第1話 ナタリア・スミス

 西暦一九八四年

 アメリカ合衆国 マサチューセッツ州

 サフォーク郡 ボストン市


 嗅いだことのない異様な臭いに気づいた時には、既に異変が起きていた。周囲の人々が、次々と倒れていく。舞台で演奏されていた音楽が徐々に消え、指揮台に立つ指揮者が激しく咳き込みながら転げ落ちた。

 あちこちから悲鳴が上がる。もがき苦しむ声。青ざめた顔で泡を吹いて、後ろの列の席の老人が倒れた。隣に居た母親がハンカチを口に押し付けてきて、息を止めるよう言いつけた。

 ナタリアは隣の席に居る妹に、同じようにさせようとした。ハンカチをポケットから取り出させて、口を押さえさせた。振り向いた時には、既に母親は倒れていた。妹も咽て、段々と血色を失っていった。

 いつの間にか、意識があるのはナタリアだけになっていた。ナタリアは何故自分だけが無事なのかわからないまま、ただ妹を抱きしめることしかできなかった。



 七月四日、独立記念日。その日、ボストン市にある複数の劇場とコンサート会場で、同時多発的に毒ガステロが発生した。国内外から集まった多くの観客と、劇場スタッフを巻き込んだ凄惨な一連の事件により、死者は正式記録だけでも千人に及んだ。

 被害者には政府関係者も多数おり、無差別テロなのか政治的意図を持つテロなのかは定かでなかった。中東のテログループに疑いの目が向けられるなか、一部では大日本帝国の関与が疑われていたが、現在でも何者による犯行かは断定されていない。

 ナタリア・スミスが訪れていたシンフォニーホールもまた、この化学兵器を用いた前代未聞の大量虐殺の舞台となったコンサートホールの一つだった。スミス一家はその日、家族でオーケストラの演奏を観賞しに来ていたのである。

 被害を受けた多くの観客同様、両親は程なく死亡が確認された。妹のアヴィーは一命を取り留めたが、昏睡状態のまま目を覚まさない。

 テロの現場に居た人間は必ず何らかの健康被害を受けていた。ただ一人、ナタリアを除いて。

 ナタリアは毒ガスの影響を全く受けていなかった。毒ガスを吸い込んだことは確実だった。にも拘らず、ナタリアの体内からは毒ガスの成分がほとんど検出されなかったのである。



       ♢



 西暦一九九二年

 アメリカ合衆国 某所


「二つ下のアヴィーは、当時まだ十歳でした。きっとあの日、客席でオーケストラの演奏を聴いていた時も退屈だったでしょう。私はアヴィーが退屈凌ぎに遊び始めないように、目を付けていました」

 手術台の眩しい光を見つめながら、ナタリア・スミスは語った。

 独立記念日に起きた惨劇、ボストン市同時多発毒ガステロから八年が経っていた。二十歳となったナタリアはこの時、人生二度目の運命の日を迎えようとしていた。

「私の腕の中で、アヴィーは痙攣しながら意識を失っていきました。私には何もできなかった。私以外の人間が皆倒れていく。あの恐怖を今でも忘れられません。……病院で検査を受けて、私がガスを吸っても平気だったと気づいた医者は驚愕していました。それから、何度も似たような検査が繰り返されました。あらゆる医療機関で、血液や組織のサンプルを幾つも採られました。その間もずっと、私はアヴィーのことが気がかりだった」

 ナタリアの肢体は完璧なボディラインをなぞっていた。美しく引き締まった体には、およそ理想的な筋肉が備わっており、彼女に繋がれた計器が映し出すバイタルも完璧な数値を保っていた。彼女の肉体は、彼女の肉体の探求に多くを費やした研究者たちのあいだで、比喩や誇張表現の一切を抜きにして、惜しみなく「パーフェクトボディ」と評されていた。

「数か月が経ち、私には特別な防御機構が備わっていると判明しました。どんな化学物質も、毒物も、驚異的な速さで分解し無害にするという適応能力です。学会に発表されて、一時期話題になりましたよね。不死身の少女、だとかなんとか。昔から代謝は良かったんです。傷はすぐに治るし、子供の頃に車に撥ねられた時も、打撲だけで済んだ。その打撲も数日で完治しました。人より目や耳が良くて、昔から力が強かったです。そのことも、私の防御機構が影響しているんだそうです。私の中に在る防御機構は、私が生存に最も適した姿になるように働いているんだと」

 ナタリアは輝く照明の一点だけを見据え、話し続けた。

「やがて私の防御機構は、私のためにしか役立たないものだとわかりました。決して医療の発展に役立つものではなかった……世紀の発見だなんて言われましたが、利用価値が低いとみると徐々に私に関心を示す人たちは減っていきました。でも、私にとってそんなことはどうでもよかった」

 言葉を区切り、ナタリアは深く息を吐いた。目に涙が滲んでいた。

「アヴィーが……私でなく、アヴィーがこの体だったら良かったのに」

 瞼を閉じると、目尻から涙の雫が伝い落ちた。ナタリアは無意識に拳を握っていた。肌の下から浮かび上がる血管が、彼女の凄まじい新陳代謝を物語っていた。

「……アヴィーはずっと、目が覚めないままです。本当はいつ目が覚めてもおかしくない。似た症状で、五年ぶりに意識を取り戻した被害者も居ました。……いつか、必ず、アヴィーも目を覚ますはずなんです」

 ナタリアが居る手術室に、スピーカーを通して男の声が響き渡った。声の主は、ナタリアの正面にある壁の向こうから、ガラス越しにこちらを見ていた。

「準備はできたかい、ナタリア・スミス。こちらの準備は万端だ」

 ガラスの向こうで喋っているのは、幾つもの記章を付けた軍服を着た男だった。彼の隣には迷彩服を着た兵士も居た。男は機械的な口調で、マイクを通してナタリアに告げた。

「この試みが成功しようと、しなかろうと、君が志願してくれた事実だけで、君の妹は永久に我が国の支援を受ける。意識が覚めるまで、最高峰の医療機関で彼女をケアしよう。目を覚ました後も、教育などの出来る限りのサポートを約束する。我が国の威信にかけて、アヴィーは幸福な人生を送るだろう」

 瞼の裏に、ナタリアはアヴィーの姿を描いていた。病床で成長したアヴィーよりも、鮮明に思い出せるのは事件に遭う前のアヴィーだった。元気に走り回るアヴィー。眠れないからと、一緒のベッドで横になったアヴィー。

「ありがとう。……ホプキンス少将、あなたに最大の感謝を送る」

 ホプキンスと呼ばれた軍人は、ある用紙を挟んだバインダーをナタリアに見えるように掲げた。もっとも、ナタリアは手術台に寝ていたし瞼を伏せていたので、そちらを向くことはなかった。

「最後に確認する。君が撤回すると言うなら、君がサインした契約書をここで代わりに破り捨てても構わないよ」

 手術室には、これまでも数度嗅いだ薬品の臭いが漂っていた。形容のできない特異な香り。決して心地の良い香りではなかったが、八年前、シンフォニーホールの客席で嗅いだあの毒ガスの臭いに比べれば、どんな臭いも恐ろしくなかった。両親の命と、妹の青春を奪った死神の臭いに比べれば。

「これから君に投与されるのは、通常、獣兵と呼ばれる猛獣兵器に投与される獣兵薬だ。我が国では禁止されている、日本国発の忌まわしい兵器だよ。これまでは少量を君の肉体に注入し、その他の薬物と同様に瞬時に無力化されることがわかっている。しかし、分量によって君の防御機構が働くスピードが異なることが、我々の研究で明らかとなった。君は不死身というわけではない。過剰な量の毒を摂取すれば、防御機構が追いつかずに毒に侵されるということだ。つまりこれから行うのは、君に獣兵薬の効果が現れ、尚且つ死に至らない分量を探り出すためのテストなのだ」

 ホプキンス少将がナタリアに最大の敬意を払うのは、これから行うことが果てしなく非人道的であり、彼女の人権を無視したものだったからだ。彼女がイエスと答えたならば、彼女がこの後どれだけ泣き喚こうが助けを乞おうが、実験を辞めることは無かった。薬物の一切が効かない彼女には、麻酔も効かない。この実験が彼女の肉体にどれほどの苦痛を与えるか、誰にも予想がつかなかった。

「獣兵薬は特殊な興奮剤であるとともに、肉体強化薬でもある。投与された動物は著しく寿命を削る代わりに、自然界の常識を超える凶暴性を得る。だが人間に投与した場合、例外なく正気を失う。あくまで獣用の薬品だ。事実、獣兵も正気とは言い難い怪物だからな。外道の日本軍でさえ、人間に獣兵薬を投与する試みは早々に諦めている。だが、君ならば……全ての毒に耐性を持つ君ならば、人間性を失うことなく、獣兵薬の恩恵だけを受けることができるのではないか……獣兵薬の投与に耐え得る唯一の人間なのではないか。それが我が軍の狙いだ」

 ナタリアは握りしめていた拳を開いた。涙は渇き、心拍は瞬時に正常な値を取り戻した。これから命を危険に晒す実験に臨むというのに、ナタリアの心は平和そのものだった。自分が身を捧げることでアヴィーの安全が保障されるのなら、ナタリアはもう何も望まなかった。

「もう一度訊こう、ナタリア・スミス。この実験を受け入れ、我が軍の人間兵器となる覚悟はあるかね?」

 アヴィー。あなたが目を覚まして、その先も、健やかに幸せに生きることができるのなら。それが私の幸福だ。

「……構いません。あなた方の提示する全てに、私は同意します」

 アヴィー。

 あなたのためなら、私は何だってする。

 どんなことでも。

 ナタリアの周囲に置かれた機器が稼動し始めた。手術着を着た医師が、ナタリアの腕に投薬用の注射器を刺した。ナタリアの優れた神経系は、痛覚を正確に脳に伝えた。これから静脈に流し込まれる獣兵薬が体内を侵す感覚も、彼女は一切の狂いなく感じ取ることができるだろう。身に起きる変化も、全てを察知できるだろう。死するとしたなら、その瞬間も、彼女の感覚は見逃すことがないだろう。

 感心するように何度か深く頷いてから、ホプキンス少将は言った。

「この試みが成功すれば、君は生物として一つ上のステージへと昇るだろう。君は文字通りの超人となる。その暁には、新たな名前が必要だ。唯一無二の新たな人類として、我が軍に献身してもらうためのコードネームが要る。新しい名前に、何か希望はあるかね?」

 液状の獣兵薬がチューブを通ってナタリアの体内に流れ込もうとしていた。ナタリアは懐かしい思い出に浸りながら話した。

「アヴィーが好きだった小説があります。その小説の主人公の名前がいい。苦しみに喘ぐ人々を救う、ヒーローのような人物の名前です」

 獣兵薬が注射器に達し、ナタリアの体内に侵入した。薬品に反応した防御機構が働き出し、心拍が加速するとともに彼女の肉体は紅潮し始めた。血管の浮いた手足が微かに跳ね、手術台に固定しているバンドがピンと伸びた。

 ホプキンスが問う。「その名は?」

 彼女は瞼を開いた。真っ赤に充血した眼は、人間離れした眼光を帯びていた。彼女の瞳そのものが光を放っているかのように、白い照明が反射していた。

 彼女の眼は、獣の眼へと変貌を遂げようとしていた。

 彼女は答えた。

「フランシス」




 獣は還らない

 CHAPTER.3


 鋼鉄の緑帽兵グリーンベレー




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