第十話 扉を開けて

「母さん、明日の土曜、昼から出かけたいんだけど」

 学校から家に帰るなり、僕は台所で母にそう告げた。

「賢嗣、あなたテストで点を落としたんだから、土日の外出はだめだって言ったじゃない」

「テストはもう終わったよ」

 僕は鞄からクリアファイルを取り出して母に突きつけた。母は濡れた手を拭き、ファイルを受け取る。訝しげに中身を覗き、指先でぱらぱらと捲っていく……その顔に、安堵のような笑みが広がっていった。

「まあ、頑張ったじゃない」

 全て満点のテスト用紙を胸に抱き、母は僕に向かって笑いかける。

「ほら、ね? テストに向けて部屋に籠もったかいがあったでしょう?」

「うん。そうだね。それで、明日だけど――」

「誰かと出かけるの?」

 これは肯定的な質問だ。僕ははやる気持ちを抑える。

「僕だけだよ。クリスマス展示に向けて写真を撮らなきゃいけないから」

「部活の課題ね。それで、どこまで行くの?」

「S駅の方だよ――」あまり核心を突かれないよう、ぼかして答える。「繁華街のイルミネーションとか、サンタクロースのバイトの人とか、そういうのを撮りたいから、なるべく賑やかなところがいいんだ」

「夕食までに帰りなさいね」

「それは大丈夫」

 よかった……うまくいった! 思わずこぼれそうになる笑みを押し留めながら踵を返す。

「ああそうだわ」

 後ろから母の声。機嫌のいい声色だ。

「クリスマスイブはお父さんも早く帰ってきてくれるみたいだから、一緒に祝いましょうね。あなたたちにはいろいろ準備を手伝ってもらいたいのよ」

 クリスマスイブ……

「それは、楽しみだね」

 まるで自分の声じゃないみたいな重苦しい声が出た。

 クリスマスイブ……僕の中では、ヒマリさんと一緒にすごす絵ができあがりつつあったのに、それが脆くも崩れ去っていった。

 その夜、僕はヒマリさんに思い切って話した。

「クリスマスのことなんですけど」

 僕はアリスに着替えて、ヒマリさんの寝室のベッドに腰掛けていた。ヒマリさんは出窓の窓台で足を伸ばしてくつろいでる。

「僕……その、ヒマリさんさえよかったら、一緒に……と思っていました」

「いいよ。わたしもそのつもりだったから」

「えっ」心臓が跳ね上がる。でもすぐに落ち込んだ。「それが、だめになったんです。母が……その日は父も一緒に祝うから、準備を手伝ってほしいと」

「それじゃ仕方ないね」

 あまりにあっさりした態度に、僕は目の前が真っ暗になりそうだった。

「でも、僕は……」

「クリスマス本番は二十五日よ。まあ、厳密に言うなら二十五日の日没までかな。じゅうぶん間に合うじゃない」

 思わず顔を上げる。ヒマリさんは窓辺で柔らかく微笑んでいた。

「二十五日、ちょうど日曜日よ。一緒にお祝いしましょう」

「知りませんでした」深い安堵が胸に広がる。「二十五日……本当に、いいんですか」

「もちろん。わたし、あなた以外の人と一緒に過ごす気なんてないもの」

 これは夢じゃないだろうか? そっと腕をつねってみたら、痛かった。夢じゃないんだ。ヒマリさんは僕以外の人と過ごすつもりはない、と言った……

「僕も、同じです!」僕は思わず立ち上がっていた。「本当は二十四日も、ヒマリさんと……」

「ふふ」

 ヒマリさんは静かに窓辺から降り立った。黄金の巻き毛がふわりとなびく。レースに覆われた袖を揺らしながら、ゆっくりと近づいて、僕の……アリスの背に、腕を回した。

 甘やかな匂いが鼻腔を包み込む。くらりと眩暈がした。全身にヒマリさんを感じる……何か熱いものが心臓から手足に向かってさざなみのように流れていく。痛い、わけじゃない。ただ、苦しい。

「ありがとう。でも、家族との時間も大切にしてほしいな」

「家族なんて。僕はあの家で……」

「あまり良い扱いを受けていない?」

 ヒマリさんがほんのわずかに身体を離す。目と鼻の先に彼女の美しい顔がある。

「でも、いつかわかる。今、大切にしてほしいな。これはあなたの家族のためとかじゃなくて、あなた自身のために」

 その言葉の意味はよくわからなかった。過干渉で理想を押しつける母、母のいいなりの兄、ほとんど関わりのない父――どう考えても僕にとって必要なのはヒマリさんの存在の方なのに。

 だけど、僕はヒマリさんを悲しませたくなくて、ただおとなしくうなずいた。

「さあアリス!」

 ヒマリさんがおどけたように後ろへぴょんと跳ぶ。

「残りわずかな時間を楽しみましょ」

 と、鼻歌を歌いながら新しいレコードを探し始める。その背中を眺める僕の頭の中に、まだ見ぬお茶会とクリスマスの幻影が温かなイルミネーションのように輝いて、繰り返し想い描かれていた。


 翌朝、僕は朝五時半に起きて勉強のノルマをこなしていた。数時間後に控えているお茶会のことを思うと緊張でそわそわしてしまって、せっかく早起きしたのに全然集中できなかった。おかげで、終わった頃には昼食時間ぎりぎりだった。

 急いで味噌汁を掻き込んでいる僕に、兄が怪訝な顔を向ける。

「何か用事でもあるのか?」

「賢嗣は写真部の課題ですって」

 母の口調は柔らかい。点数を取り戻して以来、母は少しだけ優しくなっていた。

 兄は表情を変えないまま僕に向き直る。

「一人でか?」

「うん」

「一人なら、時間なんて関係ないだろ? ちゃんと噛んで食べろよ」

 兄の鋭さとお節介さにはいつもうんざりしてしまう。だけど僕は負けられない。

「ううん、いろいろ見たいところがあるから、なるべく時間を多くとりたいんだ」

「……そうか」

 兄は未だ微妙な表情を浮かべてはいたけれど、それ以上踏み込まず、母にご飯をおかわりした。

 十二時半。なんとか間に合った。僕は家を出て、駅の方へ向かうそぶりをしながら迂回して屋敷へ向かう。出迎えてくれたヒマリさんはすでに全身の用意を整えていた。

「いらっしゃい、いよいよね」

 輝くような黄金の巻き毛に、大きなブリムのついた赤いボンネット。白い靴下には褪色の薔薇の刺繍があり、踵が編み上げになった靴を履いていた。

「今日は赤なんですね」

「ルビーレッドと言ってくれなくちゃ」ヒマリさんはくすっと笑って、スカートを摘まんで見せた。「少しピンクが混ざった独特の赤。大好きなのよね」

 それから彼女は僕を手招き、衣装部屋へ通してくれた。ドレッサーの前に座らせ、さっそく化粧を施してくれる。

「ああ、リップ、もうしてくれたのね」

 ルージュを引く前に、彼女は僕の唇に軽く触れた。

「とても綺麗。楽で良いわ」

 別に、今日の化粧時間を短縮したくて塗った訳ではなかった。僕は毎朝、出かける前にヒマリさんのリップクリームを塗る癖ができていたのだ。自分でもつくづく単純だと思うけれど、なんだか安心するからだった。

「今日はいつもより気合いを入れましょ」

 ヒマリさんは小さな透明の円いケースを取り出した。薄い蓋を開けると、星の瞬きを散らしたように輝く青いラメが詰まっている。

「これを少しだけ瞼に載せて……ああ見て、すっごくかわいい! 本当にお人形さんみたいよ」

 ほら、とヒマリさんが上体をどける。現れたアリスの仮面に、僕は思わずため息をもらしていた。

 大きな丸い目と、それを縁取る長い睫……それはいつもと同じだけど、今日は瞬きするたび、首を傾げるたび、きらきらと輝くのだ。そう、まるで星のお姫さまだ!

「さ、いつものウィッグを被って……できたよ。ああ、素敵……」

 ヒマリさんは僕の肩にぎゅっと抱きついて、頭を撫でてくれた。だけどすぐにはっとしたように離れてしまう。

「今日のお洋服はね、結構頑張って選んだのよ。せっかくだからお揃いにしようと思って」

 と、隣の洋服がけからドレスを抜き取る。今彼女が着ているものと色違いで、こちらは目の醒めるような青だった。

「ロイヤルブルーよ」

 僕が「青」と言う前に先回りされた。

「ボンネットも靴も靴下も、全部あるの。どちらの色も捨てがたくて、結局両方買ってしまって。まさか、こんな風に着られるなんて思ってなかった」

 ヒマリさんが一旦出て行ったので、さっそく着替えてみた。最後に全身鏡に自分を映しながら、青いボンネットを被り、リボンを顎の下で結ぶ。できあがりは、ため息が出るほど綺麗だった。本当に、これは僕? そう、僕だ。アリスという名の僕……

「できたかしら?」

 ヒマリさんが部屋を覗き、こちらを見た。その大きな瞳に、ぱっと光が踊る。

「まあ……!」

 すごい勢いでかけてきて、がばりと僕にだきついてくる。

「ああ、もう、なんて、なんてかわいいの! アリス、わたしのアリス……」

 抱きついたまま、僕の背を撫で、頭を撫でる。彼女の手の感触を受けながら、僕はされるがままに硬直していた。どうしていいのかわからなかったわけじゃない。全身が沸き立つように熱くて、そのまま天井へ向かって舞い上がってしまいそうだったからだ。

「ああ、いつまでもこうしていられないね」

 ヒマリさんは僕から離れ、部屋の後方にある棚を開けた。色とりどりの鞄や傘がずらりと並んでいる。

「双子コーデは、小物も全部揃えるのが一般的だけど……あなたの使いたいものを使うといいよ」

「僕はヒマリさんとお揃いがいいです」

「そう? じゃあ、一緒にこれを持ちましょう」

 二つの鞄が取り出される。白と黒の色違いで、宝箱のような形をしている。ふちを波形に切り取られた蓋が可愛らしい。取っ手もリボン形で凝った作りだ。

「それから傘ね。今日は雪が降るかもしれないんですって。まあ、降らなくても持っているものだけどね」

 傘も黒と白でお揃いだった。ヒマリさんが白を、僕が黒を持った。

「じゃあ最後に、大切なコートね。これは、残念ながらお揃いじゃないの。でも、どちらもケープだし、色も形も似ているから双子に見えるよ」

 ケープってなんだろう、と思っていると、彼女は壁に埋め込まれたクロゼットを開けて、中からふわふわした白い衣装を引っ張り出した。袖のないマントのようなコートで、首元や裾が温かそうなファーで縁取られている。僕のは胸元に大きなリボンがついていて、ヒマリさんのは小さなリボンが縦に三つ並んでいる。よく見れば違うデザインだけど、傍から見たらお揃いに見える。

「さ、これで良家のお嬢様の完成よ」

 僕の首元のリボンを結んで、彼女は明るく言った。「どこへ出しても恥ずかしくない、貴族の子女ね」

 僕はもう一度改めて姿見を眺めた。真っ白なケープに包まれた白銀の人形が鏡の向こうに佇んで、こちらをじっと見つめている。そのまま、くるりと回ってみた。ケープもスカートも、ふわりと広がる。ああまた、どこかへ飛んでいってしまいそうな高揚感に包まれる……

「行きましょう、アリス」ヒマリさんが僕の手を取り微笑んだ。「ロリィタのお茶会へ」

 お揃いの帽子にお揃いのドレス。二人の姉妹は手に手を取って、鳥籠の外へと繰り出した。

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