第39話 ごめんなさい。
「──やぁ、未白くん。困っているだろうから、助けに来たよ?」
汐見さんは本当に楽しそうな笑顔でそう言って、勝手に家に上がろうとする。
「待ってください、汐見さん。困ってるって、なんのことですか」
俺はそんな汐見さんの前に立ちはだかり、彼女を止める。
「そんなの、決まってるじゃないか。クロ様のことだよ」
「……クロのこと、ですか」
確かにクロのことでも、困ってはいる。けど今1番の問題は、どう考えても紗耶ちゃんのことだ。なのに汐見さんは、クロのことを1番に口にした。
それはつまり、汐見さんは紗耶ちゃんのことを、知らないということなのだろう。
「クロ様は今、随分と弱っておられるとあさひに聞いたよ。だからボクは心配で、少し様子を見にきたのさ」
「こんなに朝早くから、ですか?」
「ああ。神様には朝も夜も、関係ないだろ?」
「俺は神じゃないんで、あんまり早いと困るんですけどね」
「それは大丈夫。ボクは君が困っている顔が、大好きだから」
「そんな顔を好きになられても、嬉しくないですよ。……それより言っちゃ悪いですけど、汐見さんがクロにしてやれることなんて、何もないですよ?」
ずっとクロのそばにいて、そのクロと一体化してきている俺ですら、今のクロにしてやれることなんて何もないんだ。そんな状況で汐見さんが来ても、彼女にできることなんて何もない。
「それが、そうでもないんだよ。それにボクは、あさひと話をしてきたんだよ? 今の君は、あさひの動向を喉から手が出るほど、知りたいんじゃないのかな?」
「…………」
それは確かに、その通りだ。でも今、汐見さんを家に上げると、あの状態の紗耶ちゃんと鉢合わせすることになる。できればそれは、避けたい。
「確かにあさひのことは、気になります。でも今はちょっと立て込んでるので、また後で──」
「ボクが帰れば、あさひが来るよ? 君はそれでも、ボクを追い返すのかな?」
けれど、そう言われてしまうと、追い返すわけにはいかない。だって今ここにあさひが来たら、何もかもが無茶苦茶になってしまうから。
「……分かりました。でも今はちょっと他にお客さんが来てるんで、手短にお願いしますね?」
「くふっ。こんなに朝早くにお客さん、ね。もしかしてお楽しみのところを、邪魔しちゃったかな?」
「どうでしょう。……ただまあ、あんまり変なことするなら、いくら汐見さんでも許しませんよ?」
「分かっているよ。……でも汐見さんじゃなくて、奈恵だろ?」
「……そうでしたね、奈恵」
そう答えて、汐見さんをリビングに案内する。
「そこのソファに座っててください。俺はコーヒーでも淹れてくるんで」
「ありがとう。君は相変わらず、優しいね」
汐見さんは長い脚を見せつけるように、ソファに座って脚を組む。……その様子からして、うちに来た時の紗耶ちゃんのような狂気は感じられない。
……でもだからって、気は抜けない。
「どうぞ」
「ありがとう。……うん。君の淹れてくれたコーヒーは、やっぱり格別だね」
「褒めてもらえて、嬉しいです。……それで? クロにしてやれることっていうのは、一体なんなんですか?」
汐見さんの正面に腰掛けて、そう尋ねる。
「いきなり本題だね。でもいいよ、ボクも今更もったいぶる気はないからね」
汐見さんはそこで一度、窓の外に視線を投げる。そしてそのまま遠くを見つめたまま、言葉を告げる。
「ボクがクロ様の信者になればいい。そうすればクロ様も、多少は力を取り戻せるだろ?」
「……それ、あさひから聞いたんですか? それとも、汐見の家に伝わることですか?」
「両方かな」
「……そうですか」
確かに汐見さんの言う通り、信者が増えれば増えるほど神の力は増す。俺の心がクロから離れたことでクロの力が弱まったように、神は人の想いを力にする。
そして現状、クロを信仰しているのは俺だけだ。少し前までは久折の人間と汐見の人間は皆、クロとシロを信仰していた。けど今はもう、誰も2人を信仰していない。
だって俺がクロに願って、彼らを皆殺しにしたから。
普通の人間は、自分を……自分たちの家族を殺し尽くした相手を、敬うことなんてできない。だからあれから今に至るまで、誰もクロを信仰していない。
……けれどそれは、悪いことじゃない。寧ろ俺にとっては、とても都合がいいことだ。だからできれば、俺以外の誰かにクロを信仰して欲しくはない。
「悪いですけど、汐見さん。貴女の信仰は、クロには届きません」
それは、嘘だった。けれど俺は、汐見さんの瞳を真っ直ぐに見つめて、そう言った。
「どうしてそう、言い切れるのかな?」
「貴女が自分を殺して欲しいだなんて、ふざけたことを願うからです」
「くふっ。でも君が、言ってくれたんじゃないか。シロ様じゃなくて、クロ様に願った方がいいって」
「……やっぱり、覚えてるんですね」
汐見さんがこの家に来た時から、そんな予感はしていた。紗耶ちゃんのことといい、クロのことといい。今回はいつもと、何かが違う。だから汐見さんが、前のループのことを覚えていることくらいで、驚いたりしない。
「それは、違う。ボクは別に、覚えているわけじゃないんだよ。……ただボクは、知っているだけ」
「知ってるってことは、やっぱりあさひから聞いたんですね?」
「それも、違う。そもそもあさひは、そんなことを教えてはくれないよ」
「なら、他に誰がそれを知ってるって言うんですか」
「メモ帳だよ、メモ帳。朝、目を覚ますと、見覚えのないメモ帳が枕元に置かれていた。まるで、サンタクロースからのプレゼントみたいにね。そしてそれに、書いてあったんだよ。ボクも知らない、ボクのことがね」
「────」
思わず、息を飲む。メモ帳。今の状況でそう言われて思い浮かぶものは、1つしかない。
「それは、可愛いキャラクターのメモ帳ですか?」
「そうだよ。もしかして、君のところにも同じものがあったのかな?」
「……そんなところです。それよりそのメモ帳、見せてもらってもいいですか?」
「悪いが、それはできない。なんせあれには、君にも言えないような秘密ばかり書かれていたからね」
汐見さんは笑う。本当に楽しそうに、彼女は笑う。
「そうですか。まあ無理にとは、言いません。でも、貴女が何を企んでいるのか分からない以上、クロに合わせることはできません」
「そうか。なら、仕方ないね。君がクロ様を独り占めしたいと言うなら、ボクはその想いを尊重しよう」
「そう言ってもらえると、助かりますよ」
「でも、彼女のことは説明してくれるんだろ? 君の後ろにいる、その愛らしい彼女。その子は一体、誰なのかな?」
そう言われて、ゆっくり視線を背後に向ける。するとそこには、扉の隙間から隠れるようにこちら見る、紗耶ちゃんの姿があった。
「ごめんなさい、お兄ちゃん。でも私、どうしても気になっちゃって」
そう言って頭を下げる紗耶ちゃんに、俺は『大丈夫だよ』なんて当たり前の言葉しか、返すことができなかった。
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