第2話 とある記者

1991年8月19日01時頃 敷香市


 南樺太の北緯50度の国境線から一番近い人口密集地、敷香市。この都市は今、深夜1時だというのに喧騒に包まれていた。避難勧告が防災無線から流れ続け、メガホンで呼び掛ける声も聞こえる。ビルも住居も街灯も全て、明かりが灯り、人々は警察や消防、保安庁職員、動員された民間の警備員によって、バスや電車、船へと誘導されて続々と乗り込み、南へと避難して行く。待機列は次第に長くなり、バスや電車を待ちきれない人々の中には、徒歩や自転車で逃れようとする者もいる。彼等の避難手段が何故、徒歩か自転車だというと、道路は軍事作戦優先の為に、自家用車の使用は禁止されているからだ。

 「こんな時でも律儀にルールを守るのは、日本人くらいなものか。」

 違反すればもちろん逮捕されるのだが、こんな非常時でもルールを守る人々の姿に、感心もすれば呆れもした。

 ビルの6階からその光景を見ている俺も大概だがな…

 こんな時でも、仕事柄か、それとも職業病か、オフィスで記事を書こうとしてしまう、外が気になって眺めていたが、まるで現実の事とは思えない。


 このオフィスに居るのは、畑という新聞記者の男であった齢32、樺太新聞社といういわゆる地方紙を発行する新聞社、その敷香支社に大学を出てから務め続けている者だ。


 この新聞社に努めて10年になるが、まさか俺が勤めてる時にこんな事が起きるとは、妄想はしても、現実には起こらないだろうと思っていた。

 「ゴルバチョフ書記長になってから、ソ連は改革を進めてマシに成るかと思ったが、ソ連はソ連だったってことか…」

 畑には違和感があった、ソ連は強大な大国だ、だが、日本もアメリカには劣るが、西側諸国にあって、東洋の最有力国家であり、保有を明確にはしないが、核兵器を保有しているかもしれない国である。核保有の四大国はアメリカ、イギリス、フランス、ソ連の4ヶ国だが、日本は意図的に核の保有を明確にはしていないだけで、他国からは核を保有している、又は、核兵器を直ぐに戦力化出来ると思われていた。

 はたして、ソ連は日本と本気で戦争をするつもりなのだろうか?

 国境紛争、事変と呼ばれる戦闘で終わるのか、国家間の全面戦争となるのか、最悪な話、西側諸国と東側諸国を巻き込んだ世界大戦となるのか。


 畑はオフィスに突っ伏した、考えただけでも頭が痛い、いや、もともと残業をしていたからかもしれない、ここ最近の寝不足のせいかもしれないと考えた。

 「この記事を書き終える前に、先にこの戦争の記事を書こうか。」

 考えても仕方がないと思い、畑は今起きている事を書き上げて、豊原の樺太新聞本社にファックスで送ることにした。

 畑が残業してまで、先に書いていた記事とは、第二次大戦時の大日本帝国に関する記事であった。日米講和が成り、日本がアメリカ相手に辛勝、又は引き分けたと言われる戦争。はたして、あの戦争で、その前後で、世界で、この国で、何があったのかと言う内容の記事であった。



 1941年12月8日に、日本は英蘭に対し、宣戦布告と同時に先制攻撃を開始し、翌年の4月5日には、第一段作戦を完遂し、南方資源地帯を確保した。


 開戦前、日本海軍の連合艦隊では、アメリカがハル・ノートを突き付けて来る前から、アメリカとの開戦は不可避として、真珠湾攻撃計画を連合艦隊が立案したが、海軍軍令部はこれを却下し、攻撃計画を強行しようとした連合艦隊司令長官、山本五十六中将を予備役編入とし、事実上更迭、後任に古賀峯一中将を親補した。

 一方の陸軍では、日華事変の早期終結と、ハル・ノートの形骸化の為に、南方資源地帯の確保を企図し、海軍には海上輸送路の確保を要望した。


 近衛内閣から東條内閣に変わって直ぐに、第二次大戦におけるアジア太平洋地域での戦争計画が立案された、この時に、日本海軍は陸軍の要望に従い、海上輸送路確保の為の専門部隊、海上護衛総隊を新編し、その司令長官に井上成美中将を充てることとした。

 また、日本政府、陸海軍部は、アメリカへの先制攻撃を捨て、相手からの先制攻撃が望ましいとし、フィリピン、グアム、ウェークは無視して、英蘭等のドイツと交戦中の連合国のアジア植民地を占領し、資源を確保し、日華事変の早期終結を謀る事としたのだ。


 12月8日の日本軍の攻撃は、日本政府のイギリス等の連合国への宣戦布告宣言と同時に開始された。

 マレー沖で日本の塚原二四三中将指揮の空母機動部隊がイギリス東洋艦隊を捕捉し殲滅、陸軍は、マレー半島に上陸、蘭印を攻撃する等し瞬く間に連合国植民地であった南方資源地帯を制圧していった。

 制圧とほぼ同時に、日本軍は資源の確保に乗り出し、海軍は海防艦や二等駆逐艦、小型空母を中心とした海上護衛戦力を、占領地域の海域に展開していった。


 第一段作戦を完遂した1942年4月5日以後、日本は日華戦争に傾注。日本軍は援蒋ルート遮断の為に、陸海軍共同でインド方面に空襲と制空戦闘を開始。また、ボース氏のインド国民軍による英印でのゲリラ戦も開始された。

 1942年7月8日には、日本陸軍の特殊部隊、機動第二連隊が重慶にて蒋介石を拘束する、これは陸海軍落下傘部隊と機動第二連隊が共同で重慶に空挺作戦を実施し、国民党政府そのものを捕らえた戦闘であった。戦いの後、繆斌の仲介もあり、日華講和条約が結ばれて、日本と中華民国は戦闘を停止し、対中華共産党との戦闘を共同で開始。日本側は中国戦線で余剰となった戦力を再編し、南方方面に振り向けた。

 だがこの間に、太平洋戦線では対米戦争が始まっていた。


 1942年4月18日アメリカ合衆国は、日本帝国に対し、先制攻撃を実施した。日米開戦である。

 東南アジアの連合国植民地が占領された4月5日、イギリスのチャーチル首相を中心とする連合国首脳達は、アメリカのルーズベルト大統領に対日参戦、即ち、第二次世界大戦への参戦を迫った。

 ハル・ノートのあてが外れ、日本の先制攻撃が期待出来ない以上、アメリカから攻撃を開始する他なかったが、ルーズベルトはそれでは国内世論の支持を得られないと考え、対日参戦を思い止まっていた、だが、フィリピンに約200機のB-17が集結した段階で、参戦を決意した。この数の爆撃機があれば、日本相手に勝利を納められると考えたからだ。この時点で彼は、日本を過小評価し、戦争の行方を楽観視していた。

 4月18日、ルーズベルト合衆国大統領はフィリピンからB-17爆撃機が全機離陸したとの報告を受け、台湾爆撃が開始されたであろう時間帯に、対日宣戦布告の演説を連邦議会で開始した。

 アメリカ陸軍航空隊の先制攻撃の目標は、日本の外地である台湾であった。この地は日本の南方資源地帯進出への重要拠点であり、戦略的に重要な目標であった。航続距離の関係と、日本の航空戦力を甘く見ていた米軍は、護衛の戦闘機を爆撃機に随伴させてはいかなった。

 だが日本側は、アメリカの参戦を予見し、フィリピン等に配置した現地偵察員からの情報により、B-17の離陸を察知していた。

 この情報により台湾からは日本陸海軍の戦闘機が離陸し、二重三重の迎撃態勢を敷いた。地上では高射砲が空を狙い定め、宇田・八木アンテナにより構成されたレーダーによる監視も実施され、ここに、台湾沖航空戦と呼称される戦闘が生起した。

 連邦議会で対日宣戦布告と第二次大戦への参戦を演説し終えたルーズベルト大統領は、ハル国務長官と陸海軍長官の報告を聞いて、呆気にとられていた。

 完全な奇襲で台湾爆撃に向かった筈のB-17爆撃機約200機の殆どが未帰還であったからだ。帰還した機体の搭乗員からの報告でも、爆撃は失敗し、海上に投弾して逃げるしかなかったとの事だった。

 台湾爆撃、日本先制攻撃計画は完全に失敗したのだ。

 この後、1942年4月19~21日にかけて、日本はグアム島とウェーク島を占領、同年4月20日から同年6月3日の戦闘で、フィリピンを占領した。このフィリピンの戦いでは、日本軍は脱出しようとするマッカーサー大将拘束し捕虜とした。

 台湾沖航空戦とフィリピンでのマッカーサー拘束は、アメリカ国民に厭戦機運を高めるものとなった。アメリカ合衆国政府は報道管制を敷いたが、日本はラジオの電波を使い、アメリカの敗退を世界各地で喧伝した為に、アメリカ国民の知るところと成ったからだ。

 アメリカ国民は、フィリピン、グアム、ウェークに従軍した親族が帰って来ない、連絡が取れない事、更に、虜囚となったマッカーサー大将自身が、フィリピンでの敗退をルーズベルト大統領以下アメリカ合衆国政府の責任であると発言した事で、日本側の喧伝をアメリカ国民が信じたのだ、アメリカがアジアで敗退したのだと。


 フィリピンの戦いの後、しばらくはアメリカ陸海軍は欧州戦線に全力を注ぎ、アジア太平洋戦線は小康状態となった。アメリカ合衆国は、日本軍が太平洋を渡って侵攻してくる事は無いと考え、比較的国民の支持を得やすい、ナチスドイツ打倒を優先した。それにそもそも、対日戦は合衆国が第二次大戦に参戦する為の踏み台に過ぎなかったハズで、日本は簡単に屈伏すると思われていた。だが、ルーズベルト政府の誤算があったし、更にこの後も誤算が起こる。


 日本海軍は潜水艦隊を用いて、米西海岸とハワイ、ダッチハーバーを砲撃、空襲し。また、通商破壊戦を実施して、アメリカ本土からハワイ諸島、アリューシャン列島、アラスカへの海路を脅かした。

 通商破壊戦として、日本海軍は潜水艦の他にも、金剛型戦艦や空母とその艦載機を用いて、遊撃的に攻撃を実施し、オーストラリア、ニュージーランドへの海路も、次第に脅かされていった。

 これらの事態、特にアメリカ本土に対する砲爆撃は、アメリカ国民の対日戦への厭戦機運を高めるものと成った。シアトルやロサンゼルスが攻撃され、砲撃で石油コンビナートからは火災が発生し、港に着岸していた輸送船は雷撃され、二つに折れて擱座し、小型爆弾がレーダー施設に落とされ、アンテナが破壊された。

 こんなことが連日西海岸の街で発生すると、幻のロサンゼルス大空襲なる事態も発生した。日本側も米国のラジオ電波を傍受して知り得た事なのだが…

 その日の夜、日本軍はロサンゼルスに対して砲爆撃は実施しておらず、サンフランシスコを攻撃していたが、何故かロサンゼルスが大規模な空襲を受けていると言うラジオ放送が流された。日本側は最初はこれをドイツによるものかと確認をしたが、ドイツ側は関知していないと言う、まったくもって意味不明の事案であったが、後に帝国学士院の研究と分析によって、集団ヒステリーの一種であると結論付けられた。

 アメリカ合衆国の、特に西海岸の民衆は、日本軍のゲリラ的攻撃の最中にあり、混乱をきたし、その恐怖は黄禍論と相まって、東海岸の人々へも伝播していった。

 ワシントンD.C.では反戦運動とルーズベルト政権への批判が展開され、この活動は全米各地へと波及していった。

 この事に焦りを感じたルーズベルトとその側近達は、支持率を取り戻し、戦争を継続する為に、日本に対する決戦を決意する。

 一撃を以て、日本海軍に再起不能な大打撃を与え、尚且つ日本本土を爆撃する足掛かりを得るための決戦。その舞台に選ばれたのは、マリアナ諸島であった。


 第二次大戦への日本参戦後、マリアナ諸島はサイパン島を中心に日本軍が要塞化し、占領したグアム島も含めて、有力な陸海軍の航空戦力と地上兵力が展開されていた。

 日本軍は諜報機関から得た情報を基に、アメリカの新型爆撃機の推測される航続距離から、マリアナ諸島を絶対国防圏とした。その地で、日米の決戦が行われた。


 1943年6月、アメリカは動員出来る太平洋の海軍戦力の全てを動員しハルゼー提督指揮のもと、海兵隊と陸軍の将兵を満載した輸送船を引き連れて、ハワイからマリアナを目指した。

 日本軍はその動きをハワイ近海で哨戒していた潜水艦から知らされ、警戒を強めた。また、ハワイ近海からマリアナにかけて展開していた潜水艦隊は、マリアナ諸島に迫るアメリカ艦隊に対し、特に輸送艦艇と補給艦艇に対して反復攻撃を実施し、漸減していった。

 アメリカ艦隊は輸送船、補給船や護衛艦艇に損害を受けたが、マリアナへの進撃を継続した。


 6月15日小沢治三郎中将が総指揮をする第一機動艦隊が、ハルゼー提督指揮のアメリカ艦隊を捕捉、アメリカ艦隊は捕捉された事を承知の上で輸送船団を分離して、日本艦隊との決戦を決意する。

 日本の空母部隊は、開戦時から部隊を率いる塚原中将指揮の下、大鳳を旗艦とし、翔鶴型2隻、赤城、加賀、蒼龍、飛龍の7隻と、千歳型2隻、祥鳳型2隻計4隻が参戦し、この海域に投入し得る限りの全ての空母と艦載機隊を投入した。

 双方の艦隊が艦載機による航空戦を展開し、日本側はサイパン島やグアム島からの陸上機、陸軍機による波状攻撃も実施、双方の艦隊は共に損害を受けたが、決定打となるものはなかった。

 そして日没、日付が変わり16日となった頃、日米双方の戦艦、巡洋艦、駆逐艦が艦隊決戦を開始した。

 日本海軍の南雲中将に率いられた水雷戦隊は米艦隊に肉薄し、酸素魚雷を放って米艦隊に痛撃を与え、栗田中将率いる戦艦の戦隊、大和型戦艦2隻と長門型戦艦2隻、伊勢型航空戦艦2隻の計6隻の戦艦が、アメリカの戦艦に大損害を与えた。防御力、攻撃力に勝る大和型戦艦に、アメリカの戦艦は歯が立たなかったのだ。

 夜が明けた頃、アメリカ海軍の艦隊は、大損害を被っていた。また、艦隊決戦の邪魔になるとして遠ざけていた空母部隊も、夜間に日本海軍の潜水艦による雷撃を受けて損害を出し、避難させていた輸送船団も、通商破壊戦で活躍する三川中将指揮の金剛型戦艦4隻と巡洋艦の戦隊に捕捉され、海兵隊員と陸軍将兵を乗せたまた撃沈されるか拿捕されていた。

 16日正午、ハルゼー提督は残存する艦隊を纏め上げた。彼は以後の方針として、再度マリアナ諸島への攻撃か、拿捕された輸送船団の奪還かを迫られた。彼の参謀達は、拿捕された輸送船団の奪還を進言したが、ハルゼー提督はあくまでも日本艦隊の殲滅を目指した、戦艦はやられたが、空母航空戦力にはまだ余力があったからだ。だがハルゼーが日本艦隊の攻撃を指示した時に、日本陸海軍共同の航空攻撃がアメリカ艦隊に実施しすれ、この攻撃でハルゼーは旗艦としたエセックス級空母を喪うと、戦意を喪失し、ハワイへと撤退を開始した。

 6月17日、日本はマリアナ諸島からの米艦隊の撤退を確認し、マリアナ決戦は終決した。


 この戦いの後、日本はスイス、スウェーデンを介してのアメリカとの終戦工作を本格化させた。

 一方のアメリカは、マリアナ決戦での敗退を知ったルーズベルト大統領が失意のうちに脳卒中で倒れ、6月17日、その日のうちに死亡が確認され、トルーマンが大統領に昇格した。

 1943年7月3日、独立記念日を翌日に控えたアメリカ合衆国のハワイ諸島のオアフ島にて、日米講和が締結された。

 日米講和条約が成立したその日、東條内閣は役目を終えたとして日独同盟の破棄をナチスドイツに通達し、講和条約成立の翌日には内閣を解散した。

 東條内閣の解散後、すぐに東久邇宮内閣が組閣され、日本は欧州諸国のアジア植民地の解放を条件に、連合国として第二次大戦に再度参戦した。


 1945年5月9日、ナチスドイツは連合国に降伏し、第二次世界大戦は終決。

 この日から戦後世界の構築が本格化した。

 日本は、ドイツ国防軍の将校、科学者、技術者等を積極的に雇用し、日本の産業、軍事の近代化を押し進め、民主主義、自由主義、資本主義陣営として、米英仏と接近した。


 1945年8月に、日本は台湾を台湾共和国として、朝鮮半島を高麗帝国として、南洋諸島を太平洋諸島首長国連合として独立させた。


 1946年5月3日には明治憲法が改憲される。いわゆる昭和憲法が制定され、内閣の規定が追加され、統帥権は内閣へ親任される等し、経済的には高度経済成長期へと入っていった。


 1949年には米ソの対立が深まり、同年4月4日に、アメリカは欧州の同盟国と北大西洋条約機構を結成し、同時にアジア太平洋の同盟国と東亜太平洋条約機構を結成、戦後世界秩序と、ソビエトとの冷戦対立構造が出来上がり、現在に至る。



 畑が先に書いていた記事は、この歴史の流れを記したモノであり、戦後10年間隔で行われた情報開示の資料を含めて、戦後世界とこの国を包括的に評価した記事になるはずのものであった。

 「まだ、誰か残ってるんですか! 避難勧告が出てます! 一緒に来てください!」

 畑はその声を聞いて、驚き振り向いた。

 オフィスの扉の前には、ビルの警備員が2人立っていた。

 「直ぐに行きます!」

 畑はそう言うと、ちょうど書き終えたばかりの、ソ連南樺太侵攻の記事を本社にファックスし、手荷物だけを持って警備員と共にビルを出た。どうやらビルに残っていたのはこの3人だけだったらしい。

 ビルの外は、今だに避難民で溢れかえり、普段は広く感じる歩道も、片側三車線の道路も、老若男女問わず人で混みあい、人々が川の流れのように南に向かって歩いていた。

 そんな光景に呆気にとられていた畑の頭上で、轟音が響いた。

 「戦闘機?」

 夜の空だが、それがどちらに飛んでいるかは判った。北に向かっている。畑は咄嗟にカメラを向けたが、それはもう、北の空へと飛び去っていた。


 この時、敷香市上空を戦闘機と攻撃機の編隊がいくつも、北樺太を目指して高速で飛んでいた。攻撃機は爆装され、戦闘機にも必要最低限の空対空ミサイルだけ積んで、他のウエポンベイは爆装されていた。

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