第二話 遠き記憶


 男は、食器を片づけて、座ってTVを見ているマスターを見る。


「(こうして見ると、凶悪な犯罪の前科があるようには思えない)」


 テーブルに座っている様子も、崩して座っているわけでもなければ、長い間の慣習で背筋を伸ばして座るわけもない。


「(体幹が整っている元スポーツ選手や身体を鍛えている大学の教授だな。あとは、執筆業の傍ら身体を鍛えている?ふふふ。誰もバーテンダーだとは思わないだろうな)」


「おい」


「何?マスター?」


「気持ち悪い目で見るな。殴りたくなる」


「酷いな」


「まだ、時間は早いな。仮眠を取る。鍵」


「はい。はい」


 男は、マスターに鍵を投げる。


 鍵を受け取ったマスターは、車に戻って、助手席を倒して、目を瞑る。

 男は、車に戻るマスターを見送ってから、スマホを取り出して、状況の報告を行う。男の役目は、マスターの送り迎えの意味もあるが、マスターの護衛を兼ねている。護衛は、男が言い出した事ではない。男も上の方から依頼をされている。マスターも理解している。男を邪険に扱っているようで、ある一定の部分では信頼を寄せている。


 男が、TVを眺めているとスマホが鳴った。


『はい』


 男が、普段と違う声色で電話に出る。


『いえ、今、富士川です。彼ですか?車で仮眠です』


 マスターの様子を伝える。

 相手が何を求めているのかが解っているので、過不足なく伝える。それが、電話を早く切るコツだ。


『大丈夫です。これからは、彼の指示で動きます。え?あっ。解っています。彼らとの、接触は最小限にします』


 電話の向こうでは何かを言っているが、男は、半分以上は聞き流している。


『解っています。私の身分は解らないようにしています。大丈夫です。彼と一緒に居るのに、挨拶をしないのもおかしいでしょ。そうですよ。はい。はい』


 男は、電話を切った。


「(ばぁかぁお前らに、マスターが制御できるわけがない)」


 男は、切れた電話に向かって悪態をついている。

 マスターの監視を命令してきた者たちだ。もちろん、男の上役も承諾している。二重スパイの役割を、男は承諾している。


「(俺は、マスター以外と心中するつもりはない!その意味では、やっと・・・。今日、会える方々には期待している)」


 マスターの”友”だと言われている者たち。

 マスターは表情には出していないが、”約束の日”が近づいてきて、緊張している。マスターは、口にも表情にも出さない。以前は、寝ること自体が珍しかったが、眠れるようになってきている。

 しかし、弁護士の女性から命令に近い書簡が届いてから、マスターは寝られていない。

 今日も、男の前で、”仮眠を取る”と言い出した。確かに、普段ならこのくらいの時間には、マスターは休んでいる。


 男のスマホが鳴った。

 今度は、先ほどまでと違って、男の表情は”柔和”と言っていいほど緩んでいる。


「マスター!どうしたの?寂しい?添い寝が必要?喜んで!」


『うるさい。時間を伝えていなかった。2時後に起こせ。それまで、車に近づくな』


「えぇ添い寝は?」


 マスターは、必要な事だけを伝えて、通話を切った。

 男が、かけなおしても、繋がらない所を見ると、電源を落としたのだろう。車の鍵はマスターが持っている。ドアをロックされれば、開けられない。マスターなら、締めきっている事はないだろうから、大丈夫だろうと考えて、男は、アイスを買い求めて、椅子に座って、流れるニュースを眺めている。

 いくつかは、男が知っているニュースが流れている。

 裏の事情まで踏み込んでいるニュースはない。でも、男はそれでいいと思っている。本当の事を伝えて、誰かが幸せになるようなニュースは少ない。真実と事実が異なることくらいは、男は解っている。残酷な真実よりも、不確かで甘く暖かい事実の方がいい場合もある。


 男は、マスターが指定した時間まで、富士川SAを散歩していた。

 富士山を見るのは好きではなかった。駿河湾を眺めるのは嫌いではない。駿河湾が良く見える場所を探していた。


「無理だぞ」


 急に、後ろから声を掛けられた。


「マスター。起きたの?」


「少し前にな。海は見えないぞ」


「えぇぇぇ。登らない山よりも、海の方がいいのに・・・」


「年間20万人以上が登る山だぞ?」


「違うよ。マスター。そいつらは、登山者じゃないよ。観光客だよ。本当に、富士山を理解して登ろうとしている人は・・・」「そうだな。お前は、登らないのか?」


「マスターが登るなら登ろうかな?」


「それでは、無理だな。俺は、俺たちは、富士山には登らない」


「・・・」


 マスターは、鍵を男に投げる。

 Hのマークが赤く重厚な鍵を男は受け取る。電子キーではない。昔ながらの鍵だ。


「行くの?まだ早いでしょ?」


「思い出した。寄って欲しい所がある」


「わかった。道案内をよろしく」


「あぁ」


 二人は、車に戻った。

 エンジンをスタートさせる。チューニングされたVTECエンジンが眠りから目を覚ます。重低音が響いて、SAからETCレーンを通って、街中に向かう。


 マスターの指示は、的確だ。

 何十年も来ていないのに、しっかりと道は覚えている。


 マスターは、時折、街並みを見て、寂しそうな表情をする。


「変わっている?」


「あぁ」


 マスターはそれだけ言って、前を見る。


「そのまままっすぐ」


 男が左ウィンカーを出した所で、マスターがまっすぐだと指示を出す。

 駅が近くにあり、車1台がすれ違える高架を潜って、バイパスに入る予定になっていた。


「あれ?ここを曲がって、バイパスに行くと思っていたけど?」


「行きたい所がある」


 マスターの指示は、道なりに進めという事だ。

 男は、指示通りに車を走らせる。


「マスター。バイパスには出ないの?」


「あぁ」


「次の信号もまっすぐだ。その次の信号を左に入ってくれ」


 男は、後ろに車が続いていることを確認して、前方で右折を待っている車を先に行かせるように、パッシングを行う。距離も十分なので、アクセルを抜いた。右折を待っていた車は、ゆっくりとした速度だが男が運転する車が来るまでには右折していった。


「八百屋は辞めたのだな」


「え?」


「なんでもない。次の信号は左だ。脇道に入ってくれ」


「わかった」


 車が脇道に入る。


「そこの脇道に入って、車を止めてくれ」


「わかった」


 マスターが無造作に1万円札を取り出す。


「来た道を戻ると、酒屋がある。そこで、地の日本酒が売っている。買ってきてくれ」


「・・・。わかった」


 男は、”マスターが行けば?”の言葉を飲み込んだ。握られた1万円札が揺れているのに気が付いたからだ。男は、マスターから3枚の一万円札を受け取り、車を降りる。

 マスターは、サイドミラーに映る男を見送ってから、シートを倒して目を瞑る。


 同じように、マスターは何軒かの店舗で、2-3万を男に渡して買い物を頼む。


 既に店を辞めてしまっている場所もあり、その場合には車を前に停めてから、頭を下げる。

 短い時間に、マスターが使った金額は、20万を余裕で越えている。


 車は、寂れた町に相応しくない綺麗な駅前に到着した。


 駅前の駐車スペースに車を停めて、マスターは同じように男に金を渡して、日本酒を残して、他の荷物を伊豆にある”とある施設”に送るように頼んだ。


「マスター!」


 男の制止の声を片手で受け流して、マスターは助手席から降りた。

 駅の切符の売店に向って歩き出す。駅舎には誰も居ない。無人駅ではないが、人が居る時間は限られている。


 駅の中を懐かしそうに眺めてから、車には向かわずに、近くの交番に向かう。


 マスターが行かなければならないと思い出した場所だ。そして、マスターが恐れている場所でもある。

 振るえる足を押さえつけて、下を向きそうになる視線を、背筋を伸ばすことで、前に向かうようにする。


 マスターは知っている。

 定年間近の警官が、この場所で、最後の奉公をしていることを・・・。

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