第13話

 清吾とひかりと翔太の三人でウロコの家に住み始めて、二ヶ月が経とうとしていた。色々としなければならない手続きに慌ただしく忙しかったが、翔太も人気の幼稚園に入園させることが出来た。

 勿論、幼稚園の費用は清吾が支払ったし、ひかりが働いている間はずっと清吾が負担するつもりである。


 ひかりは「そこまでしてもらっては申し訳ない」と遠慮して最後まで固辞していたのだが、彼女は清吾の従業員である。

 一色グループの影のトップである清吾の直近の部下として、他の大手企業の会社員よりも、良い待遇と保障を受けなければならない。

 ウチの家政婦になって良かったと心底思ってもらいたいからだ。その事に関しては清吾の自己満足でしかないのだが……。


 時期的に翔太は途中入園になるので、ひかりもどうするか悩んでいたが、三人で話し合って取り敢えず編入する事に決めた。

 清吾は図々しくも幼稚園見学にまで顔を出した。その件ではひかりに少し迷惑をかけてしまったのも事実である。

 幼稚園の先生方に雇い主と従業員とその子という三人の関係が少し奇妙に思われ、少し不審がられたようだ。なにわともあれ目的の幼稚園に入園出来て良かった。


 兎に角、三人がウロコの家での新生活に慣れる為の期間は充分であった。


 もしひかりと翔太が居なかったら、優子の事を吹っ切れたとしても辛かっただろう。二人の楽しかった想い出などを懐かしく思い、淋しくて眠れぬ夜が続いたかもしれない。


 だが三人で暮らし始めてから、毎日楽しくて、そんな事を考える隙間さえなかった。清吾はとても穏やかで平和な日々を過ごしていた。

 その中で清吾は気がついた事が沢山ある。実はひかりが凄く美人だった事、実は彼女は良く話し良く笑う事、清吾自身が意外にも子供好きだった事、翔太がその辺の子供より断然可愛い事、三人の暮らしが思いの外楽しく快適な事。


 衣食住を手に入れたひかりは廃れた感と疲労感が無くなり、本来の綺麗さを取り戻したようだ。イヤこれからもまだまだ、どんどん美人になっていくかもしれない。こんな美人であったらあの時あの夜、断ることが出来たかどうか清吾には分からない。


 清吾は自分では子供に興味が無いなと思っていたのに、翔太と一緒に出かけるのが楽しく感じていた。三人で水族館にも行ったし、動物園にも行った。子供が喜びそうな所は大体出かけた。そして翔太も清吾に懐いてくれた。そういうところが余計に翔太の事を可愛く思えた。清吾とひかりも打ち解け、かなり砕けた会話もできるようになった。


 そんな日々を過ごしていたある休日に、清吾たちは昼食に出かけた。

 三人は飲茶バイキングで腹一杯に料理を食べ、ご機嫌で店を出た。帰る途中に少し先の路地裏から誰かが揉めている声が聞こえた。裏路地からは危険な暴力の匂いが漂い始めた。


 清吾とひかりはお互いに顔を見合わせて、二人同時に「揉め事」には無視を決め込むようにと頷いた。清吾はひかりが正義感の強いタイプじゃなくて良かったとホッとしていた。

 彼も優子にフラれて自暴自棄だった時期ならいざ知らず、穏やかな気持ちの今、自らトラブルに突っ込んでいくような馬鹿な真似などする気は全く無い。


 面倒事を避けるようトラブルには決して顔を突っ込まないような潔い性格だとお互いに解かり合った清吾たちは、阿吽の呼吸で翔太を引きずり足速に駅へと向かった。

 突然「バチンッ! 」と激しい音がした。それから路地裏の方から男がフラフラした足取りでよろけながら出てくると清吾たち三人の前で倒れ込んだ。


 清吾は驚きはしたものの、それを声には出さなかった。同じくひかりも驚きを顔に出したが、声までは出さなかった。

 翔太の体が一瞬、ビクッと硬直した。翔太も驚いたのだろう、泣かなくて良かった。


 余程酷く殴られたのだろうか、男はうつ伏せのままゼエゼエ息をしたままで起き上がる気配は無い。


 清吾とひかりは気付かない振りをしながら清吾とひかりは大股で倒れている男を跨ぎ、翔太の手を二人で片方ずつ持ち上げ、男をジャンプで飛び越えさせた。

 二人に支えられてジャンプした翔太は楽しそうに「ケタケタケタ」と高い声で可愛く笑う。


 清吾が「面白かったねぇ」と翔太に笑いかけ、そのまま歩き続けようとした時、倒れている男が呻き声を発した。

 男の呻き声に清吾たち三人は一瞬止まったが、気付かないフリをしてまた歩き始めた。

「ううぅ、イッテェ」

 倒れている男が声を絞り出した。清吾とひかりは遂に男の方を振り返ってしまった。


 そこに別の男たちが二人、路地の奥からゆっくりと現れた。一人はかなり背が高く痩せている。長髪で前髪の影から見える眼光は、獣の様に鋭い。

 もう一人は背はそれ程まで高くはないが、170センチの清吾よりは高い。180センチあるかないかくらいであろうか。顔より太く見える頑丈そうな首、ゴリラの様に大きくガッシリとした体格である。ボディービルダーの体型とは異なり、脂肪も適度にある骨太の筋骨隆々の迫力のある身体つきをしている。坊主頭でまん丸の顔は、古傷だらけである。ゴリラ男はギョロっとした大きな眼をこちらに向けた。


 二人の男の放つオーラに圧倒され清吾たち三人は動けなくなった。


 ゴリラ体型の男は、恐怖に怯える清吾達を見て「ニコリ」と笑った。男の大きな目が細くなり、親しげな笑顔を見せる。知らない人が見れば、優しげな彼の笑顔に騙されてしまうだろう。

 だが、殴られて倒れている男を見ている清吾達にとっては、彼の笑い顔は恐怖でしかない。

「コイツ昼間っから呑み過ぎたようで、驚かせて御免なさいねぇ」

 男は笑顔のまま、倒れている男を、親指で指差した。

 男の笑い顔からは「笑顔の間に早く去れ」と言う空気を清吾は大いに感じた。


 それから男は、背の高い男に顎で指図した。命令された男は倒れている男を無理矢理引き起こそうとした。


 ひかりは清吾の顔を見た。清吾はひかりに、どうする事も出来ないとばかりに、ゆっくりと首を振った。

「はい。では、失礼します」

 清吾は「貴方達のする事を邪魔するつもりは全くありません」と言う空気を、おおいに出しながら男に返答した。

 清吾はひかりを促して直ぐにでも立ち去ろうとした。


 何気に清吾はチラリと横目で倒れていた男の様子を盗み見た。さっきまで倒れていた男はノッポの男に支えられてフラつきながらも何とか立っている。そしてフラフラのその男は、清吾と一緒に働く飼育員の三枝 秋文だった。


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