第21話 女神の涙 福田の朝
飯盛から諫早を抜けた私たちは、少し落ち着いたとはいえまだ激しい雨の降る中で東長崎を進んでいた。
「
「ああ、こちとら慣れてる道に入っても無理だ。安全運転で行く。左車線にいるからもう、好きなだけ追い抜かせればいい」
日見峠を前にして急カーブと急勾配がセットになって迫る。
常であれば難なく越えられるのだが、これだけ路面が濡れていれば一つの油断でデミオ共々この世のものではなくなってしまう。
ハンドルを両の手でしっかりと握り、ギアを普段よりも一つ落としておく。
「ああ、あそこの
「長崎だけのチェーンでしたっけ」
「系列は県外にもあるみたいだけどな。懐かしいなあ」
「思い出があるんですか」
「うん。学生時代にバイトが終わってから仲間で集まって、全員でステーキを食ったんだ。今じゃ胃袋が喧嘩するから無理だろうけどな」
デミオのまだまだ大丈夫ですよというおべっかがこそばゆい。
私の鯨飲馬食を知るデミオだけに出た正直な一言なのかもしれないが、入った気合のおかげで無事に新日見トンネルへと入ることができた。
雨に妨げられずに進むことのできる有難みを僅かな合間にせよ痛感しながら、少しだけ息を吐く。
デミオもまた身体にかかった雨を振り払うように進んでいく。
まるで猫だなと思っているうちに再び雨天に放り込まれ、そのまま左手の新道へと進んでいく。
「この道も思い出があってな。学生時代に原付で登ってたら、途中でエンジンが止まって仕方なく頑張って押して登ったもんだ」
「僕も真似しましょうか」
「いや、それは止めてくれ。流石にお前は押しきらん」
軽口を投げ合う程度には余裕が出てきたのであるが、残念ながら普段は眼下に収められる夜景を楽しむ余裕はない。
いや、雨天のせいでまともに見えぬという方が正しいだろう。
「私が長崎を離れる前後でこの辺りの道は整備が進んだもんだが、こうして蛍茶屋の方から福田方面まで一気に抜けられるようになるとは思ってなかったな」
「そういえば
「いや、街中だと駐車場がないし、街中のネカフェにはお酒が持ち込めないし」
何を隠そうこの時の私のかばんにはウィスキーが一本忍ばせてある。
これを自由に飲める場所でなければという思いもあるが、その優先順位は少し低くなっている。
ただ、少々雨足が落ち着いたと感じる今であれば無理なく進めるという打算もあった。
「良かったですね、
「まあ、そう拗ねるな。あとは女神大橋を渡ってみたいというのもあってだな」
「あれ、
「そうなんだが、わざわざ戸町を通って福田に行く必要もなかったからな。物語でも扱ってみたいから、一度は通ってみたかったんだ」
女神大橋が鶴の港の口を塞ぐように存在していることは知っており、ここからの眺めはすり鉢状の長崎市街を一望できるであろうことは容易に想像できた。
だからこそ、ぜひとも走ってみたいという我儘が沸き立っていたのだが、こうした話をするとデミオも機嫌が良くなってくる。
高鳴ったエンジン音を鎮めるように再び雨脚が強くなっていく。
「それじゃあ、
デミオをすっかり乗り気にしたところで女神大橋へ昇ると再び雨脚が強まり、視界が瞬く間に奪われる。
再び慎重な運転に戻り、慎重に歩を進めていく。
「こりゃ、無理な運転するなと女神に怒られてしまったな」
「残念ですけど、夜景はまた見に来ましょう」
なんとか無事にこの日の宿であるネットカフェに辿り着いたところで、一息吐く。
少し瞼の重たくなっているデミオをひとつ撫でてから、私は中へと入り強かに飲んだ。
翌朝、昨日の雨が嘘であったかのような穏やかな天気に私はデミオ共々苦笑してしまった。
隣り合いながらも隠れて見えない海の空気で肺胞を満たし、意を決してこの日の活力を得る。
「
「ああ、お陰様でな」
「少し酒臭いですよ」
「え、それはいけない。もう一度、ネカフェで寝てくる」
「冗談ですよ、
「む、そんなにひどい顔してるのか」
「はい。理由は分かりますけどね。でも、その顔で運転してたら亡霊デミオとか言われそうですから」
デミオにやっつけられて右頬を軽く叩く。
自傷行為と見たのか、デミオが目を丸くする。
耳に残った高い音を確かめてから、私は中に乗り込み、再び女神大橋に差し掛かった。
「
デミオに促されて眺めた景色は気品に溢れ、居並ぶ山々は島並みに似て、私を穏やかに迎えてくれた。
カーラジオに合わせて歌うデミオの声に耳を傾けながら、私は静かに別れへ向かって息を整えようとしていた。
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