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 フジカゲから、メロンの散歩に付き合ってほしいという連絡を受けて、わたしは驚いた。彼のほうから連絡が来るなんて、しかも会おうと言ってくるなんて思いもしなかったから。

 わたしたちは前と同じ公園に再びいた。池の周りを巡る道端に置かれたベンチで休憩。今日も晴れているのに誰もいない。人が少ないのは近くで殺人事件があったからですかね、とわたしが言うと、フジカゲは、それもあるでしょうが、この辺りはもともと人が少ないからでしょう、と言った。

「この公園は人口がもっと多かった時代からずっとあるようですが、どんどん人が減り続けていますからね」

 フジカゲは正面を見たままだ。池の向こうのあずまやでも見ているのだろうか。今日もサングラスとキャップをしていて、相変わらず無表情で落ち着いた口調。

 柴犬のメロンは今日もカートに載せられている。なでてやると嬉しそうにした。

「どうして減ってしまったんでしょうね」

 散歩に付き合ってほしいというのはどういうことなんだろう、と思う。わたしと話したいということだろうか。

「さあ。みんな、生きる気力を失ってしまったんですかね」

 フジカゲから生きる気力という言葉が出るのはなんだか意外だった。

「それで少子化が進んだってことですか」

「人生なんて悪夢みたいなものでしょう。だから子供をつくらないようにしているんじゃないですか」

「そうでしょうか。どうしたんですか? なにかよくないことでもありましたか?」

「いいえ、全然」

「じゃあ、もとからそういう風に考えてたんですか」

「それも違います。昔は、国のためになりたい、誰かを守りたいということだけを考えていました。なにかを深く考えたことなんてなかったと思います。でも、僕は悪夢の中にいたんです。そのことに気づいていなかっただけで。悪夢から覚めて、悪夢を見ていたということに気づいたんです」

「悪夢って、なんですか?」

「潜在意識ですよ。人間には、それぞれ脳の癖というものがあります。いくら柔軟な思考力を持っている人であっても、逃れられないパターンがあります。でも、認識拡張がその癖を平均化するんです。新たな感覚を手に入れると、人はその機能で見えるようにしか、世界を見ることができなくなります」

「潜在意識っていうのは、微細な脳活動だと聞いたんですが」

「ええ。調整者にはそれがないんです。微細な脳活動が『脳の癖』に関係しているらしいです」

「そうなんですか。性格にも関係しますか?」

「まったく関係ないとは言えませんが、重要なのはそこではないんです」

「よくわかりませんが……」

「僕は悪夢を見ないということです。でもきっと、悪夢も必要なのでしょう」

「……それで分析結果が出なかったってことですか?」

 フジカゲはわたしに顔を向けた。

「そうです。あなたは聡明な人ですね」

「そんなこと、初めて言われました」

 フジカゲは顔を正面に戻し、黙ってしまった。

「……フジカゲさんはずっとこの辺りにお住まいなんですか?」

「いえ、引退してから引っ越してきました。サヤさんは今のところに住まれて長いんですか?」

「いえ、わたしも一年ちょっとくらいです。彼氏と一緒に住み始めてからです。今、彼氏は家を空けてるんですけどね。もしかしたら浮気してるかもしれません」

 わたしは笑い交じりに言った。アギンのことになると思わず饒舌になってしまう。

「もし浮気されたらどうしますか?」

「え、どうでしょうね。多分許すと思います」

 多分ではない。絶対に許すだろう。わたしがアギンを好きでなくなるとすれば、それはアギンがわたしを支配しなくなった時だろう。たとえアギンがほかの女性を好きになったとしても、わたしに安心を与え続けてくれればそれでいい。

「彼のことが好きだからですか?」

「ええ、まあ。彼と一緒にいると安心するんです」

 わたしは調子に乗って、アギンのことをいろいろと話してしまった。今、どこでなにをしているのか知らないアギンのことを。いかにアギンがわたしを安心させてくれるかということを。

「あ、すみません。わたしばっかり話してしまって。わたしの彼氏の話なんか興味ないですよね」

「サヤさん」

 フジカゲはサングラスを取り、わたしを見た。やはりその目は、優しいとも鋭いとも言えない独特な印象があった。穏やかでありながら冷たいのか。

「僕のほうが、彼氏さんよりもサヤさんを支配できると思います」

「え?」

「僕のほうがサヤさんを安心させますよ」

「ちょっとやめてください。わたし、そんなつもりじゃないですから」

 わたしは笑いながら立ち上がった。

「僕もそんなつもりじゃないです。ただ――」

「すみません。わたしが悪いんです。本当にすみません。じゃあ、さようなら」

 わたしは足早に立ち去った。逃げ出すネズミみたいだな、と思った。とても残念だった。不思議ととても。


 アギンは帰っていなかった。あんな電話をしたあとなのだから早く帰ってきてもいいのに。スタジオ代がもったいないから帰ってこないのだろうか。少なくともレコーディングに行ったのは本当ということか。いや、わからない。

 電話をしようかとも思ったけれど、なんだか負けた気がするのでやめることにした。

 グラタンをつくって食べて落ち着くと、フジカゲのことが頭に浮かんでくる。どうしてあんなことを言ってくるんだろうと腹が立ってきてしまった。

 別に腹を立てることなんてないのに。全然関係ない人なのだから、わたしにはなんの影響も与えないし、もう会わなければいいだけのこと。わたしはなにに心乱されているのだろう。やはりアギンのせいで情緒不安定になっているのだろうか。

 アギンとフジカゲのことを交互に考えて、わたしは自分自身にため息をついた。どうせ理解できない他人のことを考えると疲れる。アギンのことさえ、わたしにはわからない。

 でも好きだからそれでいいのだし、フジカゲとはもう会わないのだからいいではないか。

 しかし、考えることをやめることができなかった。やがて、やめようとすることを諦めた。


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