第30話 高森に沸く黒の豊潤

 阿蘇と一言で切り取ると、そこには茫漠とした草原に馬、そして火山の成した独特の地形が巌のように立ち塞がる。

 そのカルデラと習わされた巨大な窪地を、内牧、一宮、久木野と地名で満たしていけば、何とも逞しい肉感を持ったものへと転じる。

 青田もあり、呑気に牧草を食む牛もあり、バイクに騎乗する者もあり、熊本地震で少し離れた営みもある。

 そして、中岳を筆頭とする阿蘇五岳を境に北を阿蘇方面、南を南阿蘇と鉈で割ったように見ていくと、その景色もあり方も大分に異なってくる。


「それであにさんは、どうやって南の方に行くんですか」

「そうだなあ、昨日の失敗もあるから少し遠回りしてでも国道二六五号線を行く。まだ行ったことがない道だが、これなら確実に高森の方まで出られるからな」


 宮地駅を前にして国道五七号線を東へ進み、そこからさらに左折して南へ進む。

 この時はまだ「国道」という言葉に全幅の信頼を置き、のんびり進むつもりであったのだが、程なくしてまともに地図を見ずに出かけた自分の浅慮を嘆く事態となった。


あにさん、ヘアピンです、ヘアピン! そんなに攻めないでください」

「いや、攻めてない。勾配があるから少し踏み込みすぎただけだ」


 青空に青い山肌が何とも心地よいのだが、運転する身としては緩やかなすり鉢へと放り込まれたような道を進み、穏やかな弧を描いたかと思うと、急に鋭い切り返しを求められ神経を使う。

 隘路を好む者であれば堪らない道なのかもしれぬが、楽観してしまえば谷底と思うとどうしても慎重にならざるを得ない。

 「蛇行する川には蛇行の理由あり」と始まる俵万智氏の短歌があったように思うが、この道にものた打ち回った歴史があるのかもしれない。


「まあ、どうせ時間はあるんだ、のんびり進めばいいさ。牧草の色が変わっていくのが感じられていいじゃないか」

「そうですね。長崎に比べたらこれくらい、なんともないですよ」


 そう言いながら、少しハンドルを切るタイミングが合わないと悲鳴に似た叫びをあげるのだから慎重を期さねばならない。

 草千里を間近にしながら馬ではなく牛車にでも乗るような気分で進んでいくと、再び道は平坦となり、稜線が遠くなる。

 そこに寂しさと愛らしさを覚える中で、私は高森駅近くの「黒柴コーヒー」さんに立ち寄った。


 「黒柴コーヒー」さんは高森町にある小体なカフェであり、ご夫婦で仲睦まじく営まれている。

 小さな住宅街に位置するため、ともすれば見逃してしまいそうになるのだが、この時は無事に辿り着くことができた。

 カジュアルな雰囲気の中でお上りさんになってしまった私だが、特製のパフェとコーヒーをいただけばいつもの調子が戻ってくる。

 コーヒーゼリーやらスポンジやらが詰まった丸グラスのパフェは程よく甘く、草原の中に在って何一つ邪魔することはない。

 ホットサンドをこのままいただきたいとも思ったのだが、宿の朝食で膨れた腹にはかなわぬ願いであった。


 それにしても、外を見てみれば車やバイクを好まれるらしい店主が、デミオをまじまじと眺めている。

 あまり見られると左の傷が目に付くため恥ずかしいのだが、それ以上にデミオが恥ずかしそうにしているのが面白い。


「今日Dの方ですか」


 と店主に声をかけられた私よりも慌てているというのは、それだけになれていないということなのだろうが、それを眺めながらいただくコーヒーは殊に芳香が爽やかであった。


「いやー、あにさん参りましたよ。僕、何かのモデルになったんじゃないかってぐらい見られましたから」

「それなら貴重な経験ができてよかったじゃないか」


 店を出て、すぐ近くの高森駅へ向かう。

 すっかりいつもの調子を取り戻したデミオは、楽しそうに鼻歌なぞを歌っている。


 高森駅は南阿蘇鉄道の終着駅であり、今は短い区間ながらもトロッコ列車などを運行している。

 熊本地震で受けた被害の完全な復旧にはまだもう少し時間がかかるが、その思いは駅舎に掲げられた多数の色紙から伺い知ることができる。

 六枚一組で見つめる漫画のキャラクターたちの輝く目は前をのみ見据えている。


あにさん、男の子たちが帰りましたよ」


 デミオに呼ばれて、駅前の広場にあるC12の前へと駆ける。

 陽光を浴びて黒を輝かせるその雄姿は、駅舎に並ぶ雄姿と遜色ない。


あにさんもやっぱり鉄道好きですよね」

「それもあるんだが、この子はもうすぐ福岡の直方にお引越しするんだ。ここでは保存ができないということで、あるNPOが引き取るらしい」


 地方の路線では必要のないものを維持するのが難しいのもまた事実である。

 しかし、こうして間近で歴戦の勇者を拝めなくなるというのもまた寂しい。

 そうした思いがこの日の私を高森に導いていた。 


「それなら心配ありませんよ、あにさん」

「ん、どうしてだ」

「どうせ道は続いているんです。それなら、一緒に会いに行けばいいじゃないですか」


 デミオの笑い声が天高く昇っていく。

 構内で出発を待つ列車が、どこか羨ましそうにこちらを見ているようであった。

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