【天界0】

「ここにいたんだね」


 そう言って、ベンチの隣に座る、背の高い影。

 振り向いてその顔を確認せずとも、声と雰囲気だけで誰なのかわかる。


 座ってもいいかい? などと、こちらの了承を得る気がないのは、いつものこと。

 その振る舞いに慣れているせいもあるけれど、柔らかい声と物腰に、たいていの場合、「まぁいいか」という気にさせられてしまう。

 不思議なひとだ。


 こちらも、隣へ視線を向けることなく答える。


「お昼ご飯をいただいたところです。休憩時間がまだ少し余っていたもので。せっかくですし、ここで一息つくのも良いかと」


 同僚がたまたま通りかかって目撃でもしたら、なんて無礼なことを! と、ただでさえ吊り気味の目尻をさらに吊り上げたに違いない。


「いいと思うよ。君は働きづめなんだし。時にでなくても、のんびりする時間が必要だ」

「あんまりしょっちゅうのんびりしていたのでは、仕事の勘が鈍ってしまいます。……わたくしをお捜しでしたか? 何かご用が」


 最初にかけられた言葉を思い出し、自分よりずっと高い位置にある顔を見上げて、問いかけた。


「いや、そういうわけではないんだ。ただ、勤勉な君の顔を拝んでおかないことには、どうにも書店にやってきた気がしなくてね」


 まばゆい金髪が、藤色のスーツの肩にサラサラと流れる。快晴の日の空のような蒼い瞳を細めながら、端正な顔立ちでウリエルは微笑んだ。


 社員食堂の裏口から外に出ると、管理局の建物と建物に挟まれる形で、こぢんまりとした庭が広がっている。廃材をかき集めて誰かが作った、不格好なベンチが一つあり、腰かければ正面に、小さな花壇に咲く花が楽しめた。そう多くはないが、周りには樹木も植えられている。


「不思議なものだね」


 色とりどりの花弁を慈しむように、まっすぐに花壇を見つめながら、ウリエルが言った。


「土がないこの地にも、人間界と同じように花が咲いている」


 管理局がある場所は、だだっ広い一枚雲の上。理論上は、微生物がおらず栄養分もないこの地に、植物が育つはずがない。


「施設管理課の者から伺ったお話では、光さえあれば、あとは水の量を調整することで、自在に開花させられるように改良してあるのだとか」


 庭が造られたのはかなり昔のことだが、ウリエルはその話を初めて聞いたらしい。「ほう、それはすごいな」と素直に感心した。


「確かに、この地面は水蒸気の塊、上は太陽光を遮るものがない。水と光だけは存分にあるからね。とはいえ、苦労したことだろう」

「まったくです。いったいどなたがそこまでして、ここに庭を造ろうなどと言い出したのか」


 元々はなかったものだ。庭がなくても、花が咲いていなくても、もちろん仕事に支障はない。困る者などいなかったはずだ。

 それなのに、わざわざ労力と時間を費やして、ささやかなガーデンは造られた。気がつけば、いつのまにか出来上がっていたベンチも、誰の指示でもないのだろう。


「美しいね」


 心に湧いた感情に、素直に文字を当てはめる。ウリエルの声音は、いつだってそんな感じだ。


「それに、とてもいい香りだ。心が穏やかになる。この庭に造られる季節は紛いものには違いないが、慰められ、元気づけられる者は多いことだろう」

「ウリエル様もですか?」


 嫌味のつもりはなかった。

 彼は外見だけでなく、考え方や心までもが美しい。元気を損なわれるような出来事は、彼のところだけ飛び越していくように思えていた。


「もちろん」

 ウリエルは大きく頷いて、それから、窺うような視線をこちらに寄越した。

「76番、君もだろう?」


 答えることが憚られ、とっさに顔ごと視線をそらす。


 ウリエルは知っているのだ。

 自分が不幸と無縁だと思われていること。そう思っている従業員の一人が、いまだかつてないくらいに落ち込み、ふて腐れてここにいること。ひょっとしたら、その理由にもすでに気がついていて、それでここにやってきたのかもしれない。


「わたくしは」


 気持ちの整理をつけるために、言葉を続けかけた口元を一旦引き結ぶ。


 言いたくないわけではなかった。むしろ、彼には聞いてほしかった。ただ、誤解されたり、自分の気持ちが正しく伝わらなかったりすることへの恐れが、すべて打ち明けることをほんの少し躊躇ためらわせただけだ。

 頭の中で言葉を探し、選びながら、慎重に話し始めた。


「……記録保管庫のスタッフ失格です」


 風がないこの場所の花は揺れることなく、堂々として見えた。


「新刊の魂を、回収できなかったそうだね」


 何気ない会話をするのと同じトーンで、ウリエルは言った。


「やはり、お耳に入っておられましたか」


 記録保管庫を利用するのは、ウリエルをはじめとする天使たち。

 天界は広く、書店の役割を持つこの施設は数多くある。人間がそうであるように、お気に入りの店舗に通いつめたり、気ままにあちらこちらの店舗を巡ったりと、天界の書店の利用方法や頻度もまた、天使によって様々だ。


 ウリエルはここを固定にしている。よく訪れる書店の従業員が、失態を犯したと知るのは、総括する立場でもある彼なら早いだろうとわかっていた。


 ぼんやりと花壇を眺める。


 あの庭には、金木犀が咲いていた。

 磨かれていない窓からは、華奢な枝と、そこにびっしりと密集する、小さな橙色の花がかすんで見えた。


 本物の金木犀の花を目にするのは、それが生まれて初めてだった。

 だけど、その名前も、高貴な香りを漂わせることも、「真実」という花言葉を持つことも、本で読んで知っていた。


 知識を得ること、それは、正しさを得ること。そう信じていた。

 同僚たちにコソコソと影で笑われても、暇さえあれば、がむしゃらに勉強する日々。





*****


「亡くなっていないではないですか」


 思わず目をしばたたく。


 目の前で、老女はニコニコと微笑んでいた。毛羽立った座椅子に座り、まだそれほど寒くないはずなのに、コタツ布団に下半身をすっぽりと突っ込んでいる。


「あらまぁ、かわいらしいお客さんだこと。朝方は冷えるわよ。どうぞお入り」


 老女はまるで孫を誘うかのようだ。悲鳴の一つも上げるどころか、まったく驚きもせず、コタツ布団をまくり上げた。


「……どうやら、本部からの情報が誤っていたのだと思われます。これだから、コンピューターとやらは信用ならないのです」


 深いため息をつく。

 その時はまだ、本部から寄越された通達が、エラーだったと信じて疑わなかった。


 職場に、デスクトップパソコンが導入されたばかりだった。

 伝達係が自らの足を使って運んでくるよりずっとスピーディーだと、同僚たちはみな喜んだが、しょせんは機械だ。故障もするし、不具合だって起こる。


 実際こうして、機械によって伝えられた現場にやってきてみれば、そこでは回収の手を必要としていない。きちんとした情報を運んでもらえないことには、例え光より速かろうと意味がないのだ。


 本部に連絡して、正しい派遣先を教え直してもらわなければ。

 結局、二度手間ではないか。まったく面倒なことだ。もしこれで、こちらのミスだなどとなすりつけてこようものなら、優秀社員と表彰されていようと、さすがに抗議せねばなるまい。


 ぶつぶつ言いながら、マントから携帯電話を持ち出す。この持ち運べる電話とやらだって、まぁまぁ重いし、いつ不具合を起こすかわからない。

 そこで、はたと気づいた。


 我々の姿は、生きている人間には見えないはずだ。

 では、なぜ老女には見えている?


「お困りのようだな。『死神書店』の従業員さんよ」


 ふてぶてしい声とともに現れたのは、全身黒い衣装をまとった少年だった。


 いつやってきたのか、六畳半の和室に、柱に肩で寄りかかるようにして立っている。腕を組み、自身の身長とさほど変わらないくらいの、大きな鈍色のハサミを背負っていた。


 室内がいっぺんに暗くなる。それは、唐突に嵐に巻き込まれたのかと思うほどだ。広さの感覚までわからなくなってしまった。


「俺で良ければ、手を貸してやろうか」


 戸惑いと焦りの中で見る、初めての顔。姿。でも、知っていた。だけど、それもやはり知識としてだ。


「カロン……? 冥界の使者……」

「俺のことをご存知とは。嬉しいね」


 カロンは尖った犬歯を覗かせて、にたりと笑った。


 誰が見てもわかるくらいに、無様にうろたえてしまった。

 研修中、説明は受けていた。人間の魂を闇に引きずり込む使者がいることを。彼らは、天界とは真逆の位置関係にある、冥界からやってくる。冥界とは死者の世界だ。


 彼らに連れていかれた魂は、転生の輪廻から外れる。つまり、生まれ変わることは二度とできない。永久に闇の中をさまよい続けるか、完全に消えてしまうのだ。

 それは、この世のことわりに反すること。あってはならない。彼らに魂を奪われてはならない。我々はそう教えられてきた。


 ただ、彼らはやみくもに魂を奪うわけではなかった。


 急いで老女を再確認する。

 背もたれに背中を預けた彼女は、細い黒フレームのメガネをかけている。柔らかそうな白い髪。痩せた肩を覆う、明るい茶色のカーディガン。テーブルの上の、コスモス柄の湯飲み。その横で倒れている、透明なガラスの小瓶。白い錠剤が二粒こぼれていた。


 次から次へと訪れる珍客に、驚きを見せることのないその顔は、不自然なほどに白すぎる。


「まさか、あなたは……」

「自死した」


 愉快げに答えたのは、カロンだった。


「そんな……」

「俺たちが冥界へ選ぶ魂は、自死した魂だ。それくらい、あんたら死神書店の従業員だって知っているんだろ」

「それは、そうですが……」

「どんな理由があろうと、自ら死を選ぶっていうのは、この世で最も罪深い行為だ。罪を犯したら、罰を与えないとな」


 なぜなのか自分は、そういったケースに出会うことはないと漠然と思い込んでいた。それまで計算外の出来事に直面したことなどなく、それが冷静さを失わせた。


「今後のために覚えておけよ。医者が処方する睡眠導入剤ってやつは、危険なシロモノであることが多いんだぜ」

「ええ、そうよ。その通り。調べたの。心の底から、ゆっくり眠れる方法を」


 ゆったりとした口調で、老女はカロンのあとに続けた。

 咳がひどくて寝不足だから、ゆっくり眠りたくて喉に良い飲み物を調べた、とでも言うような軽さがあった。


「……なぜ。なぜすでに亡くなっているのに、意識があり、話すことができるのですか?」


 老女は顔の白ささえ除けば、生きている状態とまるで変わらない。

 卑劣なライバルに教えを請うなんて、これほど屈辱的なことはないのに、そんなことを感じる余裕もないくらい、動転していたのだ。


「さあな。詳しいことは、俺にもわからねぇよ。たぶん、身体のどこかに魂が引っかかって、出てこられないんじゃないのか」

「そんなことが……?」


 おびただしい量の書物を読んできたのに、そのような前例は見たことがない。

 カロンは不敵に笑う。


「何にせよ、この魂は俺が連れていく。自死という大罪を犯したこの魂は、輪廻から外れる。二度と生まれ変わらない。骨折り損だったな。転生するまで魂を保管することが仕事の、死神書店の従業員さんよ」


 暗い眩暈に包まれた。





*****


「……これまで、自死した新刊を受け持った経験はありませんでした」


 それが、仕事をしくじった言い訳にならないことなんて、わかっている。そんなことは、当然ウリエルにだってお見通しで、だから、相槌すら打たない。


「老女が」


 これを言ったら、自分こそが、出口のない世界に連れていかれる罰を受けるのではないかと震える。だけど、抱えたままでは、罪の重さにそれこそ押しつぶされてしまいそうで、結局は口にした。


「……選んだのです。わたくしと行くより、カロンについていくことを」

 

 老女は打ちのめされていた。人生に絶望していた。


 長い道のりを地道に懸命に、誰のことも傷つけず、正しく生きてきた彼女を待っていたものは、世間の冷たい仕打ちだった。

 老いているというだけで、肉体が衰えているというだけで、時に邪魔者扱いされ、時に汚いもの扱いされた。それでも、連れ合いが生きている間は、励まし合って頑張れた。


 共に戦ってくれる相手に先立たれた時、たった一人で孤独な未来を生きる気力は、乗り越える力は、もう彼女の中にわずかにも残っていなかった。


 彼女は、しわくちゃの顔をさらにぐちゃぐちゃにして、嗚咽するように気持ちを吐き出した。悲しいくらいに涙はもう出ないから、笑っているようにすら見えた。


「わたくしでは、どう説得しても、お気持ちを変えることはできませんでした」


 カロンがしたことは、彼女の話をすべて肯定しただけ。

 ただ、それだけなのに。


「自ら死を選ぶくらいだ。人の生そのものに嫌気がさしてしまったとしても、おかしくはないよ」

「慰めなどいりません」

「76番」


 ウリエルは誰も、何も否定しない。

 そんなことはとうに知っていて、尊敬する点でもあったのに、今は受け入れられない。

 否定して欲しかった。なんてことをしてくれたと怒鳴りつけて、軽蔑して欲しかったのだ。彼には唯一、その権利がある。


「死神書店、なんて笑われている記録保管庫のスタッフの一人が、本物の死神に負けたのです。なんだか滑稽ですよね」

「僕は、そんなふうには思わない」

「馬鹿にされることが悔しくて、頑張ってきたというのに」

「勉強家の君を、僕は誇りに思うよ」

「命あるものが生まれ変わることは、この世のことわり。当たり前で、普遍的なこと。わたくしがここで教わったことは、間違っているのですか」

「いいや」

「転生は、命あるものにとって大切なこと。繰り返すことで、魂は成長する。人間は、特に成長したがる生きものであると、そう学びました」

「その通りだ」

「では、なぜ老女は転生を拒んだのです……!」


 黒い毛の生えた丸いこぶしで、マントの生地を握る。

 らしくなく感情的になっているとわかっていながらも、止められない。


「正しいことであるはずなら、説得に応じていただけるはずではありませんか。理解していただけるはずではありませんか」


 確かに老女にとって、明日からの日々は厳しいものだったに違いない。だけど、それは特別なことではないのだ。

 この広い世界には他にも、彼女のように、いや、それ以上の苦しみや悲しみを背負いながらも、最期まで生きて命をまっとうする人間がたくさんいる。


 彼女のようなワガママをすべて聞いていたら、この世には生まれ変わる命など、やがて一人もいなくなってしまうだろう。そんなことになったら、我々は職なしだ。

 何より、この世界のバランスが崩れてしまう。


「去り際に、カロンは言いました。マニュアル通りにやることがすべてではない、と」


 こうも言った。

 自分の仕事が褒められないもの、という自覚がある。だからこそ、できるだけ魂に寄り添う努力をしている、と。


 だから、何だと言いたい。

 我々は、寄り添えないのではない。あえて寄り添わないのだ。


 ただ耳障りのいい言葉をかけてあげるだけなら、それこそ死神にだってできる。

 それだけでは職務を遂行できないから、マニュアルがあるのではないか。それこそが正しいやり方だと、推奨されているのではないか。

 それなのに。


 老女がしわがれた手でカロンの手を取るのを、ただ茫然と見ていた。


 まるで時を飛び越えて子供時代に戻ったかのような、母親の手にすがりつく時のような、心の底から安心しきった、そんな柔らかな表情を、老女は最期に浮かべた。


 二人の姿が闇に溶けてなくなった時。使われなかった白紙の書籍が、この手から滑り落ちた。


 正しいとされていることが、彼女を救うことはなかった。

 詰め込んだ知識も、何の役にも立たなかった。完全なる敗北。


「正しさとは、いったい何なのです……?」


 この胸の奥底が、スプーンでえぐられる痛みを覚えて、うめく代わりに目を閉じた。金木犀の、爽やかで甘い香りが、いつまでもこの鼻の奥で香る。消えてくれない。


 我々は、無力だ。正しいと信じていることが、たった一つの魂も救えないなら。


「僕が、購入するのは、子供の本だけだと気づいていたかい?」


 その問いかけは唐突で、すぐに返事ができなかった。


 こちらを見下ろすウリエルの蒼い瞳は、優しげなのに、悲しげでもある。彼はたびたびそんな瞳を見せるけれど、その憂いの理由は知らなかった。

 自分にはまだ知らないことが多い、と痛感する。毎日毎日、寝る間も惜しんで、勉強に励んでいるというのにと思うと、焦りに似たいらだちを覚えた。


「……そういえば」


 腹の底をくすぶらせつつも、思い返す。

 彼は誰よりも頻繁に、書店のカウンターに現れる。それが、彼らの仕事に必要なものとわかっていながらも、その腕に抱えられた書籍の量の多さには、いつだって感心させられた。


「あれらは、すべてが子供のものだったのですか?」


 目をしばたたく。

 確かに、子供の魂のものが多い印象。彼のレジを担当する機会がなかったので、まさかすべてがそうであるとは気づかなかった。


 ウリエルは穏やかに微笑みながら、頷いた。


 人間は生涯を終えたら、一冊の書籍になる。そして、天界にある魂管理局の中の、記録保管庫で管理される。

 その事実を、人間は知らない。


 様々な原因で亡くなり、身体から離れた魂を回収するのが、我々、記録保管庫のスタッフの大きな仕事だ。


 そして、その書籍を購入していくのは、天使たち。

 天の使いという呼び方、それは実のところ、人間が呼んでいたものを拝借したものだ。

 我々と同じく、彼らにも社員番号があるし、個人の名前も持っている。天界では、彼らをひとくくりに呼ぶ場面もなく、それまでそういった名称がなかった。


 彼らは実際、本部からの任務で、人の縁を結びつけに出向いたり、幸運の宅配をしたりする。人間はそれを受け取ると、たいがいが「天使のおかげだ」であるとか「神様の使いがきた」などと言って喜ぶらしく、いつしかそれが通称になっていった。


 ちなみに、人間が思い描く、白い装束、もしくは素肌に冠などの天使の姿は、はるか昔の画家が描いた姿が影響しているものと思われる。真っ白な大きな翼を持つことはその通りだけど、本当の天使たちはみんな、パリッとしたスーツ姿だ。


 そして、本来の仕事は、人間の転生のジャッジである。

 それも、人間は知るよしもない。


 書籍の内容は、人間の生涯。一冊につき、一人分。

 おこない、ポリシー、誰かにかけた言葉、飲み込んだ思い、好んで食べたものに至るまで、事細かに記録されている。


 天使たちは、それをじっくりと隅々まで読み込んで、次にどこへ転生させるのが適しているのかを、レポートにしたためる。場所、時代、男性にするか、女性にするか、裕福な家にするか、貧乏でも才能を大事にする家にするか、天使なりに考えて導き出す。

 本部に提出されたレポートは、そのまま申請書になる。本部で受理されると、次の生まれ変わり先が決まるシステムだ。


 選ぶ書籍に決まりはないが、天使のほとんどは、高齢で亡くなった人間のものを購入する。読むのには時間がかかるけども、情報量が多い分、ジャッジがしやすいからだ。


「子供の転生は、ジャッジが難しいと聞いたことがあります」

「あぁ、そう言われているね」

「生涯が短いため、記録も少ない。読むこと自体はたやすいけれども、情報量が少なすぎて、転生先を見極めにくいと」

「まさしく」

「それでは、どうして」


 腕に抱えた大量の書籍の中の、せめて半分であるなら、まだ納得できる。それだって、たやすくはない。子供の書籍は一冊を担当するだけでも、大変な精神力を費やすと聞いている。それなのに、すべてが子供のものだなんて。

 あれだけの量を読んでレポートを提出すれば、毎回、心身ともに疲れ切ってしまうはず。誰かがやらねば、という責任感だとしても、荷が重すぎる。


 ウリエルは少しだけ目をふせる。両方の口角は上げたままなのに、寂しげに見えた。


「僕は、過ちを犯したからだ」

「あやまち、ですか?」


 彼の口から、そんな言葉を聞く日がくるとは思わなかった。


「僕も最初から、子供のものだけを選んで購入していたわけではないよ」

「何か、きっかけがあったということですか?」


 きっかけがあって、過ちを犯すことになってしまったのか。それとも、きっかけが、過ちそのものだったのか。そもそも、いつでも完璧なウリエルが失敗することが信じられない。


「ある人間が、生まれ落ちた時代で、とても多くの子供の命を奪ってしまった」

「え?」

「その人間がその時代の、その場所に転生することを勧めたのは、僕だ」


 その事実は、あまりにも滑らかに語られたものだから、耳にするすると入り込んで、そのまま留まることなく、また体外へ出ていってしまったかのように感じられた。


「そのことを、偶然、知ってしまったんだ」


 ウリエルは自嘲気味に笑う。


 確かに、そのようなことは、そう頻繁にあることではなかった。

 本部から、転生が決定したことの報告はあっても、それ以降のことについては知らされない。彼らも、一切関知しない。ジャッジマンの仕事は、ジャッジすることのみだからだ。

 無責任にも聞こえるけれど、生まれ変わる人間一人一人に責任を持っていたら、天使はそれこそ眠る暇もない。そして、それは我々も同じだ。


 どうやってそれを知りえたのかについては、彼には披露する気がないようだ。

 でも、と思い当たる。過去にジャッジを受け持った人間の書籍を、偶然にも再び手に取ってしまうことは、ありえないだろうか。そして、その人間が過去に自分が担当した魂かどうかは、おそらく当人にはわかる。


「僕は、きっと驕っていたんだよね」


 ウリエルは、まるで他人に起きた出来事を話すみたいな口ぶり。


「自分の出した答えが間違うことがあるなんて、少しも思っていなかったんだよ」

「でも、それは、ウリエル様のせいではありません」


 ようやく否定することができた。


「魂の本質は、変わらないのかもしれません。しかし、考え方や哲学は、環境や経験によって作られていくものです。生まれ変わった人間が、そこで何を思い、どんなおこないに出るかなど、我々には預かり知れないことではありませんか」

「そうかもしれない」

「そうなのです」

「でも、僕が転生させなければ、子供たちは命を落とさずに済んだかもしれない」


 息が止まる感覚があった。

 思ってしまったのだ。あの老女だって、闇に消えずに済んだ「もしも」があったかもしれない。もしも自分ではなく、他のスタッフが回収を担当したなら、あるいは。


「僕に熟慮が足りなかった。多くのジャッジマンの、手本にならなくてはならない立場であるにもかかわらず」


 かけるべき言葉が見つからない。


「君の言葉を借りるならば、僕は、ジャッジマン失格だ」

「そんな……」


 ウリエルは微笑んだ。


「だから、これは、僕の贖罪なんだよ」

「贖罪」


 つぐなうこと。罪ほろぼし。

 なんて悲しい言葉なのだろう。ウリエルは、とても傷ついていた。長い時間を、痛みとともに歩いてきたのだ。

 他の天使たちとは少し違う、ウリエルの行動の裏に、そんな悲しい秘密があっただなんて。


「だけどね。幼くして生涯を終えた魂は、何よりも優先して、転生させられる権利がある。今は、そう考えられるようになった」

「何よりも優先して、転生する権利」

「だって、そうだろう? 子供は、この世界の宝だよ」


 彼は、そう痛々しく微笑む。そんな彼こそ、この世界で最も価値のある存在に思えた。


「それが、今の僕の正義。言い換えれば、僕の、正しさだ」

「正しさ……?」

「76番」


 ウリエルは、再び視線を花壇に向けた。


「正しさはきっと、自分の中だけにあるのではないかな」

「自分の中、ですか?」

「ごらん。あの美しい花たちは、我々が手を加えた。それを、正しい在り方ではない、と否定する者もいることだろう」


 花を見る。この場所で咲くために、品種改良された彼ら。それが、彼ら自身が望んだことなのかと誰かに責め寄られたら、確かに答えられない。


「でも、彼らにとっての正しさは、咲いて枯れることのみなのかもしれない」

「咲いて、枯れること、のみ」


 第三者には知りえない、ということだろうか。


「僕のしていることも、同じだ」

「ウリエル様」

「他の誰かから見れば、正しいと褒められることではない。でも、僕はそれでいい」


 心配するまでもなく、清々しい声でそう言ったウリエルは、こちらを向いた。


「76番。それが正しいことなのか、間違っているのか。それはきっと、自分が決めることなんだと、僕は思う」


 そうして、細くしとやかな指の先で、この心臓を差し示してきた。


「君にとっての正しさは、君自身が決めればいい」

「わたくしが? 自分で?」


 彼は頷く。


「76番、君は、とても後悔しているんだろう?」


 また胸がうずく。


「君が辛いと感じていることは、冥界の使者に魂を奪われたことではない。自分の力がおよばなかったことだ。老女を、どうしても救ってあげたかったんだね?」


 鼻っぱしらがつん、と痛んで、唇を引き結ぶ。

 カロンに負けたことは、確かに悔しい。

 ただ。老女の魂は、もう決してこの世界に舞い戻ってくることがない。永遠に果てしない闇の中をさまようことになる。辛くても、寂しくても。声を上げても、誰にも届かない。自ら命を絶ってもなお、そんな思いをするだなんて。

 それを思うと、何よりも辛い。自分こそが消えてしまえばよかったと、自分なんかがここにいていいのかと思ってしまうほど、打ちのめされるのだ。


「後悔した者は、強い。僕はね、君がもう間違うことはないと確信している」

「そんな……」

「大丈夫。君は必ず正しさを見つけられる。僕を信じてほしい」

「ウリエル様」

「僕も、君を信じている」


 そうきっぱりと笑う、優しく、強く、美しいひと。


 大天使様の次に敬われている、彼にそう言われたら、恥ずかしながら涙ぐんでしまっても、しかたがないことではないだろうかと思う。


「はい……!」


「ところで、76番は今日、ランチに何をいただいたんだい?」

「鰹のたたき定食です。日替わり定食にめったに登場しないメニューですので、出勤でラッキーでした」

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