第02章『鏡に映った姿』

第03話(前)

 澄川姫奈はあれからもEPITAPHと呼ばれるカフェを、放課後に何度か訪れた。

 特に目的も無く、お茶を飲んでくつろいでいるだけだった。


「なあ、ヒナ。もし宝くじで一億円でも当たったら、お前ならどうする?」

「そんな想像、全然出来ませんけど……。静かにひっそりと、遊んで暮らすんじゃないんですかね」

「そんなもんか……。遊ぶのも三日、せいぜい一週間で飽きると思うぞ」

「そうなんですか?」

「いや、私にも分からんが――なんとなく、そんな気がした」


 アキラと名乗る小柄な女性は、いつ訪れても気だるそうに、そして退屈そうにしていた。

 彼女との他愛もない会話に付き合う事は、姫奈は別に悪い気がしなかった。

 ただ、姫奈はこの小さな店で自分以外の客を見た事が無かった。人気の無い立地で、かつ午後四時半頃という時間帯だからと割り切っていたが――それでも、ひとつの店としては異常な光景だった。

 そして、もうひとつ。


「カフェラテ、いくらですか?」

「そうだな……百円でいいぞ」

「ひゃ、百円!? コンビニで買うより安いんですけど、マジですか?」

「マジだ、マジ。えっと、ほら――学割だよ」


 初回こそアキラの奢りだったが、二度目の来店での会計時に、このようなやり取りがあった。

 アキラの慌てた様子から、商品に値段設定がされていないのは明白だった。改めて店内を見渡すが、どこにもメニューの文字が無いことに姫奈は気づいた。

 開店してまだ間もないとアキラは言っていたが、根本的に何かがおかしい。


 店としての違和感こそあれど――違和感というより不思議な店だと感じていたため、姫奈にとっては居心地の良い場所だった。

 学校帰りに寄れる行きつけの店があること。その店主と親しいこと。

 それらはようやく、姫奈に漠然とした『高校生らしさ』を実感させた。

 中学校の延長として、勉学は学生の本業と割り切り、手を抜くことはなかった。

 しかし、根を詰めて嫌な思いをした経験から、勉学以外にものめり込めるものが欲しかった。

 それを模索した結果――



「アキラさん、こんにちは。わたし、この店でバイトしてもいいですか?」

「は?」


 アキラと出会ってから、ちょうど一週間。

 姫奈は店の扉を開けるや否や、アキラにそう切り出した。

 突然の申し出に、エプロン姿のアキラはカウンター越しに鳩が豆鉄砲を食らったような顔をした。


「バイトって、あのバイトか?」

「どのバイトか分かりませんけど……俗に言うアルバイトというやつです」

「いやいや。ウチはアルバイトなんて募集してないぞ」


 確かにアキラの言う通り、店のどこにも求人案内は書いていなく、アキラのそのような発言も今まで無かった。


「いきなりどうした? 何か欲しいものでもあるのか? 私が暇そうにしてるから、ラクできるかもって思ってるのか?」


 暇そうにしている自覚はあったんだと、姫奈は思った。


「わたしももう高校生なんで、お小遣い以外にもお金を持っておきたいとは思います。あと、ラクだとは思ってません。ホントに」


 経済的な理由も確かにある。具体的な使い道がすぐには浮かばないとはいえ、理想の高校生活を送るために所持金があるに越したことはない。

 しかし、姫奈の一番の志望理由は――


「アキラさんがわたしの憧れだからです。アキラさんと一緒に働いてみたいです」


 姫奈にとってアキラが理想の大人像なのは、出会った頃から現在も変わっていなかった。アキラのようになりたいが、店主と客の関係では近づけないと姫奈は思った。なるべくアキラと同じ目線に立ちたかった。


「……」


 姫奈の言葉に、アキラは息を飲んだような表情をした。驚いたというより、医療用眼帯での隻眼はどこか怯えていた。

 その反応に姫奈は一瞬、不穏な空気を感じた。


「お前、本当に――いや、なんでもない」


 アキラは思い切ったように何かを言いかけたが、口を閉じた。そして、俯いてハァーと大きな溜め息をついた。

 姫奈としても胸を撫で下ろした。


「バイトか……。そんなこと、考えたこともなかったな」


 アキラはショートボブヘアーの頭を掻きながら、困った表情を姫奈へと向けた。


「お前の動機は分かった。そう言われると断れないから、汲んでやろう。でも、そうだな……ひとつだけ、条件がある」

「なんですか?」

「私のボディーガードをやってくれないか?」

「へ?」


 思ってもいなかった言葉が出てきたので、姫奈は戸惑った。


「ボディーガードって……アキラさん、誰かに命狙われてるんですか?」

「……言葉が悪かったな。警備員みたいなもんだ。嫌な客が来たら私は奥に隠れるから、私に代わってお前が相手をしろ」

「よく分かりませんけど、クレーマーみたいなものですか?」

「クレーマーとは違うが……まあ、なんせ嫌な奴だ。私にとってはな」

「はぁ」


 アキラの言葉が今ひとつ想像できないせいで、姫奈は頷けなかった。


「そういうお客さんがそんなに卒中来るんですか?」


 クレーマー以前に、自分以外の客が入っている様子も想像できない。


「卒中かは分からないが――必ず来るさ。嫌でもな」


 アキラは吐き捨てるように肯定した。

 その様子に姫奈は、確信というより確執じみたものを感じた。


「わたし、昼間は学校ですよ?」

「お前の来れる時間だけで構わんよ。『終日私ひとりっきり』という状況さえ回避できれば、ちょっとは安心だ」

「わかりました。学校が終わったら店に来て、お客さんに飲み物を差し出す接客業をして、アキラさんにとって嫌なお客さんが来ればわたしが身代わりになる……こんなところでいいんですね?」

「ああ。そんな感じだ」

「そうですか。それじゃあ……」


 姫奈は鞄からクリアファイルを取り出し、中の紙をアキラに差し出した。


「履歴書です。わたしを雇ってください」


 アキラは一瞬目を丸くした後、大笑いした。


「別に、ここまでしなくてもよかったのに……。ていうか、順番おかしいだろ。先に履歴書を出してから面接するもんだと思うぞ」


 アキラは笑いながらもカウンター越しに履歴書を受け取り、目を落とした。


「すいません。わたし、こういうの初めてで」


 今朝コンビニで履歴書を書い、昼休みに記入した。姫奈としては至って真面目に作成したものなので、こうして笑われると恥ずかしかった。読んで貰えたのが、まだ救いだが。


「私だって履歴書なんて貰うのはたぶん初めてだ――えっ、ちょっと待て。ヒナって漢字でこう書くのか!? お、お姫様じゃないか!」


 よほど面白いのか、笑いのボルテージは増し、落ち着いた雰囲気の店内にアキラの笑い声が響いた。


「笑わないでくださいよ……。わたしのコンプレックスなんですから」


 過去から名前で笑われる事は何度もあったが、こうして憧れの人物に笑われると一層恥ずかしかった。

 ただでさえ高身長なのに、不似合いな可愛い響きの名前。そして、この漢字である。名前負けしているというのは、誰よりも姫奈自身が一番自覚していた。


「いやー、すまなかった。まあ気を落とすな」

「全然説得力ないです!」


 アキラはひとしきり笑い、どこか満足げだった。

 いつもの気だるい雰囲気ではなく明るい様子を見ることができたので、姫奈としては少し嬉しかった。


「まあ、お姫様というのを抜きにしても――そのボサボサの頭は接客向けじゃない。ここで働きたいなら、明日にでも美容室に行って来い」

「え……」


 最後に髪を切ったのはいつだったのか、姫奈は思い出せなかった。高校受験前はそれどころではなく、受験失敗で落ち込んでいたから中学校卒業も高校入学もそのままだった。結果的に髪は腰のあたりまで伸び切り、また所々傷んでいた。

 確かにアキラの言う通り、接客業としては不衛生な印象を与えるだろう。

 しかし、姫奈は――


「ダメですか?」

「ダメに決まってるだろ! そのダサい眼鏡も外してコンタクトにしろと言いたいとこだが、勘弁してやる。なんだ? 金が無いんなら給料を前貸ししてやってもいいぞ」

「いや、あの……お金の問題じゃなくてですね」


 姫奈は名前の事以上に恥ずかしくなり、モジモジと俯いた。


「わたし、今までずっと千円カットで切ってたんで……一度も美容室に行ったことがありません……」

「は? え……マジで?」


 さっきまで調子よく喋っていたアキラの声のトーンも表情も、明らかに引けていた。


「なら、丁度いいだろ。それだけ伸びていれば、どんな髪型にだって出来る。ちょっと――いや、めちゃめちゃ遅い美容室デビューだ。電話で予約して行ってこい」

「む、無理です! 美容室とか服の店とか、怖くて入れません!」

「ワケがわからん。怖いって、何がだよ? 綺麗になるために行く店なんだから、何を躊躇うことがある?」

「美容室に行くための髪が無いというか……スタートラインに立つ資格すら無いというか……わたし、全然可愛くないですから、美容師さんに笑われそうで……」


 最後の言葉が、恐怖の一番の原因だった。

 過去からその手の店に憧れこそあれど、自分のような人間が行ってもいいのかと抵抗があった。それは月日が流れるほどに大きくなり、高校に入学した現在では、もはや手の届かないところまで離れたような気がしていた。

 姫奈は容姿にもまた、自信が無かった。


「ボサボサに伸びた頭でダサい眼鏡で制服もガッチリ着て――地味というよりガリ勉というより芋臭いというより、それ以前の問題だな。確かに言われてみれば、お前みたいなのが来たら、私なら笑うかもしれん」


 アキラは腕を組み、気だるさに拍車をかけた様子で姫奈を眺めた。

 容赦の無い痛い言葉に姫奈の心は抉られたが、何も言い返せなかった。


「わかったよ。お前が美容室に行くための最低限の髪にはしてやる」

「え……どういうことですか?」

「私がちょっとだけ切ってやると言ってるんだ」


 アキラの言葉に、姫奈の表情はパッと明るくなった。


「本当ですか!? ありがとうございます!」

「言っておくが、応急処置程度だからな。素人だから期待はするな」


 アキラは謙遜気味な様子だった。

 しかし、姫奈にとっては『憧れの女性に切って貰える』という喜びが、不安を感じさせなかった。


「とはいえ、ここで切りたくないな……。仕方ない。私の部屋がすぐ近くにあるから、そっちに行くぞ」

「は、はい!」

「ちょっと早いが、今日は店仕舞いだ」


 そう言いながら、アキラはエプロンを脱いでカウンターから出てきた。

 店仕舞いとは言うが、特にカウンターの向こうで何かを片付ける様子も無く、店内を消灯し扉に鍵をかけ、シャッターを下ろしただけだった。簡素な作業なだけあり、姫奈の目には手際よく見えた。

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