第22話 慟哭

 ああ、いじましいったらありゃしない。

 なんで。どうして。この娘は存在しているのだろう。


「ね、ねえ。お母さま。わ、わたくしにも何かお手伝いできることはあるかしら?」


 わたくしに気に入られようと必死に媚びる幼い姿にイライラが募る。

 アドリアンとあの女の間にできた子供は、それはもう愛らしい顔立ちをした娘だった。初対面の時、父親の陰から顔だけ出して、『あ、あたしも、お母さまと呼んでもいいの?』とおずおずとはにかむようすに、アドリアンは目尻を下げていた。その姿はいずれさぞかし美しくなるだろうと予感させた。

 けれど、わたくしはあの娘の存在が許せなかった。憎んでいると言ってもよかった。

 アドリアンとあの女の間に子供がいるだなんて、認めたくはなかったのだ。彼女は裏切りの、公正さの欠落の象徴だった。


 だから、わたくしは、何もしなかった。

 自分の娘として扱うことなど、決してなかった。

 わたくしの態度を見て、娘たちがちょっかいをかけても、止めることもなかった。

 そんなこと、とうに気づいているだろうに、あの娘はわたくしの気を引こうと、あれこれしてくる。

 ある時から、あの娘は自ら家事を始めた。そうして、掃除や洗濯が終わるたびに、ちらちらと物欲しそうな顔でこちらを見てくるのだ。

 家の中でやっているのだから当然使用人だって気がつく。『お嬢さまにもう少し優しくされてはいかがでしょうか』、そう余計な口を利いた使用人を解雇した。結果、あの娘は屋敷の中で孤立した。

 まずい、とは思ったものの、積極的に関わるのは、どうしても嫌だった。視界に入るのでさえ、不快なのだ。あの娘は、裏切りの象徴だ。ただ、あの娘が悪いわけではないことは理解していたから、不幸せになられても据わりが悪かった。


 流石に哀れにも思う。

 なにせアドリアンはなにも気が付かなかった。仕事で忙しかった彼は、娘の着ている服が多少よれていても、『まあ、またいたずらばかりして』の一言で納得し、夕餉の席で黙りこくっていても、『今日は随分静かなのね』と微笑めば、食事に集中しているのだと理解した。それでもあの娘は、自らの父を『優しいお父様』と慕う。そのたびにわたくしの中の慈悲は消失し、憎しみの炎が燃え上がる。


 アドリアンもアドリアンだ。

 彼は恋人としては素晴らしい男性だったが、父親として存在することにそこまで興味はなかったのかもしれない。虐げていたのがわたくしとは言え、アドリアンがあの娘と一度でもじっくりと話していたらおかしいことにすぐに気づけたはずだ。

 それとも案外、あの娘の話を『それはお前の努力が足りないからだ。もっと、ようくお母さまの言うことを聞くんだよ』とでも言い聞かせたのかもしれない。あの娘なら、素直に自分が悪いのだとでも思いそうだ。

 いずれにせよ、アドリアンは鈍感なまでに、なにも見なかった。

 わたくしなら、娘たちがそんな状況に陥ったら、絶対に見過ごさないし、なにがなんでも助けるだろう。自分の子供が辛い目に合うのを許せるわけもない。


 自分の父親を思い出す。

 娘であるわたくしを、自分の道具としか思っていない人間だった。わたくしに、人格というものが存在していることを理解しておらず、自分のいない空間では、娘や妻というものはゼンマイの巻かれていない人形のように、魂が抜けているとでも思っていたらしい。そして、アドリアンと結婚したがったわたくしを、『お前の名誉のためだ』と、恩着せがましく学校を辞めさせてまで年寄りの貴族の男と結婚させた。


 この前夫は、死ぬまで嫉妬深く束縛の激しい人間だった。

 貴族の社会なんて、そこかしこで浮気があるというのに、そして自分もしていたというのに、わたくしがアドリアンとの関係を続けるのは許せなかったらしい。彼の目を欺いて、アドリアンと密会を続けるのは苦労したものだ。


 わたくしの人生の最大の誤算は、あの女が自殺したことだろう。

 わたくしとアドリアンの逢瀬を目撃したあの女は、精神をやられてこの世をたった。

 弱い女だった。

 自分の夫が浮気しているのをたった一回目撃しただけで死んだのだ。好きでもない男と結婚して、体を開いて生きているわたくしの方こそ浅ましく、死にたいくらいだったというのに。


 それでも、あの女が死んだのはわたくしにとって僥倖だった。

 わたくしの前夫さえ死ねば、結婚できる状態になったのだから。案の定、結婚した時すでに体を悪くしていた前夫も、ほどなくして亡くなった。

 ようやく再婚できたアドリアンも、十年にも満たず、仕事先で暴徒に襲われて死んでしまった。それでも、彼と過ごした日々を後悔することはないだろう。


 彼の葬式が済んでひと月もたったころのある夜半、わたくしはふと気になって、あの娘の部屋を覗いてみた。あの娘の場所であったはずの、二階の日当たりのいい部屋は、いつの間にか、娘たちのクローゼットルームになっていた。


「どういうことです?」


 自室で雑誌をめくっていた娘たちに問うと、彼女たちはお互いに目配せをして、言ってのけた。


「だって、もうあの子にはこんな豪華な部屋必要ありませんでしょう?」

「そうよ、お義父様が亡くなった今、もう彼女に優しいフリをする必要なんてないんですもの」


 この時ばかりは流石に目眩がした。

 わたくしのしてきた行動が子供たちにここまで悪影響を与えているだなんて、思いもしなかったのだ。わたくしは、声を絞り出した。


「おやめなさい。なにも持たない哀れな孤児にも慈悲の心を持つのです」


 娘たちは、わたくしの言葉に、


「はーい」


 とやる気のなさそうに返事をした。

 使用人に聞くと、あの娘は屋根裏部屋にいるということだった。他の使用人とは流石に部屋を分けているらしいが、本来のあの娘の場所でもない。この事態は、まるで公正ではない。眉をひそめる。

 階段を昇り、あの娘にあてがわれた部屋の扉を前に、ノックしようとしたところ、中から音が聞こえてきた。

 思わず、手を止めて耳を澄ます。


「ねえ、どうしてあたしを置いて行っちゃったの?」


 不安を吐露する声には、思慕があった。

 かさかさと布を引きずるような音もする。ベッドの脇で祈りの体勢でもとっているのだろう。

 出直そうか、そう考え直したとき、


「お母さん、会いたいわ」


 その言葉に、背筋が凍る。

 よりにもよって、あの女をーーーー!

 瞬間、あの娘に対する憎悪が膨れ上がった。

 あの娘に縋るものがそれしかなかったのだという考えは、チラリとも脳をよぎらなかった。

 ただただ憎たらしかった。

 どうしてあの娘がこの世にいるのか分からない。

 生みの母親はとうにこの世になく、父親も娘を置いていった。あの娘が死んだとて、その死を厭うものはいないのに。

 どうして、あの娘ではなく、アドリアンが死ななければならなかったのだ。

 理不尽だろうが、無慈悲だろうが、知ったことではなかった。

 憎い。

 わたくしは、この時に決めた。

 あの娘の存在を「なかったこと」にすることを。

 あの娘をわたくしの世界から完全に消し去ることを。





 始めたのはまず、魔法使いを探し出すことだった。

 これにはなかなか骨が折れた。その職業の知名度の割に、魔法使いの数は少ない。なりたがる人間が少ないのだろうから、それもそうだろう。

 ようやく見つけた出した時、あの娘はもう十八になっていた。

 魔法使いと名乗るやたらと陽気な男は、わたくしの依頼を受けた。へらへらと笑う魔法使いに、なんども念をおした。


『くれぐれも依頼主がわたくしだと知られてはなりません』

『もちろんです、任せてください』


 本当に分かっているのかどうか心もとなかったが、あの娘が一度もわたくしについて言及しなかったことを考えると、守ったのかもしれない。あの娘の頭の片隅にでも、わたくしが残るのに耐えられそうもなかった。

 魔法使いはわたくしの依頼をこなし、あの娘を舞踏会に連れ出した。あの美貌なら大丈夫だろうと思った通り、貴族の子女はあの娘をみそめた。相手がそこまで歳の離れていない相手だったことには驚いたが、もはや出て行ってくれるのならば、誰が相手でもよかった。

 ようやくあのいやな顔を見なくてよくなる、とせいせいしていた。

 それなのに、あの娘ときたら、またわたくしのところにやってきた。次の日に、結婚の打ち合わせに行くのだ、と呟くと、おずおずとわたくしに尋ねた。


『わたくし、幸せになれるかしら』


 なぜわたくしに尋ねたのかは分からない。

 ただ、うっとうしかった。

 早く視界から出て行って欲しい。

 だから、一言、望む言葉を言ってやる。


『ええ。あなたなら幸せになれるわ』


 その言葉に、あの娘は目から涙を溢れんばかりにさせながら、


『ありがとう』


 おずおず微笑んだ。

 最初に出会った時からまったく変わらない笑い方だった。

 わたくしがいたたまれなくなって、早く部屋に戻りなさい、と言うと、あの娘は素直に視界からいなくなった。

 きもちわるかった。

 なんであの娘は礼など言うのだろう。ただ追い出すための言葉に。

 きもちわるい。

 その翌日、あの娘は消失したらしい。

 実に、いい気味だ。




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(おまけ・その20)


 弾丸はまっすぐに魔女の頭蓋に貫通し、魔女は後ろへ倒れ込んだ。


「ど、どうして!」


 床に伏した魔女の体をまるで欠けらでも拾い集めるようにかき抱いた彼は、ようやく事態を把握すると、銃口をこちらに向けてきた。

 私は、魔女にしたのと同じように、彼にも弾丸を撃ち込んだ。

 彼は、死んだ。

 彼女も、死んだ。

 殺したのは、私だ。


 それからすぐに応援を呼んだ。

 後の捜査で、地下室には当初想定されていたよりもずっと多くの人間が『監禁』されていたことが分かった。『被害者』のうち半数が目を覚まし、それから、どうなったのかは知らない。知りたくもなかった。

 この事件において、自分のした行為はただ、人を殺した、ということのみだった。組織は、これを称賛し、結果、自分の階級は上がった。


 警部になった。

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