第32話 まだ帰路遠く車帰

 右折してすぐに飛び込んできた車の行列に、先の一言のせいか、何かで見かけたアイドルのサイン会を思い出す。

 とすれば、我々のようなファンはこの四年半というもの阿蘇という名の女神か男神を待ちわびた先に、その揮毫を求めているようなものだろうか。


あにさん、後ろからバイクが来てますけど、どうします」

「この渋滞だから流石に譲る。後ろや横にぴったりつかれても怖いからな」


 既に右折する際に二台から追い抜かれている。

 一度、左に詰めようとしたが、対向車も多いため右に詰めて左から追い抜かせる。

 そのまま走り抜けたバイクの後に、一台が駐車場に逸れて落伍した。


あにさんも引き返しますか」

「いや、折角だからのんびりとやろう。このまま山登りだ」

「でもいいんですか、結構身体に障りますよ」


 デミオには見抜かれてしまっているようだが、僅か三分ほどにして既に左足が少しおかしくなっている。

 クリープ現象なるもののないマニュアル車ではその代わりに半クラッチを以って山道の渋滞を切り抜けるのだが、これは微妙に左足を上げる必要があるため続けば体力と気力を消耗していく。

 特に山道では一瞬の気の緩みがエンストを引き起こし、そのまま合体してしまう恐れがあるため厳しさが増す。


「助かるのは、後ろの方が少し余裕を持って車間を開けてくれているところだ。最近は車が急に下がることを知らない人も多いから、詰められるときはかなり詰められるからなぁ」

「あ、でも、少しずつ動き出しましたよ」

「お、そうだな。ここまでで五分か。これなら……って、また停止か」


 こちらも車間を取りながらじりじりと進んでいく。

 やや深い木々のトンネルを抜けて、いよいよ自動車専用道手前の信号が見えてくる。


「一体、この十分間は何だったのかといえば、ここの信号待ちだったのか」

「いや、そうでもなさそうですよ、あにさん」

「うわ、本当だ。停車と微速前進が続きそうな車列になってる。それなりに距離があると思うんだが、まさか前線この調子とかないよな」

「今から引き返しますか」

「もうここまで来たら、後戻りはできないなあ」


 じりじりと昇りながら、真新しい路面に浮かび立つような針葉樹が秋空に映える。

 その感動を知ってか知らずか、インターで次々に車が割込み、バイクが脇を抜けていく。

 それでも、青々としていた草が色づくようになると、急に流れ始めた。


「ゆっくりですけど、進むなら少しは楽ですね」

「ああ。これなら二速で大丈夫だから、もう左足は大丈夫だ」


 高架を進めば、まるで大空を駆けているような錯覚に襲われる。

 遠くから蝉の声がしたのは幻聴であろうか、それとも祝いに迷い出たというのか。

 いずれにせよ、これから先は僅かな時間で見納めとなるであろう光景を一つ一つ網膜に焼きつけつつ進めば、程よい心地よさを得る。

 気付けばデミオも鼻歌を歌いだし、私もそれに欠伸で応じる。


「もう、欠伸の合いの手なんて聞いたことありませんよ」

「いやぁ、悪い。でも、こんな風にのんびりするのもいいもんだな」


 などといっていると、前の車が加速し出し、専用道らしい流れに変わる。

 目の前の景色がどんどん後ろへ流れていき、奥に控える阿蘇が慌ただしく近づいてくる。

 安堵の息を一つ吐いて、急勾配そのままにトンネルへと突入する。


あにさん、トンネルですよ、トンネル。なんだかワクワクしますよね」

「いや、新しい道だから少し分かるが、そんなに興奮することか」

「いやだなぁ、あにさん、トンネルの良さって抜けた後に広がる景色への期待じゃないですか。ワクワクしないなんて寂しい大人になっちゃいけませんよ」


 そんな子供じゃないんだからと笑いつつ、デミオの言葉に何か滾るのを感じる。

 何のことはない、私もこの子も同類でしかないのだ。

 そして、四分ほどの先に降り注いだ光に、私もデミオも溜息を吐き、その恍惚は阿蘇の原野に溶け込んでいった。


「って、びっくりしたなぁ、この速さで僕の横をバイクが抜けましたよ」

「前の車も怖いな、えらく左に寄ってる。昔、目の前の車がそのまま側面にぶつかったことあるから、ちょっと距離を取るぞ」


 感動しつつも冷静に駆けているつもりであったが、阿蘇の高原が向こうに見えた時には、気の高まりを思わず抑えられなかった。


あにさん、草原ですよ、高原ですよ」

「おお、見えます、丸見えであります」


 四十分の長旅の末に姿を見せたのは手を振るマスコットたちであり、私もそれに応えて右へ曲がった。


「それじゃあ、今度は」

「下りの時間ですね、あにさん」


 復路は車帰のインターチェンジから北側復旧道路に入ったのだが、行きが嘘であったかのように流れていく。

 今度は僅か十五分ほどで大津に至り、五台のバイクと別れるとともに身近となった阿蘇の在り方に胸を衝かれるようであった。


「で、あにさん、ここで左折したということは……」

「ああ、丸野石油で給油していこう」


 軽い気持ちで立ち寄ったところ、見慣れたスタンドの前を車が流れ、テレビの取材陣が陣取っている。


「すみませーん、大丈夫ですか」

「いらっしゃいませ、こちらへどうぞ」


 爽やかな秋の西日に彩られた青いジャケットの青年が手招きする。

 眩しすぎる笑顔が、外輪を背に輝き、私もデミオも平静さを失おうとしていた。


あにさん、あれ、もしかして」

「ああ、あれが話していた丸野店長、だな」

「うわ、すっごい好青年じゃないですか」


 デミオを残して、店内で五七号線開通記念のグッズを思うがままに買い集める。

 その合間に話をしようとするのだが、いざ本人を目の前にすると思うように声が出ない。

 やがて、慌てるようにしてデミオの許に戻った私は、再びその進路を阿蘇に向けた。


あにさん、どんな話をされてきたんですか」

「いや、いつもの人見知りで、差し障りない話など」

「もう、あにさんらしいですけど、それじゃダメですよ。もう、また一緒に来ましょうね」


 デミオの弾むような声が、開闢した阿蘇の山並みを貫いていく。

 デミオのファンというのも珍しかろうと笑ってから、私達は五七号線を駆けあがった。

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