第5話 雨の味

 展示場を出ると、さっきまで晴れ渡っていた空はどんよりと曇っていた。この街では天気がコロコロ変わる。「一日に四季がある」と言われるゆえんだ。


「ねえ、しずか。このあと予定ある?」とピエトロが聞いた。ピエトロに「しずか」と呼ばれるたび、私の体温は少し上がる。あのとき教えた正しい発音をまだ覚えてくれていた。正しいのに、日本人同士で呼ぶそれとは少し違う。ピエトロが呼ぶ「しずか」は、なんというか、セクシーなんだ。


「コーヒーでも飲んでかない?」と言われて、私の体温はもっと上がる。赤面しているんじゃないかと心配なのを、気づかれないように「私、なんか食べたいな。お腹空いた」となんでもないように言った。ピエトロがまたクシャッと笑う。ピエトロの目尻のシワを、私はすでに愛し始めていた。


 近くのカフェでコーヒーを飲んだ。私はサンドイッチをたのむ。ピエトロがフライドポテトをたのみ、ボウルいっぱいに入ったポテトを二人で食べた。二人でいろんな話をした。とりとめのない話ばかりで、ラストネームは聞きそびれたけど、いつまでもずっと話していられた。トイレに席を立ったとき、外が真っ暗になってるのに気づいてびっくりした。


「雨が降り始める前に帰らなくちゃ」カフェを出て、今にも雨になりそうな空を見上げながら私は言った。二人で最寄り駅まで歩いて行く途中、ピエトロが私の手を握ってきて、私たちは手をつないで歩いた。


 ポツポツと降り始めた雨は、5分もしないうちに土砂降りになり、あわててレストランの軒下に駆け込んだ。ハンカチなんて持ち歩かない私は、前髪から滴る水滴を、手で拭う。見上げると、ピエトロも同じように、手で顔を拭っていた。


 軒下の狭い空間でぴったりと体をくっつけて立っていると、あのときみたいに、ピエトロの熱が伝わってきた。二人とも走っていたから、お互いの呼吸音が聞こえる。レストランの中からガヤガヤと人の声が聞こえて、雨の音に混じる。コンクリートの道が雨に濡れて、車のヘッドライトやお店の明かりをキラキラと反射していた。


「しずか」と耳元で名前を呼ばれて、息が止まりそうになる。見上げるとすぐそこにピエトロの顔があった。見つめあってから、唇を重ねる。ピエトロの唇についていた水滴が私の口の中に入る。唇をはなすと、二人の口から同時にため息がもれた。


 ピエトロが私の顔を覗き込むようにして、私の顔を両手ではさんだ。それからまたキスをする。ピエトロの舌が中に入って来て、私は舌をからめる。もっとピエトロのことが知りたいって思う。この場合、「知りたい」と「抱きたい」は同義だ。


 彼の胸に、鼻を埋めて匂いを嗅ぐ必要がある。舌で首筋をなぞりたいと思う。指で髪の柔らかさを確かめたい。私は、彼のことがもっと知りたいんだ。ラストネームなんかじゃなくて。


 頭で考えて決定することは、実はすごく少ないんじゃないかって思う。本当に欲しいものは、体が決める。私の体は、もうすっかりいろんな準備をしてる。ピエトロを抱き、ピエトロに抱かれるために。


「僕のところに来る?」いったん体を離してから、ピエトロが聞いた。私は答える代わりに、ピエトロの手を握って指をそっとからめた。


(つづく)

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