3.ただの水なのに……

 微笑んだ美女の顔を食い入るように見つめ、オレは震える手でコップを握ろうとする。しかし力が入らず、うまく持ち上げられなかった。震える腕と手首で引き寄せ、置いたまま口を付ける。顎や腕を使って傾けたコップの水が喉に流れ込んだ。


「うっ、げほっ……」


 喉は思ったより炎症していたようだ。うまく開かず喉に流れた水に噎せた。コップを支える腕が滑って、半分ほどを零す。もったいない……テーブルに口をつけて啜ろうとしたオレを手で止め、彼女は再びコップに水を満たした。


 たぷんと揺れる表面は、コップの縁まで満たした水の位置を示す。今度は傾けずに口を付けて啜る。行儀が悪いとか、人目は気にならなかった。一口ずつ噛むようにして飲み込む。喉に流れた水は甘く感じられ、じわりと目の奥が熱くなった。


 ただの水だ。それなのに、これほどうまい。ゆっくり飲んでいくと、コップを傾けなくては飲めなくなった。また零す可能性があるので、コップをずらして手元に引き寄せる。手の震えは収まらず、このままでは引っ繰り返す気がした。


「食事もだけど……先に治療かしら」


 淡々とした声で美女は近くの椅子に腰を下ろした。ふと……臭いが気になる。余裕が出来てきたんだろうか。ここにはオレを傷つける者はなく、急に獣のような自分の風体が恥ずかしくなった。ぐぅと腹が鳴る。彼女は笑うでもなく、ぱちんと指を鳴らした。


「スープを運んで」


「はい、承知いたしました」


 聞こえた声は柔らかく、女性のようだ。振り返る前に扉の閉まる音がした。


 ここは食堂なのだろうか。いくつもの間接照明が壁に用意され、中央にシャンデリアが据えられている。窓は大きく、日差しをたっぷりと室内に取り入れる作りだった。綺麗に整えられたテーブルクロスは真っ白で、オレが零した水のシミと汚れや血がべっとりと汚す。


「まずは食べて飲みなさい。その後治療して入浴……そうね。話は最後にしましょう」


 まだ喉が痛くて頷くだけ。水を飲んだだけで、すごく楽になった。ずきずきと痛む手足すら、座っただけで痛みが遠のいた気がする。どれだけ過酷な状況に置かれていたのか。


「お待たせいたしました」


 目の前の美女が頷くと、侍女らしき女性がワゴンを持ち込む。猫耳がついたメイド服の女性は、汚いオレの姿を見ても眉を顰めなかった。だが同情の色もない。穏やかな笑みを浮かべたまま、目の前に料理を置いた。


 美女が指示した通りのスープだ。とろりとしたポタージュのような見た目で、牛乳の甘い香りがする。ごくりと喉が鳴った。スプーンを置かれるも、手に取る余裕がない。両手で皿を傾け、口に流し込んだ。熱くもなく冷たくもない。温かな液体が喉を開き、食道を通過して、胃に溜まるまで。温度で体のどこまで到達したか、分かる気がした。


 皿を戻すと、心得たようにメイドはスープを継ぎ足した。無言でまた飲む。最後に食事をしたのは一週間ほど前だった。その時でさえ、海水に木の根を浮かべたようなスープだ。あれ以来、水も食事も断たれた。オレは死ぬことだけを望まれて……っ!


 顔を上げる。3杯目を注ぐメイドの向こうで、黒髪の毛先をくるりと指で巻く美女に視線を合わせた。


「っ、あ……つら、が」


「話は最後だと言ったのに、せっかちね」


 くすっと笑った彼女は、オレの体に残る傷へ指を触れる。突き刺さったガラスが抜け、傷が盛り上がった。塞がった傷の上は瘡蓋が貼りついた状態に見える。


「まだ体力がないのよ、これ以上の治療は出来ないけど」


 魔法なのか? 痛みが消えたオレは慌てて口を開いた。まだ喉が痛むが、声は出せそうだ。このままでは仲間がオレの代わりに殺される! あいつらのために、オレが死ななきゃいけなかったんだ。


「……あ、仲間が……殺され、げほっ」


 無理に絞り出した声に、喉は耐えられなかった。激痛が走って咳き込む。先ほど飲んだスープを吐いてしまいそうで、慌てて口を押えた。


「仲間? ああ、気にしなくても大丈夫よ。落ち着きなさい。ちゃんと説明してあげるわ」


 何とも言えない表情でそう告げる彼女に、オレは疑問を持たずに頷いた。なぜだろう、疑う気持ちは沸いてこない。あれだけ裏切られて、殺されかけたってのに。まだ誰かを信じるなんてな。

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