第13話 兄だった男

 夏の前、涼しい風が頬を撫でる。


 天気のいい日中、人通りの多い街中を俺は咲と一緒に歩いていた。


 ドラマ最終回の撮影を終え、咲の多忙な日々に束の間の休息が与えられることとなり、こうして遊びに行くことができるようになったのだ。



「いい天気です。浩介さん」


「……そうだな」



 隣を歩く咲は、恋人のように俺の手を握りながら幸せそうに笑う。

 帽子やマスクもせず、うっすらと化粧をした咲は、普段よりも綺麗に見えた。


 これだけ堂々としていれば当然、周囲に彼女が女優『柳川 咲』だと気付かれる。

 その反応は様々で、遠くからスマホで撮ったり、こっそり跡をつけてくる者などいるのだが咲自身は特に気にしていないようだ。


 幸いなことに、今はプライベートだと理解してくれているのか話しかけてくる者はあまりいない。おそらく、隣にいる俺を見て何かを察したのかもしれない。


 しかし、俺は人から見られることに慣れている咲とは違い、周囲の視線が気になって落ち着けずにいた。



「どこか入ろう。あまり落ち着かない」


「そうですね。ゆっくりできるところを探しましょう」



 俺はどこか店に入って避難しようと提案した。

 咲もそれを受け入れ、歩きながら人の少なそうな店を探す。


 そうして辺りを見回していると、前方の方に女子学生の集団がいた。

 彼女たちは集まって楽しそうに談笑をしていたが、こちらに気付くと真っ直ぐ向かってきた。



「あのー、もしかして柳川咲さんですか? 私ドラマ観ました!」

「ファンなんです! 握手してください!!」

「写真、一緒に撮ってもいいですか!?」



 どうやら彼女たちは話しかけてくるタイプだったようで、咲に遠慮なく詰め寄っていった。

 咲は慣れた様子ですぐさま整った笑顔を作り、対応した。



「ありがとう。でもごめんなさい。今はこの通り、手が塞がっているので」



 そういって、咲は俺と繋いでいる手を見せつける。

 それは、色恋に敏感な年頃の彼女たちを沸かせるには十分なものだったに違いない。

 


「キャーー!」

「その人ってもしかして恋人ですか!?」

「いいなー! 私も彼氏欲しいー!」



 黄色い叫びが響き、周囲の視線が集まる。

 ただでさえ目立っていたのに、より一層目立つことになってしまった。


 俺は慌てて咲の手を引っ張り走った。

 どこか、人通りの少ない場所までとにかく走った。



「はぁ、はぁ、はぁ――なに、してんだよ!」


「ふ、ふふふ、あははは」



 閑静な住宅地まで逃げ込んだ俺は、肩で息をしながら咲に問い詰める。

 

 しかし、咲は何が楽しいのか、大声で笑いだした。

 


「いえ、ごめんなさい。私嬉しくなっちゃって。ふふっ」


「……はぁ、そうかい」



 俺が怒ったように問い詰めても、変わらず幸せそうに笑っている。

 それを見ていると、もう何も言えなくなる。



 咲は、前に比べて笑顔が多くなった。

 以前のように控えめな笑い方や作り笑いではなく、年相応にキャッキャとはしゃいで笑うことが増えたのだ。


 まるで、芸能界に入る前の幼かった頃の妹のような笑顔。


 それは、本来喜ばしいことなのだろう。

 俺は手放しに喜んでいいはずなのだ。


 ――だが、兄妹でいることを拒んだ咲が、拒んだことによってかつての笑顔を取り戻したという事実に俺は複雑な思いを隠せない。



「……本当に、これでよかったのかな」


「よかったのか、ではありません。私たちは、これから始まるんです」



 俺は咲に問いかけたのではなく、ほとんど独白に近い感覚で呟いた。

 しかし、咲はそれすらも聞き取り、俺の迷いを許さないかのように答える。


 俺はふいに返ってきた答えに驚き、咲の顔を見た。

 その目には強い覚悟が宿っているかのようで、真っ直ぐに俺を貫いている。



 それは、まるであの時と同じだ。 

 咲がドラマ終了後に行ったクランクアップで、ある発表をしたあの時。

 自身が『とある人物』と交際をしていると公表した、あの時。


 急な発表に、その場は騒然となっていた。 

 その時に居合わせた芸能記者は当然、相手は誰なのか尋ねた。

 しかし咲は相手の身分を詳しくは明かさず、一般の人なのでそっとして欲しいとだけコメントをしてその場を去った。



 当たり前だが、咲の所属する事務所はこの発表を事前に知っていた。

 相手が誰なのかも、その正体も。

 無論、事務所側の人間は何度も考え直すよう説得を試みた。


 しかし、咲の意志が揺らぐことは無かった。

 例え自分の芸能人生が終わろうとも、一生後ろ指を指されることになろうとも、その覚悟は曲げられないのだと言い切っていた。


 だから事務所は咲に対し、せめて交際相手の正体を黙するよう命じた。

 もしそれが知られれば、確実に咲の芸能人生は終わる。

 そうなれば咲だけでなく、所属する事務所も稼ぎ頭を失うことになる。

 それだけでなく、その交際相手の正体をこれまで隠匿していたことについて、社会的非難を受けかねないという大きなリスクもあった。

 

 こういった経緯により、発表以降も事務所の力で雑誌やテレビに交際の件が大々的に載ることもなく、密やかに鎮静化することに成功した。

 こうして、咲の交際相手の正体は未だ世間に知られていないことになっている。


 

 だというのに、咲は今回のような凶行を度々繰り返している。

 まるで、それを知ってもらいたいかのように。

 鎮静化し、このことが再び忘れ去ってしまうことを拒むように。

 


「……こんなことをして、バレたらどうする気だよ」


「そうなったら、二人でどこかへ逃げましょうか」



 咲はクスクスと笑いながら、そんなことを言った。

 冗談ぽく聞こえるが、それが冗談ではないことが分かってしまうのは経験の賜物か、それとも兄妹の絆という皮肉か。


 すでにSNSには俺と一緒に歩く姿は度々あげられており、俺が正体不明の交際相手として噂されるようになっている。



「バカなこと言うなよ。それに、このことは秘密にすると約束しただろ?」


「ええ、もちろん。秘密にしますよ」


「言動が一致してないようだが?」


「見解の相違ですね。事務所が本当に隠したいのは交際という事実ではなく、浩介さんの素性です」


「……」


「何も知らない人が浩介さんを見たところで分かりませんよ。私の兄、ということはね」



 モラルというのは、往々にしてリアルに負けるものだ。

 よくある言い回しで表すなら、『事実は小説よりも奇なり』となるのだろうか。


 誰も、咲の交際相手が兄であるとは夢にも思うまい。

 兄妹が付き合うなど、モラルに反するからだ。


 だから俺は、ネットという仮想社会上において『正体不明の交際相手』という事実でしかなく、俺が咲の兄であるというモラルは無かったことになる。



 こうして、俺は徐々に『実の兄』から『兄だった男』へと変わっていく。


 俺自身、もうどちらが本当の自分なのか分からない。


 ただ、今は兄のフリではなく恋人のフリをしている自分に、都合のいいものだと自虐するしかない。


 いつしか親父が言っていた『何かのフリ』というのは、こういうことなのだろう。


 俺の中ですでに、答えは出ているのだ。


 

「兄さん」



 咲が俺を呼ぶ。

 もう呼ばれることは無いと思っていた、その呼び名で。


 俺は咄嗟に咲の顔を見る。


 すると、咲は不意打ちのように口づけをしてきた。



「――――っ、おい、人通りがないとはいえ、誰かに見られたらどうするんだ!?」



 俺は咲の肩を掴み、顔を離す。

 咲は蕩けた表情をみせ、俺に言った。



「――別に、構わないじゃないですか。ねぇ? 浩介さん」



 それはいつだったか妹から聞いた台詞。

 あの時はまだ兄妹で、質の悪い悪戯で済ませることができたが、今はもう違う。


 一体、いつからこの女はこの状況を想定していたのだろう。

 あるいは、初めからなのだろうか。


 

「次は、浩介さんからシて」



 咲は腕を俺の首に回し、目を瞑る。

 

 それは逃がさないという行為と、受け入れるという行為。

 

 俺は、自ら咲へ口づけをした。

 それが自らの意志だったのかどうか、もう確かめる必要は無い。




「――――ッ、はぁ。……好き、好きよ。浩介、大好き」


「――あぁ、俺もだよ。咲」



 

 兄だった俺と、妹だった女は三度、口づけをした。

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