第十話 青年の死/赤マントの登場


 血はぽたりぽたりと垂れ落ちる。あまねく全ては重力に頭を垂れるものとはいえ、それは酷く粘って抵抗し、ようやく肉からはがれ落ちるものだった。

 終わった一般家庭の一つ屋根の下、男の子を女の子が刺し貫く、そんな非情が夜に溶けていく。

 怪人が人を殺めるなんて、道理である。あるだけで惨劇を引き起こすのがジャックの当然。

 刃をねじ込んで、大切を毀損して。そんなことが元吉田美袋という女の子だったものには、今や何よりお得意のことになっていた。

 だから、当然のように、涙より先に血は流れている。だが、しかしそれは求めていた程ではなく、だから笑顔でジャックは零すのだった。


「あらら」

「っ痛……」

「清太君ったら刃を掴むなんて、危ないことをするねぇ」

「誰の、せいだとっ!」

「うん。それって私のせい」


 それは見知った恋人の形である。だからこそ、怖じきれなかった清太が素手で凶器を防げてしまったのだろう。

 心臓に向けて迷い亡く突き出されたハサミは深々と手の平に刺さって、痛みと共に握り込まれた手の平によって停まる。

 自然、命乞いのような言葉が清太の喉から漏れていく。


「止め、てくれ……」

「止めないよ?」

「ぐぅっ!」


 激痛と共に歯を食いしばり静止を願う青年を前に、しかしそんなもの死というメインディッシュの前には前菜の価値すらもないというかのように、ジャックは冷静に返し続けた。

 ガタガタと、彼女は苦痛を気にせず肉に埋もれた刃を揺する。飛び散る血は顔を汚し、その気持ち悪さが更に少女を昂ぶらせていく。


「ねえ、どうして大人しく斬られてくれないの? 清太君って、私の恋人だったよね? ねえ?」

「ぐ、ぅ……」


 貫かれた右手に左手を重ねて、踊る刃が引き抜かれないように必死の男の子。だがそれだけで、決して彼は彼女を害そうとしない。

 それが彼にとって恋人だったものへ向けた情であり、情けないほどの弱さでもあった。


「くひ」


 そして、そんなの今の美袋には刃を伝って流れてくる血液の温もりと同程度しか感じない。温かいけど、ただただばっちいだけだ。そんなの、もういらない。


 ああ、じょきりじょきりと早くしたいな。大切なものほど、斬る甲斐がある。ひとつひとつを斬って棄ててしまえば、どんどん身体は身軽になっていくものだから。

 全く、法に愛に、そんなものどうしてあるのだろう。全てが全て、私を傷つけるものでしかないなら、そんなのに守られる意味なんてなかった。


 ああ、でもそんな理性的な思いなんて、どうでもいいか。ただ今私は。


「くひくひ。楽しいね、楽しいね!」


 それだけに尽きて、絶頂にあるのだから。


 ジャックは大好きっていうのはこんなに斬りごたえがあるんだなと、とても面白がった。


「ぐ、あ……」

「あ、抜けた」


 そして、留める力と引き抜く力。その均衡は、残酷なくらいにあっけなく終わる。

 そう、誰が痛み苦しみの中、血まみれの刃を握り続けられるだろう。そんなの、必死の少年程度には無理で、だからこそすっぽ抜けた良く切れるきりんさんのハサミは再び自由になった。


「じゃあね」


 削がれた肉に、血の流れ。そんな全てを纏ったばっちいハサミは今度こそ止まることなく青年の首元へと吸い込まれていく。そして、さよならの言葉と共に、それは真横に動いて掻っ捌き。


 じょきじょき。


「あ」


 図工作用の子供のハサミの働きによって大げさなくらいに、周囲には真っ赤な血が飛び散ったのだった。


 ぐるぐるぐるり。目標を失い逃げるように駆け回っていた、なんの価値もない青年はこうして終わりの色に至る。



「え?」


 彼の最期にジャックが存分に感じたそれは、紅いシャワー。臭くて粘い、ばっちいスプリンクラー。

 そしてその奥に愛したものの、汚い中身を知ってまたこの世に見切りをつけられると喜んでいた美袋は、しかし。


「なに、あんた」


 怒りにぱちりと瞳を大きく開いた。

 白いライトにまで飛び散り、終わりきった停止の赤が明滅する。さあどうしようもなく、喉を裂かれた彼は死んだはずなのに。


「僕だヨ」


 期待に反して返って来たるのはドブのヘドロように粘って落ちる、言の葉。

 そう、少女は刃によってめくり上げた人の皮の奥に、とんでもない人でなしを見つけたのだった。


 それは、少年を纏っていた。皮膜を帯びて、人生を騙り、そうして危険な少女の全てを知っていながら。何も正さず、ひたすらに規定路線を守っていた。


 そして何より、おぞましいほどにとある別の少女を愛していて。


「君の元恋人サ」


 どちゃり、と青年だったものを脱ぎ捨てそれを裏返しにマントとして羽織り、赤マントの怪人はそうほざいたのである。

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