第六話 アメリカン・レモネード


 とある繁華街の雑居ビルの地下。

 バーシオンが今日も営業をしている。昼間に営業をしている変わったバーだ。


 カウンターに座る女性が飲み干したグラスをカウンターに音を立てないように置く。

 グラスを拭いているマスターの手元を見て、グラスをケースに戻したのを確認してから声をかける。


「マスター」


 マスターは、女性の様子から、”チェック”だと判断した。


「大丈夫です」


 マスターは、手元のメモに目を落としてから、女性に答える。


「そう」


 少しだけ意外そうな表情をする。

 女性は、足りないのではないかと思っていた。その場合には、チャージを含めて、2-3枚おいていくつもりだった。


「はい。朝倉さんがチャージしていきました」


 マスターが告げた名前を聞いた女性は、眉を顰めたが、すぐに表情を戻した。


「そうなの?」


 意外な名前がマスターの口から出たと驚いただけだ。


「はい」


「わかった。お礼は、マネージャーに伝える」


「はい」


「マスター。ごちそうさま。また来るね」


「はい。お待ちしております」


 マスターは、拭いていたグラスから目を離して、ドアから出ていく女性に声をかける。

 女性は、このバーでの時間を楽しんでいた。


「あっマスター。もし、マネージャーが来たら、『ワイン・クーラー』を、私からって出して」


 夜に紛れる商売をしているわけではない。

 女性は、名前を聞けば誰しもが知っていると答える人物だ。お忍びで、連れてこられた”バーシオン”を気に入って、一人でも訪れるようになった。


「お約束はできませんが、わかりました」


 女性が店から出ていってから、15分後に一人の男性が店に入ってきた。


「いらっしゃいませ」


 目線をドアに向けて、マスターが入ってきた男性を見た。

 問題がないと判断をした証拠だ。


「彼女は?」


「帰りました」


 朝倉と名乗った男性だ。

 マスターは、彼女からの伝言はもちろん覚えていたが、男性に出すつもりはなかった。


「ありがとうございます。マスター。私にも、なにか飲ませてください。バーには来ないので、カクテルがわからないので、マスターのおすすめで」


「かしこまりました。味の好みはありますか?甘いのが好きとか、アルコールは強いほうが好きとか」


 男性は、椅子に座りながら、少しだけ考える素振りを見せる。


「そうですね。甘くなくて、アルコールは弱い物で、あと、極端に酸っぱいものも苦手です」


「わかりました」


 マスターは、グラスを取り出す。

 レモンジュースとミネラルウォーターとシロップを取り出して、グラスに注いでステアする。一つの液体になってから、氷をグラスに入れてから、赤ワインを注ぐ。


「おまたせしました。アメリカン・レモネードです」


「綺麗ですね」


「ありがとうございます」


「そういえば、カクテルには、花言葉のように、意味があるのですよね?」


「はい」


「この、アメリカン・・・」


「アメリカン・レモネードのカクテル言葉は、『忘れられない』です」


「忘れられない。そうですか・・・。忘れられない。確かに、綺麗な・・・。そうですか・・・」


 男性は、グラスを持ち上げてから黙って液体を喉に流す。

 ゆっくりとした動作で、アメリカン・レモネードを飲み始める。


「マスター。美味しかったです」


 飲み干したグラスをコースターに置きながら男性は、マスターに感想を告げる。


「ありがとうございます」


 飲み終わったグラスを受け取って、代わりに水を満たしたグラスを置く。

 男性は、黙ってマスターが用意した水を一気に飲み干した。


「マスター。お代は?」


「以前に頂いた物があります」


「そうですか・・・。でも・・・」


 男性は、財布を取り出して、10枚の紙幣をカウンターにおいた。


「お預かり致します」


 マスターは黙って男性を見てから、10万円を受け取った。


「マスター。ここはいいですね」


「ありがとうございます」


「私たちのような人間には必要な場所です。どうやっているのかは聞きませんが・・・。いや、止めておきます」


 マスターは、男性をじっと見ただけだが、男性はなにかを感じて、話すのを止めた。

 立ち上がって、足元を数回、確認してから、ドアに向かった。


 ドアまで移動してから、男性は振り返ってマスターを見る。


 男性は、女性から”バーシオン”のことを聞いて、最初は反対した。調べてもいない場所に、看板女優が出入りするのは都合が悪い。マスコミに知られてしまえば、たとえ”やましい”ことがなくても、ミスリードさせられるような記事を書かれてしまう。

 男性が危惧していた事象にはならなかった。それだけではなく、男性が属する事務所は業界でも大手と言っても問題ではない。そして、表にも裏にも精通している。その事務所が、”バーシオン”を調べても何も出てこなかった。マスターを調べても同じだ。よく出入りしている男性を調べても、問題になりそうな物は何も出てこなかった。

 それこそ、綺麗に作られているような履歴だ。そして、それを嘘だと言い切れるだけの証拠を積み上げることができなかった。

 事務所が危惧した事象が発生しないだけでなく、”バーシオン”という妖しいバーなのに、マスコミ関係者や官僚関係者、裏稼業の者たちが出入りどころか、近づこうともしない。

 男性は、女性から話を聞いて、女性の飲食代を支払うという建前で、”バーシオン”に訪れた。


 そして、彼女が帰ったのを確認してから、”バーシオン”のドアを開けた。


---


 本当に彼女が言っていたように不思議な人だ。

 あの目で見られると、心の奥底を覗かれているように感じてしまう。


(忘れられない)


 マスターが作ったカクテル。たしか、アメリカン・レモネードという名前だった。


 カクテル言葉を聞いたときに、全てを見透かされているように感じてしまった。


 表通りに出て、客待ちしていたタクシーに乗り込む。夕方に差し掛かる時間だ。繁華街に入っていく人は多い。出ていく人は数えるほどしかいない。


 タクシーに目的地を告げる。

 事務所には、このまま帰ると告げてある。スマホを確認すると、何件かの着信がある。ドラマ関係者には、すぐに折り返す。


(ふぅ・・・)


 彼女が、あのバーに行くのがわかってくる。

 あのバーは、時間が止まっている。マスターの人柄なのか、それとも雰囲気なのかわからないけど、俗世とは違うことわりが働いているように思えてくる。ドアを開けると異世界だったと言われても信じてしまいそうだ。


 そうだ。

 マスターに渡された紙。ポケットに捻り込んだ。

 店を出るときに渡された紙には、彼女が”私に飲ませてほしい”とマスターに頼んだカクテルの名前とレシピが書かれている。カクテル言葉は書かれていない。自分で調べるしかないのか?


 ワイン・クーラー

 レシピは、難しくない。ロゼワインは、彼女が好きでよく一緒に飲んだ。懐かしい、忘れられない思い出だ。

 そのロゼワインがベースになっている。オレンジジュースとシロップとホワイトキュラソーを氷で満たしたグラスに注いで軽くかき混ぜる。


 これなら、私でも彼女のために作れる。

 そうだ。カクテル言葉!


 スマホで検索をする。


 え?

 誕生日カクテル?2月10日?私の誕生日?


 カクテル言葉・・・・。


(私を射止めて)


 彼女を事務所にスカウトしたのは私だ。そして、二人三脚で頑張ってきた。私の役職を上げて、彼女に他のマネージャーをつけるという話も断った。でも、彼女はすでに私がいなくても大丈夫になった。大女優とは言わないが、ドラマに欠かせない女優に育った。


 だから、私は自分の気持ちに蓋をした。

 彼女と一緒に頑張った、彼女と過ごした時間を、彼女の一挙手一投足を記憶した。そして、彼女の前から消えようと考えていた。


(忘れられない)


 自分の気持ちに嘘を・・・。


 私は、タクシーの目的地を変えてもらった。彼女のために借りた部屋があるマンションに・・・。

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