本朝怪談部屋縁起

池田標準

第1話 罪を喰う鬼

 母の葬儀を終えたあなたは、とてつもない疲労と同時に、限りない解放感に包まれています。

 あなたはランプが薄ぼんやりと照らす列車の椅子の背もたれに体重を預け、半ば潰れるように深く腰を落とします。

 あなたは顔面を手のひらで擦り、ここ数日の出来事を無意識の内に反芻しています。

 あなたの母が死んだ、死体を引き取って欲しいのでとにかく帰ってきて欲しい。村長から手紙が来たのは四日前のことでした。

 あなたは母親の死体などいまさら見たくありませんでした。現在、あなたは務めるべき会社を見つけ、愛すべきひとも手の中にあるからです。忌まわしい母親の報を告げる手紙など知らない振りを決め込んでいました。

 けれどあなたは故郷に戻りました。何か、薄ら寒い予感に背中を押されて。

 そしてその予感は当たっていました。

 実家の母屋に横たわっている母親の死体を見た瞬間、あなたの躯は凍りつきます。

 あなたの母親の死に様は、異様で凄絶なものだったからです。死体は頭に五徳を逆さにかぶっています。顔には鬼の面を被っていました。身に纏っている服は白一色の死に装束です。

 村人の話によると、あなたの母親は全身血まみれの姿で故郷の山間の谷底、通称、『罪喰い谷』で発見されたそうです。

 あなたは母親の『死』に関して感慨を抱きませんでした。

 あなたは母親の『死』よりも『死体』に驚愕する事柄を見いだしていたからです。

 母親の『死体』はあなたが十代の頃自殺した父親と、『まったくの一緒』だったのです。

『何故か二人とも同じ格好』で、『同じ罪喰い谷において投身自殺を遂げている』のです。

 しかしこの詮議もいまとなってはもう意味のないものとあなたは頭を振ります。

 葬儀は終わったのです。全ては幕を閉じたのです。

 これであなたが已みつづけていた『父』と『母』という足枷はふたつともこの世界から消え去ったのです。

 これであなたは人生という道にたえず吹き付ける忌々しい寒風からやっと逃れることができたのです。

 あなたは父と母、そして故郷を、己の人生の障害と考えていました。のみならずあなたは自分の家族に繋がるあなた自身という存在までをも大変疎ましく感じていました。 

 あなたの家系はあなたの故郷では特に奇異であり、特殊な存在だったからです。

 あなたは幼少の頃からその特殊性のお陰で絶えず周囲からの迫害に縛られていたのです。眼に見えて迫害されるということはありませんでしたが、空気の流れといったものがあなたと周囲の関係を縛りつけていたのです。

 また、あなたは父親の職業をよく思っていませんでした。気持の悪い仕事でしたし、その職業によってこそ、あなたは親子共々常に社会の外側に置かれていたのです。またその父親も気が荒く、なにかにつけてはあなたを疎んじて手をあげることが度々ありました。 

 父親は仕事の際に奇妙な格好をしていました。

 その姿と仕事こそがあなたが家系と血筋を嫌悪している元凶なのです。

 あなたはそういった一連の出来事に心を寄せるにつれて心の中にわだかまりが沸きあがり、血が非常に厄介なものであることを思い出してしまいました。

 二人は死にましたが、あなたの躯の中に脈々と流れている血はそのままなのです。

 あなたは顔をしかめ、躯の中の忌々しいものを吐き出すように大きく溜息をつくでしょう。そうしてもどうなるというものでもないのですが。

 あなたは妙に生ぬるい空気を覚えて身を震わせます。汽車のなかの薄暗い光は、不規則な明滅を繰り返しています。

 あなたの真横の窓には、蝉が張り付いています。

 汽車は既にあなたの故郷から三つ、駅を越えています。これだけ離れて、はじめてあなたは客観的に故郷に思いを馳せられるようになるのを感じます。

 蝉が呻くようにじじ、と鳴いて、それからまた汽車のなかは震動のみになりました。

 

                

 

 三日前、あなたは有給をとって実家に戻りました。蝉の鳴き声につつまれた実家の古い家は大正時代からのものです。手入れはまったくなされておらずお陰で襤褸同然で、残ったものはなにもありません。あなたが継ぐべき金銭的遺産は皆無といっていいでしょう。土地も田舎ですから、そんなに高くは売れないはずです。あとの残滓は役所での面倒な手続きばかりで、あなたの忙しい日常に多少の障害を残すでしょう。  あなたが昔住んでいた家さえも、あなたの血と同様、やっかいなものでしかないのです。

 そんなあなたにとって忌まわしいものでしかない家に帰った折、村人のひとりがあなたに忌々しそうに封筒を差し出しました。

 あなたはそれを受取った際、封筒に書かれている字面に少なからず慟哭を覚えました。あなた宛への母からの遺書だったのです。

 けれど、あなたは遺書を警察には届けませんでした。警察は当然、遺書か何か心当たりはありませんかと訊いたのですが、あなたは空とぼけました。

 簡潔ながらも一応の体裁を守った葬儀は、村の人間の手助けによって侘びしいながらも敢行されました。しかし準備を手伝ってくれた村の人々の態度は終始よそよそしいものでした。あなたは子供時代の疎外感を思い出し苦々しい気分にさせられます。帰郷などしなければよかったと後悔します。親が病気であろうが死のうがそんなことには関係なく、自分の世界で生きていればよかったのです。




 汽笛の音にあなたはふっと我に帰りました。

 あなたは葬儀の寒々しい様子を脳裏に押し込める代償として、遺言の封を今だ開封していないことに気付いてしまいます。

 汽車の外は暗くなんの光芒もうかがえません。ほんのりと生暖かい空気が車内に淀んでします。車窓の外はねっとりとした暗闇につつまれ、眺めていても退屈なだけです。

 あなたは時間を潰す手段として遺言状を読むことを思いつきました。これだけ距離をおけば冷静になって読めるかもしれない、そう考えたのです。

 あなたは早速、荷台に乗せていた鞄を引き下ろし遺書を取り出します。

 遺書にはボールペンで『孝之(たかの)へ』と書かれた文字があなたを凝視するかのように大きくしたためられてあります。

 あなたはまた溜息をつくでしょう。そして心が落ち着くのを確認してから封を切ります。封筒の中には便箋が数枚入っていました。その便箋にはあなたがよく知っている母親の流麗な字面で、次のような事が記してありました。




 わたしの愛する息子――孝之(たかの)さん、あなたがこの手紙を読んでいるということは、既にわたしの命は燃え尽き果てこの世界から消え去っているのでしょう。

 あなたはわたしの死に姿にいくらかの衝撃を受けているはずです。

 なぜわたしがこんな姿で死んだのか、それがあなたの今一番の気がかりなになっていると思います。ですからここにどうしてわたしがこんな姿で死ぬのか、それを書き残して、それからわたしは死ぬことにします。

 まず答えだけを先に記しておきます。

 わたしはあなたが生まれる遥か以前に、わたしという不徳の母の手によって、あなたに縛り付けられた罪を負って死んだのです。

 こう書くと万事が万事、あなたが悪いように聴こえるかもしれません。ですからこう付け加えましょう。

 死とは、わたし自身が生まれた瞬間からはじまった、終わることのない悪夢から眼醒める唯一の方法であったのです。

 罪とはなにか。悪夢とはなにか。

 全てはあなたの母であるわたしのいやしい心持から発生したことなのです。

 

 わたしには幼い頃、七つ年上の兄がありました。あなたにも兄のことは少し話したかもしれません。とても端正な顔つきの、弦楽器のような声で喋る思いやりのある兄でした。

 優しく素晴らしい兄でした。けれど彼は生れついての難病を患っていました。躯の端から徐々に肉体が真珠に変わっていき、遂には心臓さえもが真珠になって死に至るという百年に数人でるかでないかといわれている奇病です。

 真珠とは大袈裟な表現かもしれません。詳しいことは知りませんが、医学的に説明するなら、身体の細胞がカルシウムの結晶と有機質に突発的に変異する病なのだそうです。

 しかし当時、七、八歳であったわたしにとって、兄の躯は除々に真珠になっていく、そうとしか思えませんでした。

 わたしの生まれ育った家は貧しい農家でした。両親ともに暗いうちに働き、暗くなってから帰宅するという生活をしないと病気の兄の治療費を払えない状況でした。ですから両親が不在の間の兄の世話は、なにもしていないわたしがすることとなっていました。食事、寝床、便所、風呂、全て、わたしが世話をしました。

 苦痛だったでしょうか。いいえ。わたしにとって薄暗いランプの光のもとで兄の世話をすることは大変な喜悦であり魂の燃焼であったのです。それは自分の世話をかいがいしくするわたしに対し兄が非常に優しく接してくれたという事実もあったのですが、それよりもなによりもわたしは真珠になっていく兄に身も悶える感情を抱いていました。兄に接する度にわたしは深く酔いしれていたのです。

 兄を風呂に入れる度、彼の躯を触る時のあの手触りにわたしはひそかに身を震わせていました。真珠のような冷たい手や足の指に触れる度にわたしは不変の美しい彫刻の手入れをしているような感覚に陥り恍惚としたものです。つるつるとしているようでざらついた感触。強く押しても弱弱しく曲がらない関節。本当に彫刻そのものなのです。さらにその永遠の美である彫刻がわたしにむかってなにかしら微笑み、囁きかけ、慈しみの言葉をくれるのです。こんなに幸せなことがこの世にあるでしょうか。 

 わたしにいたわりの言葉をかけてくれる兄はひどく美しく神々しい。なにより変化しない。それはわたしがたびたび寝物語で耳にし憧れていた神話の神そのものであったのです。

 さらに入浴や排泄の前に兄の躯から寝巻をはぎ取る時に匂うあの香り。垢と汗という人間の持つ原初的な甘酸っぱくもすえた、けれど鼻孔にすうっと入り込んで頭の芯でわだかまり、心の奥底にあるけだるい眠気を誘うやさしい匂い。わたしにとってあの芳香はどんな花の放つ清々しい香りにも及ばないものでした。兄の躯臭を嗅ぐ行為はわたしにとっては香炉の香りを胸一杯に吸い込む行為にも等しかったのです。

 わたしはつたない心ながらもよく夢想したものです。もし、この兄の冷たい真珠のような躯全体にわたしの肌すべてを重ね合わせることができればどんなに心地いいものであろうかと。兄の躯を寝床とし、その感触と美しい声音と、そしてあの芳香を一晩中、いえ、一生独占することは不可能なのかと。

美 麗な腕のなかで愛を耳にしながら一生を終えるのは叶えられない夢なのであろうかと。

 しかしその蠱惑の幻想の城はわたしが十一歳の時に崩壊しました。

 兄の病状は進み、ついには心臓までもが真珠になって、可哀そうな兄は心臓停止に陥ってしまったのです。

 兄は死にました。美しい、ひとつの彫刻となって。その秀麗な死に姿は以来、わたしにとり憑きました。そのせいでしょう。以後、わたしは他の異性に全く魅力を感じなくなったのです。

 また、わたしには奇妙な癖がつきました。夜、寝床に就くときには必ず敷布団をのけて畳敷きの上に直接横になって眠るようになったのです。そうすればもう手の届かなくなってしまったあの感触に、少しでも近づけるような気がしたのです。

 固い畳の上でわたしは幾夜切ない情に襲われ、悶え苦しんだことでしょう。そしてあの感触は、匂いはもう戻ってこないのです。わたしは数年の間、夜ひとりになると煩悶しました。兄がいないということ。それは地獄そのものといってよかったのです。わたしの魂は不完全燃焼を起こしていたのです。



 あなたは読んでいた手紙から眼をあげました。再び疲れた気分に襲われています。あまりにも異様な母親の心理の吐露に辟易したからでしょうか。忌避していた対象の一生を追憶するという作業に疲弊したからでしょうか。あなたはどちらか区別がつかないはずです。

 あなたはふと自分の手の指が手紙を持ったまま硬化しているのに気付くはずです。

つい、二、三年前からあなたは長時間同じ姿勢を取り続けるとその姿勢を崩すときに非常に難儀な思いをするようになっています。痛みは伴わないものの不可思議な現象です。

 ただ、痛みもないのに医者にいくとなるとそれは少々考えものでしたから、あなたはそれをわざと意には介さずにいたのですが。

車窓をうかがうと窓に映った車内のランプの朧な光が汽車と並走するかのように走っていました。それはまるで母の燃える魂があなたと伴走しているようで、あなたはひどくうすら寒いような、あるいはあり得ないことですが、ほんの少しだけほっとしたような心持になります。

 あなたは再び手紙に眼を落します。




 兄がこの世界から消えて十年の歳月が流れました。わたしはその間、常に魂の燃焼の為に必要な酸素を求めて酷く息苦しい日々を送っていました。寂莫とした真っ暗な世界を、一人あてもない脱出口を求めて彷徨う旅人のような気分でした。

 そんなある日、わたしに縁談が持ち上がりました。

 田舎のさる大家の嫁にこないかというのです。

 わたしはその頃にはなにもかもがどうでもよくなっていました。また、心が求める渇きに疲れ果ててもいました。ですから縁談にのりました。もう兄のような神がかった男性に逢えないという諦念がわたしを自暴自棄にしていたのでしょう。本当にわたしにはなにも欲しいものも、やりたいこともなかったのです。ただ、兄が還ってくれれば、という夢を除いては。

 十七歳になるとわたしは縁談をもちかけてきた田舎の大家のお屋敷に嫁ぎました。なんでも拝み屋を生業としている家らしく近隣の村の祭事全般を取り仕切っているとのことでした。そこでわたしはあなたの父親とであったのです。




 あなたは手紙の繰る手をまた休めました。たとえようのない喉の渇きを覚えています。あなたは幼い頃からこの渇きに襲われることがしばしばありました。窓際に置いておいた水筒の蓋を開け、お茶をあおります。

 遠く、暗い空に蒼白い稲妻の筋がまるで龍のように雲間から走りでて途中で上向きに曲がり、また上方へと回帰していきました。遅れて遠雷の音が響きます。生暖かった空気はいつのまにか冷え切り、車両内は湿っぽくなってきました。あなたはネクタイを緩めます。てのひらを閉じては広げを反復し、手の硬化を和らげます。

 扉にとまっていたセミはいつの間にか床にあおむけになって落ちています。わずかに羽を羽ばたかせながら死の跫音に応えるかのように小さくぢぢ、と鳴きます。

 あなたは手紙に眼を落します。




 わたしと結婚した頃には既にあなたの父親はお爺さまから家督と仕事を受け継いでおり、その仕事を一生の職業と決めていました。

 あなたの父親は養子でした。御爺様が子供に恵まれず、家督を継ぐ者がいないので貧しい家から買われてきたのです。

 ところで、その仕事というが奇怪極まりない不思議なものだったのです。

 あなたの父親が受け継いだ仕事が、どれだけ奇怪な職種であるか。

 それは仕事の準備ひとつとっても分かるでしょう。まず、仕事に行く前に、あなたの父親は必ず頭に角の代わりとして五徳を逆さまにかぶり、その足に蝋燭を灯しました。次に鬼の面を顔につけ、白い羽織をはおります。鬼に扮するのです。

 そして葬儀や祝言の折りにその死者なり祝言をあげるひとなりの髪の毛や爪といった躯の一部を餅に混ぜて皆の前で喰う、という一風変わった儀式をやってのけるのです。

 たったそれだけの仕事なのに、一つの仕事を終える度にあなたの父親のもとには大変な金額のお金が入ってきました。

 わたしが奇妙な仕事、と断言するのは、報酬以外にも、もうひとつ根拠があります。あなたの父親はその奇態な仕事を終えて夜帰ってくると必ず夜半には吐いたのです。さらに悶え、異常な被害妄想にとらわれました。田舎道をとりとめのない言葉をつぶやきながら、半日近くも徘徊するといった心の病に似たものにとらえられました。

 さらに徘徊の原因である被害妄想というのも変わっていました。ある時は知りもしない都会の女性に若い頃与えた嗜虐趣味の結果、襲い来るであろう復讐への恐怖心であったり、行ったことなどない街にある某事務所内での事務処理仕事で横領した不正なお金への謝罪であったり、さらには産んでもいない、産めるはずがないのに、生まれたての我が子に母親として与えた虐待の悔恨であったり、とにかくなにからなにまであなたの父親にはなんの接点もない被害妄想ばかりだったのです。時には徘徊どころか我を失って暴れ、制止にはいったお婆様を傷つけかねない場合もありました。

いぶかるわたしにお婆様はその被害妄想の理由を聴かせてくれました。被害妄想はあなたの父親が餅でつつんで喰べた躯の破片の持ち主の罪である、というのです。

正直にいって、そんなことがあり得るものかといぶかしんだものです。

 けれどあなたの父親は仕事が終わる度ごとに、その罪というしろものに苦悶しているようでしたし、さすがにそれが十回、二十回と眼の前で繰り返されるとわたしもにわかには疑えなくなってきました。

 またそういった奇妙な妄想を私自身も信じないと。あなたの父親とうまくやっていけるはずもありませんでした。

 わたしはあなたの父親と結婚はしましたが、互いを想うという感情は微塵もなかったのです。

 罪を引き受け異常な行動を繰り返すあなたの父親をわたしは不穏に感じました。

 村のひともその気持ちは同じのようでした。村人はあなたの父と、そして私を含めた家族全員を奇矯なものを見る眼つきで眺めました。さらに「罪にかかわって因縁がつくといけない」という理由から、祭事を司ってはいるものの、その時期以外の接しかたは表面としては良くはあれども、実質、お父様の家は常につまはじきにされていたのです。

 遅まきながらわたしはこんな家に嫁いだことをひどく悔みました。

 それとは別に根本的なすれ違いもありました。兄の面影をひたすら追いかけ続けるのみに執心しているわたしの心にはあなたの父親は受け入れ難かったのです。

 そしてこの執心はやがて先にも述べたように、わたしのいやらしい心持から生まれた、どうしようもない悪夢へと変態していくのです。ですから断っておきますが、あなたの父親――父親と書くのになんとためらいを覚えてしまうことでしょう、あなたの父親にはなんの咎もないのです。


 わたしの面前に悪夢が、いえ、幻の光景が息を吹き返したのは嫁いでから半年後のことでした。

 その日はあなたの父親は仕事で家を空け、お婆様は街の方へ、なんでもご姉妹が危篤というので帰っていかれました。

 お婆様は街へ降りる折、わたしに病んでふせっておられるお爺様のお世話を頼んでゆかれました。

 お爺様の存在は嫁いだときから知ってはいました。けれど重い病で身動きもならないそうで、祝言の節もお出になりませんでしたから、それが初めての顔合わせになりました。なにせこの半年というもの、家中の者が餌を隠した犬のように御爺様のことをわたしにひた隠しにしていたからです。家に漂っている空気は明らかに「こんな病人が居ては家の恥」と語っていました。

 だけれども先に述べた事柄が重なって遂に家の恥部を晒すのもやむなし、と判断したようでした。

 わたしはあなたの父親とお婆様を見送った後、命じられたまま、お爺様の世話をしに屋敷の一番奥の間に入ったのです。

 

 最初にお爺様の部屋に身を入れた瞬間、とても懐かしく、そして切なさに満ちた香りにぶつかり、わたしは涙がでそうになりました。

 お爺様の部屋は、何ということでしょうか、どんな花の香りも打ち勝つことも叶わないであろう、あの垢と汗の甘酸っぱいすえた匂いに溢れていたのです。

 わたしは落ち着かない、ある種の予感に気圧されたような気持でお爺様の傍へいくと「おはようございます」と声をかけ布団の中をのぞきこみました。

 そこでわたしは思わず小さな悲鳴を上げてしまいました。

 それは神の寛容な慈悲だったのでしょうか、あるいは悪魔の奸智な采配だったのでしょうか。

 そこにはわたしの兄が往日の姿で横たわっていたのです。

 兄の寝姿を呆然と眺めていたわたしでしたが、やがてその方と兄との相違に気づき、我に返りました。

 美しい顔はほぼそのままなのですが、眼の部分の彫りは兄より一層深く、眼は黒曜石のように黒く輝いているのです。

 しかし、間違えたのも無理はありません。なぜならその方は、お爺様は、あのわたしの心を騒がせてやまなかった兄と同じ大切なものを持っておられたからなのです。

 お爺様は真珠と化す病を患っておられたのです。

 お爺様の手足は真珠となり硬化していました。お躯は、永遠の美そのものに捕えられながら暗い部屋でうっすらと輝いておられるようでした。

 お爺様の顔は若々しいものでした。病特有の硬直が、皺や抜歯などの肉体表面の老化を防いでいたのです。

 おそらく青年期の面影をそのまま残して真珠と化し、遂にご隠居となられたのでしょう。お爺様は一見、六十代とは思えず――そう、永遠の美しさを保つ病にかかっているのですから――三十代の瑞々しい利発さを保管されておられました。さらになんという運命の運行なのか、お爺様は兄とまるで血を分けた、双子の兄弟のような瓜二つの面影をも浮かべておられるのです。

 わたしは鳴動する魂を必死に押さえつけました。震える手で食事を与えました。しかる後、布でお躯をふいてあげようとお爺様の着物をはだけましたが、そこにあらわになった彫刻のような姿にわたしはもう声もでなくなりました。

 わたしが彫刻のような異様な躯に魅せられるのはおかしなことなのでしょうか。

 そうは思いません。それならどうして古代から美を魂の伴侶に選んだ芸術家という者たちは、芸術という文化のなかに、「彫刻」などという分野を産み落としたのでしょう。

 人間の刹那の美しさを留めておくのであれば、絵画があればそれで十分ではありませんか。しかしある書物によると、海外のロダンやラファエロ、ミケランジェロという高名な画家たちはみな彫刻に魅せられたということです。絵画以外のものも数多くものしたダ・ヴィンチという賢人でさえ、彫刻作品を産み落としているというではありませんか。

 わたしが思うに、彼らは彫像に美を託す行為に意義を発見しているのです。それは長い年月にも崩れない三次元の芸術、彫刻という分野に、真理の追求の意味を見いだした証左に他なりません。

 わたしはお爺様の躯を布でふいて差し上げる束の間、昔に帰ったような心持に陥りました。さらにわたしにしきりに礼を述べるお爺様のあの声。偶然とは恐ろしいものです。それはまぎれもなくあの兄の生き写しといっていいほどにそっくりな弦楽器のしらべそのものでした。

 わたしの手はお爺様のお言葉にわななきましたが、同時に魂もわななきました。わたしの魂は激しい振幅を再開し、その摩擦熱によって炎がまたしても燃え上がり始めたのです。

 以降、お爺様のお世話はわたしが自ら進んでかってでるようになりました。

 元来が奇病で誰も近寄りませんでしたから、家中の者はいぶかしくは思っても口出しはしませんでした。家人にとっては渡りに舟、といったところだったのでしょう。

 わたしは夢に耽りながら美麗の神、悪魔といっていいかもしれません、ともかく美の化身の世話をする天の恵みを再び得たのです。

 そして遂に一年後のある日、わたしは心中に長年描いてきた夢想を、現実の世界と取り換える作業に成功したのです。

 家中の者がやんごとない理由で丸三日家を空けることとなったのです。

 なんという幸運でしょう。わたしは美の化身と三日の間だけですけれども、二人だけの蜜月を手に入れる機会を得たのです。

 さらにわたしは二人だけの時間に酔いしれるあまり、遂には相手が動けないのを逆手にとって幼いころからの夢を実現に移しました。

 わたしは心を彫刻の持つ美玉に心をあずけ、世界の運行の流れから外れた白い輝きを放つ流れ星となり、あたかも永遠の内側に入りこむような、それでいて相手の気持ちは手に取るように分かってしまう夢幻郷に堕ちこんでいきました。

 わたしはその宇宙のなかで二つの夜の帳を過ごしたのです。

 お爺様はその間、わたしの狂態を哀しみを含んだ眼で見つめられておられました。

 恐らくわたしの中の、なんとも形容のつかない果てることのない寂しさを見破られ、黙って慰めてくださっていたのでしょう。以後もお爺様はこの二晩のできごとを他人に喋ることはおろか、わたしの前でも口にすることはありませんでした。帰ってきた家人に私たち二人は、なにもなかったように振舞いました。

 ところで秘密の夜から数カ月後、わたしは天から宝物を授かったのを悟りました。

それがあなたです。あなたはお爺様の子供なのです。

 あなたは己の意識あるなしに一切関わらず、罪と愛の結晶としてこの世に生を受けたのです。どうか、あなたの母親を思う存分憎んで下さい。わたしには受けて当然の誹りであり、また、いくら非難を浴びようともそれだけの価値のあるものなのです。

わたしはあなたの誕生に狂喜し、一方でその真実が白日のもとに晒されることに戦慄しました。そこでわたしはある計画を思いついたのです。

 わたしは宝を授かったと覚った当夜、あなたの父親――ここまで告白してしまったいま、なんと形容すればいいのでしょうか――父親が仕事を終えいつものようにほぼ撹乱状態で帰宅すると、その夜、さっそく枕を共にしました。そうすることで偽装を企んだのです。

 企みはうまくいきました。

後に生まれたあなたのことを、あなたの父親は自分の子供と信じました。

しかし真実はそうではないのです。わたしはそうであると確信します。あなたの人一倍落ちくぼんだ眼窩、黒曜石のような瞳。それはお爺様特有の面影であって、お婆様の色翳を濃く残しておられるお父様の燐片ではけしてないのです。

 それは後にお爺様に瓜二つになっていくあなたに、お父様が恐怖心をひそかに抱いていたという事実からもうかがえるでしょう。そうです。あなたのお父様は、あなたを恐れていたのです。

 

 あなたのお爺様と、わたしの夢の世界への遊行から一年後の雨の降る日。

 お爺様は遂に全身が真珠になられてしまわれました。兄と同じ運命となったのです。

 ひとりになったわたしは再び荒れ狂う安らぎのない荒海に投げ出されました。

 加えてあらためて周囲をみやれば近隣の人々が向ける侮蔑の眼差し。あなたの父親の奇行とそれに伴う蛮行。息苦しさに溺れ、何度死のうと胸に呟いたかはかり知れません。

 けれども日に日にお爺様と、なにより兄に似ていくあなたを眼にする度、わたしは生への希望への回帰に、思考の舵をとりなおしたのです。

 他方、あなたの姿は、あなたの父親の猜疑心を益々強大なものにしていきました。日が経つごとに自分からかけ離れていくあなたに、あなたの父親は自分の世界よりも、より巨大で手に負えない卵を己の心の中に育てはじめたのです。

 恐ろしい卵はあなたの十七歳の誕生日に遂に孵化しました。あなたの姿にお爺様の姿を確信したあなたの父親は、真実をまがりものながら推察してしまったのです。

その夜、わたしはあなたの父親に痛烈に責められ、追い立てられました。言葉だけではなく、肉体的にも責めを受け、離婚を迫られました。真実を周囲にまきちらし、一生癒えない傷を親子に植えるけてやるとあなたの父親は脅したのです。

 わたしは――その魔手から逃れるべくあなたの父親を黙らせるはかりごとを画策しました。

 その日――あなたの父親の口を封じようと企んだ日――やはりあなたの父親は罪を喰ってかなり思考が迷走していました。

 わたしはそんなあなたの父親に真実を打ち明けると告げ、夜分、罪喰い谷に誘いだしたのです。

 誰もいない、闇と沈黙に支配された罪喰い谷の絶壁を背にし、わたしは真実を告げました。あなたの父親はしばらく真っ蒼になっていましたが、やがて歯を剥いて口からよだれを垂らしながら「お前は、お前は」とかろうじて聴き取れる呻り声を漏らしました。さらに喰った罪の狂気に背中を押されて、ふらつく足でわたしの首を絞めに走り寄ってきたのです。五徳をかぶり、鬼の面をつけた白装束姿のあなたの父親は鬼そのものでした。わたしは身を翻し、その凶手から逃れると、勢いのついたあなたの父親の背を押し、彼を谷の底へ、深い闇へ突き落したのです。

 彼は奈落の底へ墜落していき、永遠に這い上がってくることはありませんでした。

 数日後、お婆様の捜索願によって警察が捜索に乗り出しました。そこであなたの父親が罪喰い谷で冷たくなっていることが明らかになりました。

 警察が発表した死因は、精神的錯乱に誘発された投身自殺。

 あなたの父親は仕事柄、普段から精神錯乱気味でしたから誰も疑いを持つものはありませんでした。

 父親の死後、あなたは上京しました。まもなくお婆様も亡くなられます。

 あなたが上京してからのわたしの苦しみ。あなたには想像もつかないでしょう。

取り替えのきかない者が生涯に三度も眼の前から去っていくのを傍観することしかできなかった苦しみはいかほどのものか。

 そこではじめてわたしは、自分が兄と別れた幼い少女の精神のまま、嫁ぎ、あなたを生み、育て、そして老いたということに気付きました。

 わたしの心は荒れ果て、倦み疲れました。わたしは毎日を怠惰に惰性だけで過ごしました。家の掃除はおろか、風呂に入るのも滞りがちになっていきました。食事も満足に摂れなくなり、眠ることさえままならなくなりました。結婚前におこなった畳敷きの上で眠る、その儀式を試みることでかろうじてうつらうつらとまどろむのが許されました。しかし、そのまどろみのなかで見るものといえば、兄とお爺様、あなたの姿ばかりなのです。はっとして目覚めてもわたしは暗い部屋の中で一人、畳の上に横たわっているだけ。その瞬間に湧き上がってくる、どう処置を施しても癒えることのない傷に似た感情にわたしはどうにかなってしまいそうになりました。

 さらにわたしはあなたが結婚するという噂を風に聴きました。その刹那、わたしは、心のなかにある扉が内側から叩かれる音を耳にしたのです。わたしのなかの死と希望が扉を開きます。そこから聴こえた声はわたしにこう告げました。兄と御爺様の声によく似ていたように思います。


「お前はせめてのもの最期に、母親としての傲慢と自己憐憫、うぬぼれを捨てるべきである。罪を背負って死ぬのがお前に許された唯一の行為なのだ。それがお前が解放されるただひとつの手段である」


 わたしは決心しました。罪喰いの一族に加わったのであるならば母として、子に押しつけた罪を、喰ってわがものにするべきだと。その罪と一緒にこの世界から消えるべきだと判断しました。


 わたしは今、鏡の前で呪わしい姿に直面しています。それは五徳をかぶり、鬼の面をつけて白衣をまとった、他人の為に働く罪喰い鬼の姿ではありません。いやしい、正に卑小な鬼の姿に他なりません。わたしは今さっき、大切に箪笥に仕舞っておいたあなたのへその緒を餅にくるんで焼いて食べたところです。

 こうしてあなたの罪はわたしの内にあります。あなたの苦しみがわたしの身を焼きます。けれどわたしはあなたを躯に取り込むことで、その罪の炎が寂しさを燃やしつくし、同時に魂が新しい糧を得て再燃を始めたのをその身に感じています。

 ここでわたしは筆を置きます。最期にあなたの母親としてあなたの将来を祈りながら。

 どうかあなたに幸せが訪れますように。



                         ――わたしの愛する息子へ




 あなたは手紙から顔をあげます。脳内が沈鬱な思考に満たされますが、しかしこれ以上は考えてはならないでしょう。わたしも小説家でもなければ劇作家でもありませんから、あなたについてこれ以上描写するのを控えます。あなたは手紙を持つ手を握りしめ、周囲を警戒し、外の景色を眺め、一キロでも早く汽車が速くすすむことを祈ります。叫びたい衝動に駆られますが耐えます。これらの行動が成功へつながる秘密だと長年の経験からあなたは知っているからです。

 あなたはこの手紙を燃やし、真実を誰にも気づかれないよう虚構の後ろに隠すことにします。秘密が誰かの手によって暴かれ、これからあなたが味わうべき幸せが脅かされることにならないように祈りながら。

 しかし窓の外を見ようと躯を捻じった瞬間、あなたは躯が固く硬化しているのを覚えました。軽く躯を左右に回してほぐし、どうにかしていつもの柔軟さをとりもどしますが、あなたはある事実に気づいてしまいます。

 汽車は暗闇へとつきすすみます。低いつらなりの山。陸橋の翳。黒い濁流。出入り口が生い茂った木の葉で隠された先の見えないトンネル。

 そして暗黒の世界のなかに唯一きらめく、だけれども真実を知った今となっては決して手が届かない場所にある希望の光。

 汽車はトンネルに入りました。

 あなたは顔を伏せ、ただ、赤子のようにうずくまり、新たな運命に、身を放り投げられるのを、待つしかないのを悟ります。

 わたしはあなたの哀れな姿を祈らずにはいられません。

 どうかあなたに幸せが訪れますように。




                             『罪を喰う鬼』了

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