第二十四話 あなたに会いたい

 十


『僕、賢嗣です』

 けんじ、と聞いたとき、わたしの頭の中には真っ先に「賢嗣」の文字が浮かんだ。そして初めて、スピーカーの向こうの声と、懐かしい顔がつながった。

 引っ越し業者の中に、いたなんて。

 あの日この家に荷物を運んできた三人の男性の姿が思い浮かぶ。人と接するのがすっかり怖くなっていたせいで誰の顔もまともに見ていなかった。代表らしき人は歳もそこそことっていそうなので、残りの二人のどちらかだろう。

 一人は、黒髪だった気がする。もう一人は茶髪だっただろうか。――ふいに、取り落としたペンを拾ってくれた青年を思い出した。あれは、黒髪の方だった。背が高くて、「大丈夫ですか」と、澄んだ声で言ってくれた。その声が、今の今まで扉の向こうに立っていた彼の声と重なった。

 インターホンの受話器の下で、壁にもたれてずるずると床に座り込む。胸がぎゅっと絞られるように苦しかった。嬉しさと、切なさと、どうしようもない絶望が混ざって、息が止まりそうになる。

 彼は、わたしの姿をはっきりと見てしまったのか。この、ぼろぼろで見る影もないわたしの姿を。

 よもや、こんなところで会えるなんて思いもしなかった。彼にだけは、見られたくなかった。知られたくなかった。大嫌いな、本名だって――

『中島真里さん』

 その声が耳に反響して、再び胸に苦しさがこみ上げる。嫌いな名前。吐き気のする名前。この名を呼ばれるとき、いつもろくなことがなかった。ママが呼ぶときは気まぐれな母親ごっこに付き合わされるとき。姉が呼ぶときは見下したり八つ当たりをされるとき。妹が呼ぶときは、いつも不幸な報せを届けてくれた。そして今は、お金の無心ばかりだ。真里、真里、真里姉さん、と言ってすべてを持っていってしまう。

 だから、初めてだった。あんなに温かい声で、真里さん、と呼ばれたのは。

 ぽとり、膝の上に雫が落ちる。気づけば、両の目からぽろぽろと涙がこぼれだしていた。苦しい胸を抱きしめながら、彼の声を繰り返し何度も呼び起こしてしまう。

 館も仕事も失ってから、八年――気がつけば三十歳になっていた。ようやく借金返済の目処が立ってきたらしいけれど、わたしの生活は相変わらずだった。身なりを整える余裕もない。趣味に興じる暇もない。中島家を支えるために働き続けなければならず、少しでも遅れると半狂乱の母や姉が直接家まで乗り込んでくるので、再び棲家を変えざるを得なくなった。

『嫌いになったなら、恨んでいるなら、そう言ってください』――なんてずるい言い方なんだろう。彼をここから遠ざけたければ、嫌いだと、恨んでいると、言わなければならないなんて。そんなこと絶対、できるはずがないのに。

 だけど彼のいる輝くばかりの世界に、わたしは行くことができない。見ることも触れることも叶わない。だからまた彼が来たら、今度こそ無視しなければ。ヒマリはもういないのだと、思い直してもらわなければならない。

 そう決意したのに、わたしの心はひどくすさんでいく一方だった。ビルの清掃の間も、くたくたになって帰ってきてレトルトのカレーを口にしている間も、ぬるいシャワーを浴びている間も、気がつけば引っ越し業者の制服を着た彼のおぼろげな姿をぼんやりと思い浮かべてしまう。そして、自身の惨めな現状を思い、魂の打ち砕かれるような痛みを覚えるのだ。

 彼は、わたしのアルバイトのシフトを知らない。いつが休みかなんて知らないで、また来る、と言ったのか。

 もしかしたらこうして働いている間も彼は来ているかもしれない。インターホンを押して、ヒマリさん、と声をかけ、いないのか、と落胆して去る彼を想像すると、奇妙な気持ちになった。わたしは、喜んでいるのか――馬鹿な。現実を見なくちゃいけない。彼と関わる資格なんてわたしにはないのに。

 次のわたしの休みは、水曜日の午後になった。帰宅し、シャワーを浴びて、妹のメールを見る。母と姉との生活を愚痴る内容に辟易し、古い畳の上にごろりと横たわった。スマホを放り出し、薄暗い天井を見上げる。

 そろそろ陽も落ちてきているが、立ち上がって灯りをつける気力もなかった。貴重な休みの時間はいつもこうして、畳の一部みたいに横になって過ごしていた。昔のわたしなら、こういうときにこそ物語を書き起こしたり、自慢の書庫で本を読みあさっていたに違いない。だけど、今のわたしにそれはできない。

 ふと遠くで、かん、かん、と鉄階段を上がる音が聞こえてきた。住民の誰かが帰ってきたのか。その足音はゆっくりと、だけどまっすぐに近づいてきた。そして、この家の前でぴたりと止まった。

 一呼吸置くようにして、ブザー音が鳴る。この家のブザーだ。わたしは弾かれたように起き上がった。

 ここの場所は家族の誰にも知らせていない。彼だろうか。本当に、また訪ねてくれたのか。

 こっそりと足音を忍ばせて扉に近づいた。そして、くりぬかれた小さなのぞき窓から、こわごわと外を覗き見る。

 黒髪の、すらりと背の高い青年が立っていた。白いシャツに深緑色のカーディガンを羽織って、紺色の鞄を肩にかけている。

 記憶にある八年前の姿から驚くほどの成長を遂げているけれど、それでも、その顔を一目見て、わかってしまった。優しげな光をたたえた、美しい澄んだ黒い瞳。それを縁取る長い睫毛。それは紛れもなく賢嗣くんだった。

 だけど、どこか受け入れがたい自分がいた。記憶にある彼は、いつも困ったようにやんわりと憂いを帯びた表情をしていた。小柄でやせ気味だったせいでよけいに大きな眼が目立って、かわいらしい人形のように見えたものだ。だけど、扉の向こうに立っているのは立派なりりしい青年で、儚く頼りなげな美少年の影などどこにもない。

 きっと、大学やアルバイト先などで女子から人気を得ているだろうと思う。あの賢嗣くんがそんなきらきらと眩しい生活をしていると思うと余計に不思議な心地になった。

 もう、遠い存在になってしまったのだなと、思う。

「ヒマリさん」

 唐突に、その彼が顔を上げ、声を発した。はっと意識が引き戻される。アパートの壁がそれほどまでに薄いのか、扉の建て付けが悪いのか、彼の声はインターホン越しよりも鮮明に、はっきりと聞こえてきた。

「きっと、そこにいますよね。……いなかったらどうしよう、恥ずかしいな」

 と言いながら、人差し指で頬を掻く。本当に恥ずかしいのか、こわごわと左右を見回して、それからこちらに向き直った。

「あの、僕、あれから見つけたんです。『白金の舟プラチナアーク』……ヒマリさんの書いた本ですか?」

 突然の懐かしいタイトルに息が詰まる。あれは、紛れもない、わたしのデビュー作だった。

「違ってたらごめんなさい。だけど、僕、あの物語からどうしてもヒマリさんを感じて……自分でも何言ってるんだって感じなんですけど、本当にそう思ったんです。すごくわくわくしたから……時間を忘れて、一巻まるまる、一日で読んでしまいました」

 反射的に、嘘じゃないかと思った。わたしの生み出す物語にはなんの力もない。わたしの作家人生は父の権力と根回しによって支えられていた。そんな物語を読んで、わくわくした、なんて。わたしを感じたなんて……

「昔、一緒に冒険小説について語り合ったとき、こういう展開が好きだとか、キャラクターが好きだとか、ヒマリさんが言っていたことが物語に全部詰め込まれていて……ごめんなさい、うまく言えないんですけど、とにかくすごく面白かったんです。嘘だと思うかもしれませんけど、嘘じゃないです。じゃなかったら、徹夜してまで読んだりしません」

 彼の言葉が渇いたわたしの心に容赦なく降り注いでくる。闇の中に眩しい光がいくつもいくつも差し込んでくるような気配がして、わたしはひどく怯えていた。

 お願いだから、それ以上、言わないで。

 わたしの気持ちを揺さぶらないで。

「ヒマリさん」

 わたしは耐えきれず、扉に背を向けて、ずるずると座り込んだ。背中を丸めて両手で耳を塞ぐ。だけど無意味な抵抗だった。

「八年前……僕は本当に、愚かでした。あなたの立場が世間的に悪く思われるのも知らないで、あなたに甘えて……自分が会いたいからって、たくさん一緒にいたいからって、わがままばかりでした」

 突然、何を言い出すのだろう。

 愚かだったのはわたしだ。無垢なあなたを大人の言葉でごまかして、丸め込んで、欲のままに着せ替えて、自分の沼に引きずり込んだ。世間的な見方は正しい。すべてわたしのせいなのに。

「僕のせいで、ヒマリさんが引っ越さなくちゃいけなくなった。あの館を、あんなに気に入っていたのに……だけど、僕はやっぱり、今でも愚かだ。こうして、未練がましくあなたに会いに来ているから。僕のせいで傷つけたっていうのに、性懲りもなく……会いたくて」

 会いたくて。

 唐突な最後の言葉が、わたしの胸にぐさりと突き刺さった。痛い。痛くて、苦しい。早く抜かなくちゃいけないのに、なぜかその棘を抜きたくない自分がいた。抜かずに、刺さったままの胸をぎゅっと抱きしめる。

「ヒマリさん……」

 八年前とは違う、低い彼の声が、わたしの背を包み込む。

「ごめんなさい。会いたいです」

 切なげな声が、胸の棘をさらに奥へと押し込んでくる。

「もし、もし……許されるなら、一目だけでいいですから、顔を見せてくれませんか」

 だめ。それだけは。

 こんな醜い姿をあなたの前にもう一度さらけ出すなんて、できない。

「だめですか……?」

 細い声が儚く響く。声はすぐ間近にあった。彼もまた、扉の外でしゃがみ込んでいるのかもしれない。わたしの首のすぐ後ろで、こつん、と扉に手が触れたような音がした。

「やっぱり、僕、嫌われているんですね。ごめんなさい。しつこく訪ねてしまって。ご迷惑を、かけて……」

「嫌い、じゃない」

 咄嗟に出た声は、ひどく掠れていた。目尻に涙が浮かびはじめる。

「え?」

 扉越しに戸惑った声がする。わたしも自分の声に驚いていた。どうしよう、もう取り返しがつかない……

「嫌いじゃないの」

 彼は今、どんな表情をしているのだろう。痛い沈黙を振り払うようにわたしは言葉を続ける。

「あなた、自分で言う通りお馬鹿さんね。八年経っても何もわかっていないなんて。あなたはわたしに騙されていたの。ヒマリという人間は存在しないし、アリスの仮面なんてありえない。わたしという最低な大人に目を付けられて、いいようにされていただけよ」

 こうなったら、全部言ってしまおう。それで彼が我に返って、ヒマリの幻惑から解き放たれるなら、それでいい。

「わたしはね、あなたの思うような素敵な女性じゃないの。父の力で小説家になって、当時はそうと知らないまま自惚れて生きていた。そして、あの町で自分好みの美少年を見つけて、ロリィタを着せたらさぞかわいらしいだろうなと思って、自分の家に誘った。ただの傲慢で変態的な詐欺師でしかないのよ」

「……よかった」

 唐突な、予想外の返答に言葉を失った。

「僕、もうご存知だと思いますけど、こんなに背が伸びてしまって、声変わりもして……とてもロリィタなんて着られないようになってしまったんです。だからもう、見向きもされないんじゃないかって思っていました。ヒマリさんはアリスが目的で、アリスが好きで、僕に近づいたんだって……だけど、違うんですね。あなたは初めから僕を見てくれていたんですね」

 扉越しの声は無邪気に喜んでいる。どうして……わたしはただ、最低なことしか口にしていないのに。彼はなおも、深く安堵したような声で続けた。

「その、お父さんの力でっていうのはよくわかりませんけど、あの小説がヒマリさんの作品なら、僕は嬉しいです。そうであってほしいです。すごく好きです。めちゃくちゃファンになります。それに、僕はヒマリさんに負けないくらいあの館が好きです。この八年、僕の心にあるのはずっとあの館での思い出ばかりでした。あなたのことを考えながら、あなたの好きだったものを大切に愛でながら、いつか会えると信じて生きてきたんです」

「どうして……」

 溢れる涙と息苦しさに喘ぐようにして、問う。

「どうして、そこまで……わたしには、そんな価値はないのに」

「もう……」

 困ったような、苦笑交じりの声がすぐに返ってきた。

「本当に、恥ずかしいですけど……八年前、たぶん初めて会った日から、僕はあなたが好きでした」

 また、苦しい棘が胸に突き刺さる。その傷口を埋めるように、彼の温かな優しい声が流れ込んでくる。

「この好きっていうのにはいろいろなものが交じっていて、どれ一つ欠けてもだめなんです。あなたは嘘だと言いましたけど、僕はアリスの仮面はあると思います。アリスでいるとき、僕はあなたを本当の姉妹のように慕っていました。あなたの絵を描くとき、アントワネットとルブランみたいに、長年連れ添った友のような親しみを覚えていました。そして、賢嗣としては、あなたと一緒にいると、いつも胸がどきどきして、どうしようもなくて……」

 この話を聞いていてはだめだ、と本能が訴えているのに、わたしは彼の言葉を、固唾を呑んで聴き入ってしまっていた。

「ヒマリさんの小説が好きです。冒険小説を愛するヒマリさんが好きです。たくさんのアンティークに囲まれているヒマリさんも、ロリィタ姿のヒマリさんも、そうじゃないヒマリさんも。価値がないなんて間違っています。世間がなんて言おうと、あなたがどう思おうと、僕にとってあなたは大切で、尊くて、……愛おしいです」

「あの時、見たでしょう。わたしの姿を。ぼろぼろになった、見る影もないわたしを」

 温かな彼の声の沼の中でもがきながら、わたしはたまらず声をあげていた。

「あなたの愛したヒマリは、もうどこにもいないのよ」

「います。ここに」

 何のためらいもなく、彼は言い切った。

「どうして分けるんですか。全部あなたなのに。じゃあ、真里さんと、呼んでいいんですか」

「やめて! その名前は嫌いなの!」

 彼の口からその名が出ただけで、反射的に叫んでしまった。

「その名前は、全部、思い出すから……現実を嫌でも直視してしまうから……」

「それは、さっき言っていたことと関係があるんですか。お父さんの力がどうとかいう……」

 言葉に詰まったわたしの沈黙を、肯定と受け取ったのか、彼はさらに続けた。

「事情はよくわかりませんけど、もし何か苦しいことがあるなら、僕に協力させてもらえませんか。おこがましいかもしれませんけど」

「……その名前は、今のわたしそのものなのよ」

 吐き捨てるようにして言う。

「八年の時の中で名誉も棲家も宝物たちも、何もかも失って、くたびれて醜くなってしまった、自身の現実を突きつける名前なのよ」

「醜くなんて」

「醜いでしょう! あの時見たはずよ、あなたも――」

「見ましたけど、僕は顔を見た瞬間にあなたとわかりました。いや、顔を見る前に、まず綺麗な髪だなって思ったんです。僕の記憶にある綺麗な髪のひとを咄嗟に思い浮かべてしまうほどに。確かに、やせていて顔色も悪いなとは思いましたけど、たぶん、ちゃんと食事や睡眠をとっていないせいですよね」

 その言葉に、気を遣ってごまかすような声色は微塵にも感じられなかった。ただ真剣に、まっすぐ訴えかけてくる。

「そうだ、僕、今一人暮らしをしていて、少しずつですが自炊も始めているんです。もしよかったら、作らせてもらえませんか」

 彼は、自分が何を言っているのかわかっているのだろうか。

 絶句し、なおも頑ななわたしの心に、最後の一撃が下された。

「ヒマリさん。扉を、開けてください」

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