SPEAK!

片葉 彩愛沙

1-1 冷蔵庫

 ――――ぽちゃん


 レオの石鹸でぬめっていた大きな手から、お湯の中に落ちた。


「かかったじゃないか」


 その飛沫を受けたケイトが、顔をしかめて頬を拭う。


「すんません」


 レオは申し訳なさそうに笑い、ぬるい湯に手を突っ込んで拾い上げる。


 夏だというのに、この二人は浴室に長居している。換気をしていないので、室内は立ち上る湯気でぐっしょりしており、二人の服は肌に貼り付いていた。真っ白で清潔なタイルの壁も汗ばみ、いまにも雫が零れ落ちそうだ。


 すりガラス越しの夜空を見上げていたレオが口を開く。


「ケイトさん、そういえばその、次の大雨って何曜日?」

「は? 自分で調べろ」

「俺はガラケーなんで」


 また申し訳なさそうに引きつった笑顔を浮かべ、へこへこするレオ。ケイトは湯船からジャボッと勢いよく腕を抜いて立ち上がった。薄い皮膚と対照的な骨太の腕に纏わりついた雫を払うと、レオの黒髪に降り掛かり、彼は首をすくめた。

 脱衣所に戻ったケイトは、洗濯機の上に置いてあったスマホを取った。


「……次の、木曜だな」


 それまではしっかりしていろよ、とタオルで手と画面を拭うケイト。レオは訊き返す。


「しっかり、ってどんなスか?」

「はぁ? そんなの……」


 レオは純粋に「わからない」と言っている少年のようだ。わかっているくせに、とケイトは目をつぶって苛立ちを抑える。


「とにかく、もういいから。それを持ってくるんだ」


 指をさし、手招くと、レオは体を湯船から持ち上げる。バスマットの上に転がすと、細い四肢が奔放に投げ出された。ほかほかと湯気が立ち上る肌についた水滴を拭う。

 ケイトは冷蔵庫を開けた。中に入っていた物を別のところに移し、入り切れないものはテーブルへ。オレンジやリンゴが、落ちてきて、レオは拾おうとした。しかしケイトが睨んだため、手を引っ込める。

 ケイトは棚板抜くと、レオに手招く。

 レオは小さな体を持ち上げ、手足を体育座りのように小さく折りたたみ、冷蔵庫の中に押し込む。垂れてくる腕をしまったり、重心を安定させたりしていると、


 ピーッ、ピーッ


 「あっ」


 ビクッと跳ねたレオは、乱暴に扉を閉めた。衝撃を受けた箱がミシッと揺れる。


「誰の冷蔵庫だと思ってんだよ」

「すんません」


 腕を組んでいるケイトに、レオは笑い返す。その笑顔が気まずさを紛らわせたくて顔に貼り付かせていることを、ケイトはなんとなくわかっていた。ため息をつく。


「いいか。次の木曜まで俺の冷蔵庫で死体を預かる、そして当日、あんたが運転する車で川上に運ぶ、二人で川に落とす……でいいな?」

「それまでに怪しまれたりしませんかね」

「大丈夫だろう。こいつは三日間有給を取っている」

「有給……」

「里帰りだとさ。それまでは大丈夫だろう」

「はい……」


 レオは黙り込んだ。額から顎の先へ伝う汗を拭いもしない。瞳の焦点があっておらず、心ここにあらず、といった様子だ。

 ケイトは嫌な予感がした。そしてそれはすぐに当たった。

 ふらりと玄関へ恰幅のある体を翻すレオ。


「や、やっぱり俺……」


 ケイトはあわててその腕を掴む。


「待て!」

「じ、自首! 自首すれば罪は軽くなるだろ?」

「見つからなければ罪は発生しない!」


 そう言って引き留めるケイトを「悪魔め……」と蔑んだように眉をしかめるレオ。腕を振り払い玄関へ向かうレオに、ケイトはうんざりと声を荒げた。


「ああ行けばいいさ。俺は罪を揉み消せるからな!」


 ドアノブに手をかけたレオが固まる。ゆっくりと首をひねるレオに、ケイトはスマホの画面を見せる。そこには、ケイトと男のツーショットが映してあった。その男は、テレビでよく見かける国会議員とよく似ていた。レオはその写真とケイトの顔を見比べて、青ざめる。

 言いたいことが伝わったらしいな、とケイトは肩をすくめつつ、スマホをテーブルに伏せる。


「少なくとも、俺に協力すればあんたは助けてやるよ。でも、あんた一人で警察行ったところで、捕まるのはあんただけだ」

「……それは、ずるいだろ」


 黒い瞳が、ジッとケイトを見つめている。一歩一歩、ケイトのもとへ戻る体。ケイトは蛍光灯を背後にする彼の影に覆いかぶさられた。悔しさを隠しながら自分を見つめている瞳を見上げ、それでいて心底見下して笑う。


「俺がいなけりゃ、あんたは終わりだ」



――――



「右手に警察署がある」


 扉を開けようとした背中にそう声をかけると「えぇ……」と戸惑い気味に声を洩らされた。ガサッと、あぶれた食材を入れた紙袋が音を立てる。


「びくびくすんな」

「あなたがそんなこと言うから」


 がんばれ、と硬い筋肉質の背中を押して、部屋から追い出した。このタワーマンションは完全防音のため、レオが去っていく足音は聞こえない。


 ケイトはベランダへ向かい、手すりに突っ伏し見下ろした。一番光が強い場所を、おそらくエントランスだろうと予想して、暗闇に目を慣らす。


 ようやく慣れるか慣れないかというところで、一人の人影が過ぎ去った。その姿はすぐに暗い所へ溶けてしまったが、おそらくレオだろうと結論付け、ケイトは室内へ戻った。


 エアコンが効いていて、ケイトの汗ばんだ全身を優しく包んだ。心地良さとともに、寒気がした。今は土曜の夜。これから五日間、死体となったダンのいる部屋に帰らねばならないと思うと、憂鬱だった。


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