第 5話 流れ

 朝日がカプネ排煙口から廃屋はいおく真直まっすぐ差し込むのを見つめ、イリソスは立ち上がる。彼が留守にした数年の間にラウレイオンは太陽神の加護を受けるようになっていた。


 しかし、今、イリソスが得たい守護は水を司る者からだ。

 夏至を過ぎ、降雨こううを期待できない季節はまだ訪れたばかり。あちこちに作られた貯水施設の天水てんすいに頼る他ない日々が続く。しばらく手入れされていないはずの設備が潤沢じゅんたくな水をたたえていることを祈るばかりだ。彼はからの水袋をいくつも腰ひもに差す。


 一番近い選鉱用の貯水池は飲むには向かない。居住区でうつわを集めながら家々の水槽からみ集めようと考え、イリソスが踏み出した時、彼の体を何かが駆け巡った。筋肉を染め替え、血にさざ波立つような感覚が身の内を広がる。


「クロエ?」


 振り返れば、彼女は白けたキトン麻服一枚で起き上がり、壁にもたれながら両腕を上げていた。傾けた壷からオリーブオイル橄欖油したたり落ちる。それは床の上で広がらず、炉を目指して流れ、消え行った。

 魔法の供犠くぎの当たりにし、イリソスは眉根を寄せる。


「……まだ使わなくても……」


 クロエは疲れた笑顔で首を横に振った。ゆっくりと油壷レキュトスを起こすと、腕がだらりと落ちる。両腕の内側には刃のきずがほぼ平行に並んでいた。自らの血を供犠に捧げた過去が彼女の身には刻まれている。


「私達の決めたことをするには強い強い魔法の効果が必要よ。どれだけ繰り返せば足りるか。これでも、しないより良いわ」


 イリソスは複雑な表情を浮かべながらも、


「有難う」


 ねぎらいを口にした。すると彼女の顔はくもる。


「……これは祝福じゃない。呪いよ」

「僕に魔法はわからないから同じだよ」


 イリソスは笑うと、麦わら帽子ペタソスをかぶった。

 その言葉は本心だ。噂に聞いたクロエの魔法。対象の内なる時の流れにほんの一時ひととき、干渉することができるのだ、と説明されたが、イリソスに理解はできなかった。

 ただ魔法の働く瞬間、クロエと結ばれる。イリソスにとって重要なのはそれだけだ。魔法は、彼女を衰弱させる哀しみと、彼女と繋がる喜びをもたらす諸刃の剣とだけ身に沁みた。



 乾き切った選鉱場に水を注げば、焼ける石が浮かれたように音を奏でる。

 満たされた潤いにやがてスライム鉱滓は姿を取り戻し、イリソスは槽に入ってそれをき出した。かたわらに座るクロエが廃泥はいでいを欠けた酒甕クラテルにおさめ、手押し車へ乗せる。車が容器で一杯になるとイリソスは水から上がり、坑口へと運び去った。

 折々、飲用の水瓶カルピス海綿かいめんをひたし、彼の顔をぬぐう時、クロエの笑顔はかつての溌溂はつらつを取り戻したようにイリソスには見えた。

 このまま、時がこごるなら……願う彼の上で、太陽は沈んでは昇る。


「そろそろ新月の祭ヌメニアの用意をするよ。君は休んでて」


 年を始める炯眼の女神グラウコピスの誕生月へ向け、イリソスは祭壇を作り始めた。



――でも、君はいつも遠くだけを見ていた。

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