「なにより、かつての俺もそうだったからな」


 同時に、自分の体験を重ねたようだ。


 それがなによりムカついた。


 丁度言ってやらなければならないこともある。その前置きとして、ムスっとしながらこう告げるのだ。


「私、高一なんだけど」


「俺は大学二年だ」


 自己紹介のつもりでもないのにそう返される。


 こちらの神経を逆なでするつもりではないのだろうが、一々その態度が気に障る。


「とんでもないゲームを貸してくれたわね」


「ああ、とんでもない神ゲーだ」


「そうじゃないわよ!」


 噛み合わないそれに苛立って、近所迷惑考えず叫んだのだ。


「あれ、アダルトゲームじゃない!」

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