第2話 「巡熱」



 時刻は午後四時を回っている。夕暮れが雲を滲ませ始める時間帯だが、廊下から見える景色は、やはりひどく澱んでいるままだった。

 12月10日の夕方。

 涼太は藍色のマフラーを半分に折って首に軽く巻きつけ、校内の玄関口に向かう。この時間帯は授業も既に終わり、大抵の生徒は部活動に向かうか、図書館の中に別途である大きな自習室で自習に取り組むかのどちらかだった。

 そんな中、涼太はそのどちらかに向かう生徒達を差し置く様にして校内を出ようとしていた。

 ───涼太は、水泳部に所属している。

 決して強豪とはいえないこの高校の水泳部は、毎年、この時期は自主的に筋トレ、走り込みをするという形だ。


 元々、クラスでよく話はするものの、あくまで「クラスメイト」という括りで、親しくしている友人に誘われ、なんとなく、流れに任されるがままに入部した部活。


 そういえば、水泳は己との闘いだ、と誰かが言っていたのだったか。


 あぁ、そうだ。確かアレは入部したばかりの頃に顧問の教師が長話の中に折り込んでいた何気ない言葉だったのだ、と彼は何となく思い出す。

 そして、その事を今更ながらに思い出す自身に失笑した。否、最早それは嘲笑に近かった。

 己との闘い、か。そんなものをして、何になるというのだろう。部活で、何と闘えというのだろうか。そんな事を、彼は考えた。

 


 ─────水無瀬 涼太は、物事の本質を汲み取る能力は長けている。


 それ故に、勉強面においては「苦労」というものをした事がなく、平均点さえ取れればそれでいい、そういった考えが涼太のポリシーだった。

 そして彼はそのポリシーに従う様に、定期試験においてはいつも平均点を取る事だけに邁進まいしんし続けている。────上を目指すというような事だけは、決してしないように。ただひたすらに、目立たない様に。


 ただその結果、充実感というものは感じた事がここ数年なかった。

 毎日、ただただ登下校をして、退屈で、受ける意味すらも不可解な授業を受ける。


 つまらない、味気が無い、そう言われてしまえばその通りだったのだろう。

 そんな事は、自身が何よりも一番自覚をしていた。

 だが彼にとっては、失敗する危険リスクを冒してまで上を目指そうとする同じクラスメイト達の姿勢に、正直に言うと理解に苦しんでいた。

 そうして、そんな自身にもいい加減に飽き飽きしている。だけど、と彼は思う。

 もうそれは、手遅れなのだと。


 それは変えられないし、変えようが無い。


 と、自覚してしまったのだから。

 そうして、玄関口の靴を収納する古びたロッカーを開く。その小さな扉を開く度に、耳に嫌に残る音が小さく残る。

 耳に残響するそれは制服の下の皮膚から鳥肌を覗かせた。

 いつものように、この音に小さく苛立ちを覚えながら、ずいぶんと使い古したお気に入りの黒のスニーカーを取り出す。そして、無理矢理ロッカーを閉じる。


「………」


 スニーカーを履き、砂の擦れる音を聞き流しながら歩き出す。玄関の重い扉を開く。すると同時に、バラバラに大きな掛け声がそこから飛び出すように聞こえてきた。

 周りには、陸上部であったり、野球部であったり、バレー部であったりと、様々な部活が、既に準備体操を円陣を組みながら行っていたり、軽いランニングをしたりしていた。

 涼太は、そんな様子を横目に見つめながら正門の方へと歩みを進める。

 ─────ほんの少し、胸に軽い痛みが走る。

 その時、涼太は校門前に同じように歩いているある1人の女子生徒の後ろ姿に気付く。


「……え」


 その後ろ姿を見た瞬間、涼太はまるで、身体のどこかにあるスイッチが入ったかのように。

 身を切るようにまとわりつく大気とは真反対のじんわりとした、仄かな熱を身体中から確かに感じた。

 肩甲骨辺りまである後ろ髪を背中で均等に二つに分け、前肩部分で縛っているのであろうお下げ髪。彼女が誰なのかはすぐに分かった。


 彼女は、先程の掃除の直前の時。


 作り笑いを浮かべていた、あの、日向ひなた 玲菜れいな本人だった。

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