アフタークラウドの世界

不來舎セオドア

アフタークラウドの世界

統合都市シンセティック・シティTOKYO 至適暦パーソナル・デイト5.773a-9.8】


 目が覚めると、隣に昔の恋人がいた。こちらに顔を向けて眠っている。きっと、彼女の夢を見ていたのだろう。夢の内容が影響しているのか、記憶よりもやや中性的な顔立ちをしている。髪も少し青みがかっていて、途中まで組織化レンダリングが進行している下半身にはペニスらしきものが形成されているのが確認できる。乳房もおそらく小さくなっているのだろうが、実物を見たことがない小砂子こさごにはよくわからない。

 恋人の身体を構成する立体素ボクセルにコマンドを送ると、夢から現れ出た彼女は即座に立体素化ボクセレートされて薄灰色の大小さまざまな箱の集合体となった。さらにコマンドを送り、立体素を再組織化レンダーする。

 箱の群れは目まぐるしくテクスチャを変化させながら合体/分裂、集合/離散を繰り返し、やがて一〇匹のうさぎの形をとった。本物のうさぎにそっくりなものもいれば、目と口がそれぞれ〝о〟と〝γ〟のような文字コードになっているものもいるが、すべてに羊のような渦巻き状の角が生えている。始めは部屋の中を跳ねまわったり互いに毛繕いしたり角突き合ったりしていたうさぎたちは、やがて共食いを始めた。噛みつかれたうさぎは気持ちよさそうに目を細め、「えめめめめめ」と鳴きながら少しずつ体を削られてゆく。もくもくと口を動かしている方のうさぎは食べた分だけ体が丸く、大きく膨らんでゆく。食べ終わると、次の共食いがはじまる。そうして数が八匹、四匹、二匹と減っていく。最後に残ったうさぎがビーチボール大の球体となり、苦々しく「これまでか」とつぶやいて破裂すると、飛び散った立体素が部屋の壁、ベッドの脚、ベランダの欄干など、もとあった場所へ吸収され結合リンクする。

 自ら演出した愛くるしい殺戮劇の一部始終を見て満足した小砂子は、ベッドを抜け出しキッチンへ向かった。コーヒーを淹れながら天気をチェックする。終日すがすがしい、雲ひとつない青空のようだ。今日はミーティングの予定があるので、午前中には出なければならない。

 すでに職場の概念は過去のものとなって久しいが、小砂子の場合は例外だった。クラウド・パンデミックから三〇年あまりが経過し、高度な科学文明が維持されているのが世界各地の〈統合都市〉のみとなった現在、都市のあらゆるものを構成する立体素をアップデートし、ハッキングなどの考えられる種々の脅威から守るという重要な仕事は、いまだセキュリティ面の不安を拭いきれないために、閉ざされた秘密主義的空間──すなわちオフィス──を必要とする。

 立体素を動かすソフトウェアが、パンデミックの数年前、まだ「新鋭の天才プログラマー」と呼ばれる学生だった時分に単独で開発したゲーミング・プラットフォーム「BALI」を土台にしたものであることを考えても、自分以上の適任者がいないことは明白に思えたため、小砂子は通勤という旧態依然とした行為を甘んじて受け入れていた。それは、公共精神などからではなかった。もとより立体素は自分一人のためにあると感じてきた小砂子には、ほかの選択肢は考えられないというだけのことだった。

 コーヒーを飲み終えた小砂子はカップがテーブルに飲み込まれて結合されるのを見届けると、構築した玄関の扉を開いて、立体素の街へ繰り出した。



【東京都 首相官邸2階小ホール 令和二年二月二九日】


「人類はいま、かつてない危機に直面しようとしている」

 そんなパニックSFめいた直感を、実際に覚えることがあるのだな、などと、正面のモニターに映し出された画像を眺めながら菅藻すがもは考えていた。

 無数の黒い煙の球が集まった白黒写真。煙球と煙球の接する部分が、ところどころ発光しているかのように白く抜けている。目を凝らしてみると、球の内側にも同じように明るく光る糸状のものがあるのがわかる。隣には、写真をもとに作成されたらしい色鮮やかな3DCG映像が表示されていて、煙のように見えるものが、実際にはほとんど四次元的と思えるほどに複雑な形状をもつ膜状の構造体が絡み合って形成されていることを示している。

 手元に配られた二五ページ程度の資料の束の表紙には、「第三回クラウドウイルス感染症(CLOVID‐20)特別対策有識者会議」と印字されている。

「ご覧いただいているのは、先日クルーズ船〈クリスタル・マジェスティ号〉を下船し、現在は都内の医療機関で隔離中の罹患者検体から分離したウイルス粒子の電子顕微鏡写真です」と、会議の座長を務める国立感染症研究所所長が説明を加える。

「ご覧の通り、ヌクレオカプシドと見られる部分が非対称の複雑な形状をしております。また細胞侵入前の段階で核酸がカプシドを離れ、それを取り巻いている不定形の膜状の構造と結合・分離を繰り返すような特異な動きをしながら、共に形状を変化させているのがおわかりいただけると思います。この膜状の部分についてですが、目下のところ、通常のエンベロープとは異なる未知の構造体であること以外、何もわかっておりません」

 菅藻は感染者や感染状況にまつわるSNS上のデマの抑止法を思案する目的で会議の構成員に加えられた社会行動学者で、細菌学の専門家ではない。彼にわかることは、このウイルスが分類学上まったくの新種であること、そして顕微鏡写真の「煙の球」の集積が雲にも見えることから、〈クラウドウイルス〉と呼ばれるようになったということだけだった。

「えー、次に発生状況についてですが……」出席者たちが一斉に資料のページをめくる。「生態同様こちらも不明な点が多く、今月五日に〈クリスタル・マジェスティ号〉の乗客の集団感染が確認されたことが初の感染確認であるということ以外、発生源や感染経路に関する情報はありません。また船内、乗客の調査も継続して行われていますが、いわゆる第一号感染者ペイシェント・ゼロの特定にはまだ至っておりません。同一五日に米国がチャーター機で自国民を退避させたことを皮切りに、以降数日は各国が相次いで自国民の救出作戦を展開。その直後から、中国・欧米を中心とした各国で、同時に感染の拡大が確認され始めました。中国は感染者増加が確認された複数の都市を全面封鎖ロックダウンし、米国・EUでも医療機関の圧迫を食い止めるべく、極めて迅速に外出および移動の禁止措置を断行したものの、現在に至るまで感染の勢いが衰える様子はなく、各地で医療崩壊が避けられない状況となっております」

 再びページがめくられ、それを合図に菅藻もめくる。長い原稿を読み終えた座長が、呼吸を整えて続ける。「えー、それではここでいったん休憩を挟みまして、一五分後に再開といたします。それまでに各自、再度ご着席願います」


 トイレの手洗い場で背後から話し声が聞こえ、菅藻はとっさに蛇口を閉めた。出入口の両脇に立って、先ほどのクルーズ船の話に対する所見を述べあっているらしい。菅藻の位置からは鏡に映った一人分の後ろ姿しか見えない。ヘルスケア分野で国際事業を展開する企業の役員と紹介されていた男で、会議の構成員では菅藻に次いで若かった。話が少しも中断されることなく、得意げにジェスチャーを交えつつ話し続けているところを見るに相手は一人、おそらくは自分と直角に座っていた寡黙な経済学者あたりだろうと菅藻は想像した。

「最後に停泊してたのが香港の港だったりしたもんだから、例によって〝ミスター・プレジデント〟が中国の人工ウイルスだなんて言い出してる。まあヒトだけに感染する未知のエマージング・ウイルスとくればそう考えるのも無理ないかもしれないけど、乗客の集団感染が確認されたのは公海上でのことだし、それ以前に中国で感染者が確認されていたという情報もない。現状では名指しする根拠はゼロですね。アメリカも感染の拡大は中国と同時だったし、なんならもっと勢いがあったくらいだ」〝アメリカ〟と言ったタイミングで右に大きく突き出した腕を今度は左に曲げ、やや声を落として続ける。「フランスで医者やってる友人から面白い話を聞いたんですよ。さっきの感染拡大の話では、パンデミック化はクルーズ船からの乗客救出の直後とか言ってましたよね。でも、救出が始まる前の今月初旬の時点で、すでにフランス国内で感染者が確認されてたっていうんです。太平洋の真ん中にポツンと浮かぶ船でいきなり発生したウイルスが、人の移動もなしに一体どうやって遠くの陸地にまで広がるんでしょうね。何もかも未知数すぎますよ。アメリカもEUも結果はさっき聞いた通りですし、これじゃ人と人の接触を断つことが基本的な対処になり得るのかさえ、僕には疑問ですね」

 男の話はまだ続きそうだったが、休憩の時間が終わろうとしていた。菅藻は手洗い場を離れ、軽く頭を下げながら男の脇を通り抜けた。想像通り、話し相手は経済学者一人だけだった。二人は一瞬驚いたように菅藻を一瞥したが、すぐにまた向かい合って会話を再開した。


 全員が着席し、座長の合図で会議が再開される。結局、役員の男と経済学者は所定の時間に四分遅れて戻ってきた。

 会議終盤、特別対策有識者会議の提言として公表する内容を座長がまとめにかかる。

「結論としまして、えー、外出制限および移動制限措置の有効性は、現段階でまだ判断できる状態にあるとはいえません。今後も欧米各国の感染状況を注視しつつ、当面は有効なものと想定し、政府に対しては『人と人の接触機会を減らす』という感染症対策の基本原則に則った対処方針を固めることを提言し、また、感染者が急増している都に対しては、先日発令された〈東京特別エマージェンシー警報〉の継続を呼びかけるものであります」

 渦巻く黒雲を映し続けるモニターを、菅藻はただじっと見つめていた。



【統合都市TOKYO 至適暦5.742b-9.15】


 立体素のビル街を抜け、小砂子は街の北端に位置する統合都市管制センターへと向かう。統合都市で数少ない定形の、つまり立体素で構成されていない建造物である管制センタービルは真っ黒なガラス張りの直方体で、広い占有面積にも関わらず、いつもそこだけ何も存在しないかのような、捉えどころのない印象を与える。それとは対照的に周りの立体素のビル群は、絶えず受信する人々の脳信号に合わせてゆったりと流れ、呼吸するかのように生き生きと膨張・収縮している。街全体がゆらゆらと揺らいでいる様子は、まるで全てが水の中に沈んでしまったかのようでもある。

 幾多の立方体の、寄せては返す波のリズムが描き出す海底都市の風景を目にするたび、小砂子は少年時代のある出来事を想起した。


 それは小学四年生の、まだ一〇歳になったばかりの頃に参加した臨海学校でのことだった。漁業資料館の見学が終わってツアーバスへと戻る途中で(きっとわざとに違いないと小砂子は思ったが)自動販売機でジュースを買っている間に、班をまとめる上級生たちのグループとはぐれてしまった。小砂子はとりあえず海岸沿いの国道に出ることにした。誰か親切な人が車を止めてくれるか、または乗るはずだったツアーバスが運よく通ってくれるかもしれないと考えたのだ。

 小砂子は波の音がする方へと、高い草が生い茂った急な斜面を駆け下りていった。下まで降りて目の前の茂みを両手でかき分けると、港が見えた。そこで目にしたものは、まるで天啓のように、小砂子のその後の人生の方向を定めることになった。

 やや沖に出たところで横一列に並んだ、何隻ものコンテナ船。赤、黄、青の原色に塗り分けられた同一規格の直方体は積載量いっぱいまで積み込まれ、小砂子の位置から見ると、その一個一個がゲームのブロック、あるいはゲームの画面を構成する画素ピクセルのようだった。貨物船の一群は日が傾き始めた大海原に、その雄大さを嘲笑うかのように鮮やかな平面のピクセル・アートを描き出していた。

 あたりが暗くなり港が静まり返った頃、担任の教員の呼ぶ声が聞こえた。バスはまだ発車していなかった。担任からは、なぜはぐれた場所で待っていなかったのかと叱られ、待ちぼうけを食らったクラスメイトと上級生たちからは、揃って罵声と白眼で迎えられた。最前列の座席で丸めた背中にスナック菓子の欠片を浴びながら、小砂子は自分だけが知っている港の風景に酔いしれた。



【東京都 中央合同庁舎第5号館 令和二年五月九日】


 天啓が降りた。

 感染経路の謎を埋める最後のピースを見つけ、菅藻はラップトップに齧りついて会議で発表するための資料をまとめていた。





 八日前、米国国立衛生研究所(NIH)と三大学からなる研究チームがウイルスの生態に関する査読前論文を発表したことを受けて、第一二回対策会議が緊急招集された。構成員は、全員が目に見えて疲弊していた。WHOがパンデミックを宣言してからの二か月間、感染は爆発的に拡大を続けていた。死者の数は全世界で二七〇〇万に到達し、すでに黒死病と比較される人類史上最大規模の疫病災害へと発展していた。社会距離拡大戦略ソーシャル・ディスタンシングは明らかに効果を上げていなかった。だが、それ以上に専門家たちを当惑させていたのは、圧倒的な致死率だった。無症状のケースや自然治癒が認められたケースはこれまでひとつとしてなく、比較的若く持病のない患者では症状回復の兆候が見られることがあっても、常に一時的なもので、すぐに再び悪化する。一度感染すれば、(闘病期間に多少の差はあっても)結果的には必ず重症化して死に至るのだ。当然、集団免疫戦略は問題外だった。

 論文によって明かされた新情報は、不可解かつ荒唐無稽であると同時に、それまでに判明していたウイルスの特性から推論すれば至極当然と思えるものだった。クラウドウイルスは、未知のネットワークのようなものをもつウイルスだというのだ。宿主の体内から別の宿主の体内へとウイルス粒子同士での情報交換が可能で、さらには空気や血液といった媒介を必要ともせず、デジタル情報をクラウドで共有するように身体から身体へ直接伝送されるウイルス。感染者を物理的に隔離しても、健康な人間が遠隔で「呼び出す」ことによって感染が拡大する病原体。見た目の第一印象で付けられたクラウドウイルスという名称が、実はその特性を極めて的確に言い当てていたというのだ。ウイルス・ネットワークの存在の決定的な裏付けとされたのは、患者臨床検査において確認された、全地球規模の突然変異現象だった。世界各地の医療施設の、全ての患者検体内で、同時に発生した、同質の突然変異。論文はこの怪現象を、『一時的な回復状態にある患者が獲得した抗体を無効化すべく変異したウイルスが、ネットワークを通じて〝同期〟を行った結果である』との仮説を打ち立てた。そして、クラウドウイルスは免疫の獲得が事実上不可能であり、したがって将来にわたり有効なワクチン開発の望みはまったくないとの結論を出した。

 このようなウイルスが発生するに至った経緯は、完全に専門家の理解を超えていた。ウイルス学を牽引する最高権威らがいくらひたいを突き合わせても、「人間がデジタル技術を通じてアイデンティティを拡張したことを受けて、ウイルスも独自のネットワークを構築して自らを拡張することでそれに対抗した」という子供じみた擬人観的類推をひねり出すのが精一杯だった。『ウイルスIT革命論』を認めることはすなわち、人類がウイルスという存在に対して持つ理解が、微生物ではなく毒素の一種と考えられていた百年の昔からまだ少しも進歩していないという事実を受け入れるということだった。それは大変な屈辱であるに違いなかったが、各国の研究者はウイルスの「呼び出し」条件、およびウイルス・ネットワークの正体(そしてあわよくば、それを遮断する方法)を解明するという新たな目標を設定することで、前進への決意を固め合っていた。一方で菅藻は、このネットワークは「Vi-Fi」と呼ばれたりするのだろうか、と考えていた。


 米国研究チームの発表があった日の翌日の朝、合同庁舎5号館一階ロビーで菅藻がいつものようにニュースアプリの「CLOVID‐20」タブで新着記事を流し読みしていると、ある記事が目に留まった。



[インドネシア孤立部族に全滅の危機か]


 人権擁護NGO「グローバル・ピース・フロンティア」発表:

 インドネシアの全域にわたって複数の孤立部族内でCLOVID‐20による死者を相次いで確認。対応が追いつかず、今後数日~数週間以内に大量虐殺(ジェノサイド)の発生が懸念される状況。

 以下は、現在までに確認されている主な非接触部族の全滅危険度を三段階評価に分類してまとめたものである。


 ▽危険度──高(多数の感染者を確認):アスマット族、ダニ族、ヤリ族

 ▽危険度──中(少数の感染者を確認):コロワイ族、コンバイ族、ブトゥン族

 ▽危険度──低(感染者なし):ユプ族



 菅藻の注意を引いたのは末尾の一行だった。ユプ族のことは、以前に文化人類学の文献で読んだことがある。二〇世紀初頭、バリ島沖を震源とする大地震が発生し、島内沿岸のユプ村を大津波が襲った。村ではそのとき、奇しくも疫病を祓うための憑依舞踊の集団儀礼を行っており、全村民がトランス状態にあった。村人の大半は村と共に海の底に沈んだが、幸運にも生き残った者はトランス状態が解かれないまま、押し寄せる水と自己が一体化する感覚に囚われ続けた。自分は水であり、そして他者も同様、やはり水なのだった。自己と他者の区別は消滅し、全てが水となった。これは、従来の「水の信仰」とは一線を画す。彼らは水神を崇めるために祝祭の場を設けたり、碑石を建てたりすることはしない。ただ人であることをやめ、水そのものになったというだけなのだ。乾季には木陰で石のようにじっとうずくまって過ごし、雨季になれば体をくねらせ、激しくのたうち回りながらあちこちへ跳ねる。信仰というよりはむしろ、あらゆる信仰の拒絶、そして、あらゆる社会的な役割、作法、伝統、常識の拒絶だった。基本的な生存本能にさえ従わない彼らの生き方は多くの死を招いたが、死にまつわる畏怖の念さえも捨てた彼らには、それを恐れる理由はなかった。この世で最もありふれた水という存在と一体である彼らは、どこにあっても常に楽園の中にいる。共通の言語や文化を捨てた集団である彼らは本来の意味での部族ではないが、便宜上の理由から、いまはなき故郷の村の名で呼ばれることになった。

 ユプ族から出発した菅藻の思考の列車は、途中で二、三度大きなカーブを描き、ふた月ほど前に官邸のトイレで立ち聞きしたヘルスケア企業役員の言葉に行きあたった。

『クルーズ船乗客の救出が始まる前の段階からすでに、国内で感染者が確認されていた』──

 菅藻に啓示が下ったのはまさにそのときだった。救出作戦の決行前、世界中の人々は、テレビからひっきりなしに流れてくる乗客たちの安否情報に釘付けになっていた。その中には、遠い海の真ん中で命の危機に陥っている相手に、より一層強い想いを寄せる者もいただろう。もし、その想いの強さこそが感染を広めていたのだとしたら……?

 菅藻は慌ててカバンから有識者会議の構成員名簿を取り出し、役員の男の連絡先を調べた。このとき初めて、菅藻は自分が男の名前を知らないことに気がついた。男は橋間はしまという名だった。

 橋間に送ったメールは『例のクルーズ船の関連で相談したいことがあります』というだけの短く曖昧な内容だったが、すぐに返事があった。返信メールには、できればコミュニケーションアプリでやり取りがしたいという提案に加え、彼のプロフィールページへのダイレクトリンクが添えられていた。構成員同士の連絡はセキュリティ上の観点から、原則あらかじめ割り当てられた専用のメールアカウントを通じて行うと決められていたが、菅藻は承諾することにした。形式や決まりごとにこだわるときではないように思えたし、それに自分がこれから持ち掛けようとしている相談事は、有識者会議構成員の立場から想定される範疇を完全に超えていた。

 菅藻はメールに添付されたリンクを開いてアプリを立ち上げると、橋間を〈友達〉に追加した。彼のプロフィールページの背景写真は、どこかの南国の海辺で現地の人々と一緒に撮ったらしい集合写真だった。地域までは判別できなかったが、菅藻は写真で見たユプ村の風景を再び思い起こして重ね合わせていた。橋間の服装から判断するとビジネスではなくプライベートな観光のようだったが、かといって南国の風土に馴染んだ格好というわけでもなく、現地人の老若男女に囲まれて立つ橋間はまるでタイムトラベラーのように見えた。菅藻はトーク画面を開き、メッセージを送った。

〈早速のお返事ありがとうございます。プロフィールの写真、素敵ですね。バリ島ですか?〉

すぐに既読がつき、一分ほどで二つのメッセージが返ってきた。

《うわ、惜しい! レンバタ島です。年に二、三回、ダイナマイト漁で壊されたサンゴの移植に行ってます。前回は地元漁師にガラス瓶から爆弾作る方法まで教わっちゃいましたよ(笑)》 《これから紀尾井町で遅めの朝食なんですけど、近くにいるなら一緒にどうですか?》

不意の誘いに、菅藻はまたしても面食らった。都内の飲食店は都知事が新たに発令した〈首都圏緊急アラート〉の要請に従って営業を自粛しているし、接触を避けることが感染防止にならないことを承知のこととはいえ、タブー視するムードを破ってまでの〝不要不急の会食〟は躊躇うべきであるように思われた。だが、せっかくこうも早く話が進んでくれているときにみすみすチャンスを逃すべきではないと思い直し、〈私もちょうど食べようと思ってたところです。ちょっとかかると思いますけど、すぐに向かいます〉と返答を送った。


 橋間が指定したのは、高層複合ビルとそれに隣接するホテルを繋ぐペデストリアンデッキ沿いに佇む小さなカフェだった。入口の灯りは消えていたが、中に入ると奥の方では温かい照明が木製のアンティーク家具や壁の本棚に並ぶキャンバス地のカバーのかかった分厚い洋書、魚の彫り物、釣り竿やボトルシップなどを照らしていた。橋間のほかには客は誰もいなかった。橋間は、ほんの数か月前まで毎日大勢のビジネスマンが行き交っていた大通りの交差点を見下ろせる窓際の席でレモンティーを飲んでいた。

 菅藻が席に着くなり橋間はカップを置いて、例の腕を大きく振るジェスチャーを交えながら「洒落たところでしょ? 前はレコードもよくかけてたんだけどね」と言った。

「よく開いてるところがありましたね」

「いまだけ特別にね。オーナーと仲良くなっておけばこんなときに便利ですよ。〝こんなとき〟がそうそうあっちゃ堪らないですけど」

 菅藻は愛想笑いを浮かべながら、さっさと本題に入ってしまいたい気持ちを押さえて部屋を見回し、左後ろのカウンター脇に置かれたラッパの大きな蓄音機を認めた。

「なるほど、古そうな蓄音機がありますね」

「それで、クルーズ船の話ってなんです?」

唐突に相手の方から切り出され、背を向ける格好で体をひねっていた菅藻は思わずビクリと大げさに飛び跳ねてしまった。菅藻は取り繕う気持ちも消え失せ、恥を承知で橋間の話を立ち聞きしていたことを白状した。橋間は立ち聞きについて咎めるかわりに「そんな話したっけかな」と言って首を捻った。

「二月の終わり頃ですよ。ほら、クルーズ船の乗客救出の後で開かれた会議のときの……」

 それを聞いても橋間はまだ何も思い出せない様子だったが、「スライドを見て、資料の読み上げをずっと聞いてた日……」と付け加えた途端に手をポンと打った。

「ああ! あのとき、いきなりトイレから出てきた人か」

〝いきなりトイレから出てきた人〟という覚えられ方もあるのだな、と菅藻は思ったが、そろそろ本題に入ることにした。

「それで、相談っていうのは、フランスで医師をされているというあなたのご友人に連絡を取っていただきたいんです。〈クリスタル・マジェスティ号〉乗客の救出前に感染していたという患者について、詳しく調べるために。それも、必要になるのは病状の進行や基礎疾病の有無といった医学的な情報ではなく、もっと個人的な情報──たとえば名前とか、交友関係とか、趣味とか……」

橋間はゆっくりと腕組みしながら深く頷いた。「なるほどねえ、わかりました」

 一笑に付される覚悟でいた菅藻は、それ以上何も聞き出そうとしない橋間の態度に呆気にとられた。「いいんですか、本当に?」

「はい、もう大体わかりましたから。人と人を結ぶ連帯感情、あるいは集団意識グループアイデンティティ──それがウイルス・ネットワークの正体なのだと、あなたはそう考えている」

「ご明察です。本当に驚きましたよ。洞察力にもだけれど、まさかこんな突拍子もない話に真面目に取り合ってくれる人がいるとは思わなかった……」

「でも、まあ、この仮説が正しいとすれば色々と辻褄が合いますからね。アメリカで感染者が急増した時期は、大統領がSNSで『CHINA VIRUS』の文面を含んだ投稿を発信したり、人工ウイルス説を支持する内容の会見を開いたりしたタイミングとピッタリ重なる。ウイルスの発生源に関わる情報を何ひとつ公表できないでいるWHOに不満を募らせたアメリカ国民の怒りの矛先は、自国第一主義アメリカ・ファーストを掲げる大統領閣下のお導きによって遥か太平洋の彼方、地球の反対側に設定された〝敵国〟に向けられたというわけです」

「そして、それに対する中国政府の反発が引き金となり、中国でも感染者が増加した。アメリカでは反中感情・反移民感情が高まって、互いに反発し合う政治的集団や民族的集団が国内のあちこちで形成され、国民の分断が進み……最終的に、国家規模の感染爆発オーバーシュートに発展した」

「さすが、学者先生は違いますね。彼女──僕の友人はフランス語しかできないから、僕の方から話しておきましょう。詳細は覚られないように、なんとか上手いことやってみますよ」

 話しているうちに菅藻は、自分とはまるで性格の違う橋間に対して、不思議と波長が合っているような印象を受けた。有識者会議の中でどこか居心地の悪さを感じている者同士という共通点はあるが、それだけではない。別に悪いこととは考えていないが、菅藻は自分の思考が時折、内省的になりすぎると自覚している。絶えず周囲と交信し、情報のやり取りを行っている橋間とは大違いだ。処理機プロセッサ送受信機トランシーバ──自分と橋間は、組み合わることで完成したシステムを形成する二つの装置部品モジュールであるように、菅藻には感じられた。

 菅藻は注文したブレンドコーヒーとサンドイッチを平らげると、もう少ししてから出るという橋間に礼を言って、カフェを後にした。


 それから四日後の夜、橋間から知らせがあった。結果は、菅藻の予期した通りだった。橋間の友人が医師同士の横のつながりのネットワークを通じて突き止めたフランス国内の最初の感染者は、〈クリスタル・マジェスティ号〉船上で感染した乗客の友人で、救出の前から動画共有アプリなどで頻繁に連絡を取り合っていたことが判明したのだ。

 橋間は最後に、再び短いメッセージを二つ立て続けに送っていた。

《歴史的大発見ですね! おめでとうございます》 《どっちかっていうと発見したのは僕な気もするけど、この手柄は学者さんにお譲りしますね》





 そして現在、夜も更けて人気のなくなった合同庁舎5号館一八階の一室で、菅藻は一人残ってキーを叩き続けている。泊りがけの作業は、もう三日目に突入していた。菅藻には家庭があったが、妻子との連絡は極力控えていた。毎日、何度もコミュニケーションアプリの家族用グループトーク画面を開き、そのたび互いの安否を確認したい衝動、そして何よりも自分を支えてくれる言葉をかけてもらいたい衝動に駆られたが、どうしてもリスクを冒す気になれなかった。

 菅藻はひと息ついて椅子の背もたれを倒すと、ポケットからスマートフォンを取り出してSNSアプリを立ち上げた。タイムラインは先月から変わらず、総理が自身のアカウントにアップロードした、人気ミュージシャンの新曲に合わせて自宅でくつろぐ映像の是非をめぐる議論で埋め尽くされていた。当の総理は、つい数日前に「人と人の絆の力によって、必ずやウイルスの恐怖を打ち負かすことができる」と国民の団結を求める声明を各メディアに向けて出したばかりだった。事態は刻一刻と確実に、悪化の一途を辿っていた。

「タローさん、お疲れ」背後から呼ぶ声に菅藻が振り向くと、部屋の入口に橋間が立っていた。タローというのは本名ではなく橋間が付けたあだ名で、〝トイレの太郎くん〟から取ったものだった。

「差し入れですか」

「もっといいものですよ」と橋間が、肩に下げたバッグから引っ張り出したクリアファイルを菅藻に手渡して言った。中身は国別に項目分けされた折れ線グラフや表、そしていくつかの外国のニュースサイト記事を印刷したもののようだった。

「ウチの韓国支社に韓国医師会に通じてるのがいたから、EUの方を引き続き僕の友人に調べてもらうのと並行でお願いしてみたら、見事にビンゴってわけです」

折れ線グラフの下部では無数の青や緑やグレーの線が何度も複雑に交差しながら緩やかなカーブを描き、その上では長い空白を挟んで、赤とオレンジの二色の線が真っすぐ右上に向かって伸びていた。まるで海の上を飛ぶ二羽の鳥のようだ、と菅藻は思った。

「現時点で確認済みの、〈クリスタル・マジェスティ号〉乗客救出作戦が決行される前の週の各国国内感染者数の推移です」橋間が説明を加えた。

「スペインと韓国の数が多いですね」

「その通り! そこで、この時期に発行された両国のニュース記事を漁ってみたら、なんとなんと、乗船客にスペイン人俳優と韓国人シンガーがいるじゃないですか。日本にいると、やっぱりこういう情報は聞こえてこないもんですねえ。このへんてこなウイルスはどうやら、友情や家族愛より『いいね』の方がお好みらしい」そう言うと橋間は、部屋の隅に置かれた衛星放送のニュース番組をミュートで流し続けている液晶テレビの方に顔を向けた。「クラウド禍はどうも人間の本性をあぶり出すようですね。とにかく欧米人はせっかちだ。外出禁止措置に効果がないとわかった途端、反対デモに街頭パフォーマンスでクラスター作って……アメリカはもうWHOを脱退するって噂ですよ。みんなもう少し落ち着けないもんかなあ」

「日本人だって、表出の仕方が違うだけで、似たようなものですよ」菅藻がため息交じりに反論する。「メディアが扇動すれば誰もが右へ倣えで監視の目を光らせて、〝自粛警察〟クラスターが次々に誕生する。いたずらに死者を増やしているという意味では、どちらも一緒です。人間という生き物は他者と同質性を共有することを欲するし、同質性を共有する他者と集団を築かずにはいられない。これは私が専門とする学問の基盤です。『集団を形成しないでください』と呼びかけることは、『集団を形成させない集団』を形成させる結果にしかならない。言葉を媒介とするウイルスに対して現実的な予防方法なんて、ありっこないですよ。他者と何も共有できないような空間を作ってしまう以外には……」

「他人との認識の共有を遮断……何年か前に、そんなゲームがニュースになってましたね。何か、島の名前がついてたはずです。ご存知ありませんか?」

「いや、そっちの方面には疎くて」

「それなら後で調べて記事を送っておきますよ。それにしても、『共有』が感染の源なんだったら……」橋間はいったん言葉を切り、バッグからステンレスの蓋つきタンブラーとサンドイッチの入った錨のロゴ入りの紙袋を取り出して、菅藻の前に置いた。「僕らも、これ以上の〝濃厚接触〟は控えた方がいいのかもしれませんね」



【統合都市TOKYO 至適暦9.08e-15.66】

 

 統合都市管制センターのメインコントロールルームを出た小砂子は、エレベーターに乗りラウンジへと降りて行った。ラウンジは職員の休憩用に整備された特別な区画で、建物内でもここだけは外の街と同様、基本的なインフラ設備以外は立体素で構成されている。  

 トイレが設置されたエリアに到着した小砂子が壁を構成する立体素にコマンドを送ると、瞬時に入口のレンダリングが完了した。小砂子は小便器の前に立つと、いつもそうしているように、まず自分の周りに立体素のフィルターバブルを築いた。誰からも見られる心配がなくなると、服を脱ぎ捨てて丸裸になり、次に殻の内側の立体素にコマンドを送って、排泄のための専用空間の形成に取り掛かる。レンダリングが終わると、殻の内側は乳白色に淡く光る滑らかな壁になった。手を前に出して軽く押してみると、押した部分が水を入れた風船のような感触の膨らみになって押し返してくる。あちこちに膨らみを作っては手の平で叩いて波立たせることを少しの間続けてから、触感テクスチャを変更すると、今度は粉雪のような触り心地になった壁に両手の指を深く突き立てる。えぐられた壁はさらさら音を立てて足元に崩れ落ち、指の跡がくっきりと残った。さらに手のひら全体で鷲掴みにして思い切り揉んでみる。壁は掌紋の細かい溝のひとつひとつにまで入り込んでくるほどきめが細かく、実際にそんなことはないとわかっていても、小砂子は爪の先から血管の中へ立体素の一部が流れ込んでくるような錯覚を覚えた。立体素と一体になる感覚に浸りながら、小砂子は排尿を始めた。それに合わせて小砂子を囲む壁も淡い白から濃い桜色に変わり、花の蜜をたっぷり吸った蟻の腹のように四方からゆっくりとせり出して、小砂子のつま先、内股、そして肛門の周りを、柔らかく包み込んでいった。


 服を着て殻を解くと、入るときに形成されていたはずの入口が消えていた。おそらく、入口を構成していた立体素がほかの職員のコマンドを受信して再レンダーされたのだろう。殻の中に入っている間も入口の立体素は小砂子のコマンドを受信できる範囲にあったし、立体素は通常、一定の範囲内で受信するコマンドの擦り合わせを行い、互いに矛盾が生じないように〝共有されない共有基盤コモン・ノンコモン・グラウンド〟を割り出した上で、多義的な構造体としてレンダーされるのだが、それでもこうした動作上の不備が時々発生することは避けられない。

 小砂子が再び入口を構築すると、正面に職員が二人立っているのが見えた。小砂子は被膜化マスキングの設定を「広告被膜アド・マスク」、広告ジャンルを「すべて」に設定して職員たちに被膜マスクをかけるコマンドを送った。すると周りの床や壁を構成する立体素の一部がすばやく二人の職員を包み込んで、長身の男とアニメ調の少女キャラクターに変身させた。男は黒いフード姿で、先端がヘアピンのように丸くカーブした、剣とも刈り込みばさみともつかない武器を携えている。少女の方は左手首に無数の傷痕があり、黒と銀のグラデーションになったぼろ服を着て、虚ろな目でこちらを見つめている。少女のかすれ声の挨拶で、広告同士の掛け合いがスタートした。

「はーい、グロんちゃー。人造ヒト型リストカット系マグロの海色96号ちゃんクロ。今日は期待の新作ダークファンタジー『魔馘まかくのブーシェ』から特別ゲストをお迎えしてるクロよー。さっそく紹介グロ! えーと、なになに……『第一次魔術囲い込みマジカル・エンクロージャーで農地を奪われ、愛する家族を失った小作人のマックスは、農具を改造した可変式携帯断頭機ハンドギロチンを手に、魔女貴族を一人残らず斬首すべく、処刑人〝ル・ブーシェ〟と名を変え復讐の旅に出る』……? なんか色々混ざってる気がするクロね……大体、何世紀の設定グロ?」

「娘よ、その腕の傷は誰に付けられた? 賊か? まさか、魔女貴族に?」

「いや、魔女貴族が何か全然知らんけどこれは自分でやったクロ。赤身、食うグロか?」

「時に娘よ、このあたりで魔女を……むうっ、首にも傷があるではないか! まさかそれも自分で?」

「これはエラ」

「首にそれほどの深手を負って、なぜ生きている!? さては貴様、魔女だな!」

「人造ヒト型マグロ96号だクロ。海色水産の養殖タンクから逃げてきて、ずっと一人ぼっちなんだクロ……」

「問答無用! 祓魔農法・冬の畑──三圃式──重量有輪犂‼」

 男が武器をひと振りすると中心から二つに割れて展開し、先端のカーブした部分が少女の首を挟み込む。次の瞬間には、間欠泉のように勢いよく吹き上がる血飛沫に飛ばされて、頭部が高く舞い上がっていた。宙に弧を描きながら興奮した調子で「解体!? 解体してくれるグロか!?」と叫ぶ少女の頭部を仰ぎ見つつ、小砂子はAI仕立てのポップアイコンの間をまっすぐ通り抜けた。すぐ目の前を通る小砂子のことを、被膜の裏に隠れた職員たちは少しも気にかけない様子だった。おそらく彼らの方でも、小砂子に被膜をかけているのだろう。被膜は裏面のみ透明度が高く設定され、音響も高度な指向性をもつので、かけられた側は基本的にそのことに気がつかない。

 切断された首から吹き上がる血はいつの間にかチョコレートソースに変わって足元に生暖かいクリーミーな沼を形成し、少女の頭部は小砂子の正面の少し離れた位置に着水した。小砂子はそのまま足を止めることなく、水面に浮き上がってきたチョコバーのレビューを始めた生首の横を通過した。広告は個人の好みに基づいて生成・選出されるが、小砂子は最初から広告の内容などには関心がなく、時折こうして広告被膜をかけるのは、AIが雑多な広告内容を限られた被膜領域の中に一度に織り込もうとするときに繰り広げられるちぐはぐな寸劇を笑うためだった。

 だが、普段ならすぐに消えてしまうはずの笑いの発作がこのときは後頭部に溜まり、首筋に刺すようなむず痒さを残した。小砂子は、朝方のことを思い出していた。ベッドに横たわる、学生時代の恋人の姿。あれもこの二人と同様、自分の夢が紡ぎ出した被膜だ。被せる相手をもたない、恋人の抜け殻……





 小砂子の人生において最初で最後の恋人との、ほんの数か月の短い交際がはじまったとき、小砂子は新星プログラマーとして(顔や本名は伏せていたものの)全国的に知られた存在だった。大学入学直後、退屈な一般教養の講義を適度にサボることで得た余暇に作ったゲーミング・プラットフォームがネットの口コミで広まり、一躍時の人となってから二年あまりが過ぎた頃だった。

 小砂子の開発したプラットフォームは、表層的なレベルでいえば非常にシンプルなものだった。それは拡張現実(AR)の技術を応用したもので、カメラとヘッドマウントディスプレイの二つのハードウェアを用いる点では従来のARゲームと同じであったが、プレイヤーのいる現実空間に対するアプローチの仕方が大きく異なっていた。カメラが捉えた現実空間の像の上から予め設計された図像を重ね合わせるのではなく、現実空間の像そのものを解析スキャンして、それを基にプレイヤーが任意に再定義可能な要素で構成される〝情報化された鏡像空間ミラーワールド〟をリアルタイムで作成する。つまり、プレイヤーの前に広がる現実の風景を、体積素ボクセル(VOXEL)の〝箱〟の連なりからなる風景──少年時代の小砂子が目にした港の風景──に置き換える。プレイヤーは眼球運動や指先の微細な動きによってメニューを呼び出して〝箱〟の集積にコマンドを送り、自分の周りの空間や物をカスタムして最適化パーソナライズすることができる。プレイヤーによって最適化されたAR空間は〈島〉と呼ばれ、〈島〉の構築パターンはアーカイヴ化されて、AIによって学習される。ゲームを続ければ続けるほど〈島〉の構築にかかる手順は少しずつ簡略化されてゆき、プレイヤーはAIが覚えた自分好みの空間をガイドにすることによって、僅かな指の振動だけで驚くほど大胆かつ自在に空間を再構築することができた。

 記録されるのが体積素の配置データではなく、プレイヤーのコマンド入力パターンであるという仕様は、プレイヤー間での〈島〉の共有が不可能であることを意味していた。体積素は固定されることなく、常に個々のプレイヤーの構築パターンに合わせて流動する。したがって自分の構築した〈島〉は自分だけのもので、ほかの誰も見ることはできない。かみ砕いた説明を求められたとき、小砂子は砂場遊びの喩えを使った。完成した砂の城が〈島〉なのではなく、砂を固め始める前に心の中で思い描いた理想の城のイメージが〈島〉なのだ。この点においても小砂子のプラットフォームは、ユーザーが箱庭サンドボックスの中で組み上げた構築物ストラクチャーをネットワーク上で不特定多数のユーザーと共有することを前提とする既存のゲーミング・プラットフォームとは根本的に性質の異なるものだった。

 時間をかけた分だけ心の理想空間が確実に具象化されてゆく体験を味わわせてくれる小砂子のプラットフォームはたちまち注目を集め、小砂子の元には国内外複数のソフトウェア開発大手から独占販売権購入のオファーが舞い込んできた。金銭的成功に元来関心の薄い小砂子は、最も早くコンタクトを取ってきた企業にろくに交渉もしないままあっさりと権利を売り渡したが、マーケティング部が提案した、名称を「GalapagOS」に変更するという案だけは強く拒み、結局プラットフォームは小砂子が考案した元の名称のまま流通されることになった。

 Box Augmented Local Interface──縮めて「BALI」。


「BALI」が世間に広く知れ渡り、その生みの親としての名声を手に入れてからも、小砂子は学生生活を送り続けていた。「BALI」の制作という実績の前では学位の取得など大した意味をもたないことは十分に理解していたが、鬱屈した中高時代の経験が「大学生」という肩書に、かえって手放しがたい響きを与えたのかもしれない。だが、ほかならぬその肩書が自分を取り巻く人々の目に耐え難い白熱灯のような輝きを帯びさせたことで、小砂子は一層他人を避けるようになり、元より乏しかった交友関係はますます途絶えていった。

 大学三年生の秋口ごろ、小砂子はふと、学内サークルの会合に顔を出してみようと思い当たった。ちょうど各サークルは三年次編入の学生を勧誘するため、連日説明会や歓迎会を開いていた。そうして三番目に参加した映像制作サークルの歓迎会で、小砂子は恋人に出会った。小砂子同様に彼女も編入生ではなく、大学院修士課程の一年目だった。趣味の話題で意気投合し、会話を続けているうちに、小砂子はそれまで他人との会話で一度も感じたことのない不思議な感触を覚えた。彼女には、「他人」の存在を感じさせるところが少しもなかったのだ。彼女は小砂子の言葉のひとつひとつに、必ず小砂子の想定通りの反応を返し、彼が最も苦手とする咄嗟な気まぐれや、気分の揺らぎといったあいまいさを一切見せることがなかった。小砂子は彼女を、自分好みにカスタムされたコンピュータ端末のようだと思った。彼女との会話は、複雑に絡み合った有機物のうねりではなく、単純な信号のやりとりだった。それは、SNSの普及によりウェブ空間に〝個人〟の存在が浸透する以前の、オンラインコミュニティ上のやり取りにも似ていた。そして実際に、小砂子は彼女とそうした匿名的コミュニティで交わされるような、定型文を主体としたやり取りを頻繁に交わした。〈彼〉と〈我〉を分ける2階調スレッショルドフィルタのしきい値が0になった、一面真っ暗な〝おまえら〟だけが広がる洞穴。その洞穴を根城にする〝荒らしトロール〟たちの生臭い口から発せられる、ありとあらゆる露悪的な冗談の数々に──中には女性蔑視的なものがあったにも関わらず──彼女は澄み渡った夜空のように深い蒼色の声で、小さく笑って応えた。その声は小砂子のざらついた心を、ほかのどんな音よりも落ち着かせた。


 恋人との交際が始まってから二か月が過ぎた頃、小砂子は「BALI」の販売権を売ったソフトウェア開発企業から一本の電話を受け取った。インタビューの依頼なら断ろうと思っていると、どうも様子が違う。ある一家から、子供が「BALI」によって脳の機能に障害を被ったという訴えを起こされており、近日中に弁護団と面談の打ち合わせをしてほしいのだという。

 訴えの内容は、次のようなものだ。一家は一年半ほど前、小学生の長男のために「BALI」を購入したところ、当時三歳の次男がいたく気に入った様子だったので、次男用に別途デバイスとアカウントを購入。その後、次男は次第に現実世界よりも「BALI」の〈島〉の方に強い愛着を示すようになり、ついには〈島〉の中の母親を本物の母親と取り違え、現実の母親の顔を認識できなくなるまでに至った。

 小砂子の頭に真っ先に浮かんだのは、「ゲーム脳」という言葉だった。かつて定期的に新聞やワイドショーを賑わせた、「マイナスイオン」や「水素水」と並ぶ〝エセ科学〟の代名詞……今回の一件もどうせ、我が子の置かれた状況を総体的に見る能力も意思もない母親が、自らの無能を曝け出すまいと、実は自分こそが当の犯人であることにも気がつかないまま、犯人探しに躍起になっているだけに決まっている……

 だが、それから数日間にわたって提出された脳外科医の検査報告書は、幼い男児の脳構造に被ネグレクト児に似た変化が認められること、そして「BALI」の〈島〉を表示するヘッドマウントディスプレイを通して母を見たときにのみ、強い愛着反応を示すホルモンの分泌が見られることを告げていた。それを聞いてもなお、小砂子は自分の作ったプラットフォームがなぜ問題視されなければならないのか、理解できなかった。いまや誰もが日ごろからAIの予測変換機能を使って作成した文章でコミュニケーションを取り合い、機械学習のアルゴリズムによって推薦レコメンドされた動画を視聴し、音楽を聴き、ネットショッピングを楽しむ。ニュースアプリではAIがオススメする記事を読み、婚活アプリではAIがマッチングした相手とデートをするではないか。話す言葉、趣味、日々頭に入れる情報に加え、生涯の伴侶までAIに決定されることはなんら問題にされないのに、心象風景を決定されるとなったときにだけ、猿のように目を剥いて騒ぎ立てる道理がどこにある? 結局のところは、「ゲーム脳」と同じ、盲目的な科学技術恐怖症テクノフォビアに過ぎないのに……

 弁護団の予想通りに事は進み、原告側の意に反して、小砂子に幼児虐待幇助の疑いがかけられることはなかった。聴取のため、一度だけ裁判所への出頭を求められた以外は、逮捕されることもなく(小砂子はそれでも十分すぎるほど苦痛を味わったと感じていたが)、完全に自由の身だった。ソフトウェア開発企業が賠償金の支払いと「BALI」の販売停止を命じられる形で一応の決着はついたものの、裁判所が次男の発達異常と「BALI」の間に十分な関連性があることを正式に認めたことで、小砂子は幼い子供の未来を奪った張本人の汚名を着せられた。義憤に駆られた世間の声はある週刊誌の耳に届き、実名を明かされた小砂子は大学を辞め、身を潜めて生きることになった。

 恋人が小砂子の連絡を無視するようになり、顔も合わせようとしなくなったのは、それからほどなくしてのことだった。「BALI」をめぐる騒動のせいだと信じたかったが、そうでないことは、彼自身が一番よくわかっていた。すべては、五回目のデートの夜を過ごしたバーでの、あの一件が原因なのだ……新しくリリースされた写真加工アプリにハマっているのだと、嬉しそうに話す恋人が見せてくれた、グループ写真……普段とは服も化粧も違う、自動修正フィルタ越しの彼女……同じ服装で、同じ化粧の、同じフィルタのかかった、横一列に並んだ彼女の友人ら……歪んだ合わせ鏡の迷路……そのどこかに、恋人がいる……長い長い沈黙……「メガネを外した顔、初めて見た」ようやく彼がそう言うと、彼女は顔中の血管を流れる血が一瞬のうちに液体窒素に入れ替わったような表情で「これは友達から送られてきた写真、私は写ってないよ」と言った。

 酔いが回りすぎていたことを言い訳にしようとしたが、まったく取り合ってもらえなかった。小砂子の人生で唯一の交際関係は、こうして呆気なく幕を閉じたのだった。





 エレベーターに向かってラウンジを横切りながら小砂子は、もう何度目になるかわからない同じ自問を繰り返した。

 ありのままの他人の姿を、ありのままに見る……そんなことは可能なのだろうか……人類はその誕生から一度でも、そんなことをできたためしがあったのだろうか……我々はなぜ、あるがままのものを──「本物」を──求め続けるのだろうか……今朝、目が覚めたときに見た恋人は、自分の心の中にしか存在していない……それは彼女が「本物」ではないことの証明になるのだろうか……

 携帯電話が普及して、誰もが電話番号を記憶することをやめてしまったように、統合都市が建設されてからは、誰もが人の顔を記憶することをやめてしまった。小砂子は両親の顔を記憶にとどめようとする努力さえ、とうの昔にやめてしまっていた。それでも彼は、かつての恋人のことを考えるたび、思い出の中の彼女の、〈彼〉と〈我〉の境界を掴ませてくれないあいまいな輪郭ファジーアウトラインに、心をかき乱されずにはいられないのだった。

 背後ではチョコバーの宣伝を終えた少女の生首が、今度は睡眠薬の宣伝を始めていた。「これは安らかな眠りにつけそうグロねー」



【東京都 首都高速都心環状線 竹橋JCT付近 令和二年一一月二一日】

 

 千代田区の地下某所に建造された〝立体素計画ボクセル・プロジェクト〟開発研究施設、通称〈物理ラボ〉の視察を終えたばかりの菅藻は、車を走らせ、約半年ぶりの家路についていた。

 日はとうに沈み、月明りは空全体をどんよりと覆う雲でさえぎられている。街灯もまばらで、ビルの窓明かりひとつ目につかない。ほかに車は一台も走っていない。どこまでも等間隔に並んだ道路照明灯の明かりだけが、離陸も着陸も不可能な曲がりくねった滑走路のように、ガラス張りの高層ビルの合間に浮かび上がっている。

 人の気配はどこにもない。都市の本質が人と人の交流にあるという考えを取るならば、いま眼前に広がっている風景は都市の抜け殻ということになるだろう。だがそんな考えを否定するかのように、人がいなくなると、今度はビル群の方が不気味な生物感を帯び始める。鉄筋コンクリートの怪物の群れが、およそ対話などできそうにない仮面のような顔を、揃ってこちらに向けている。まるで人間が都市との戦争に負け、自分が最後の生き残りになってしまったような心地だった。

 怪物たちは、自らを生んだ者たちのことなど少しも眼中にないかのように、超然と屹立している。子は親の苦労を知らない。 

 人類は言葉デマという最古の兵器が使用される「世界大戦」によって、終わりを迎えようとしていた。

 すべてのはじまりは、やはり〈クリスタル・マジェスティ号〉だった。日本で建造され、米国の運航会社が所有し、英国に船籍をもち、イタリア人船長の指揮の下、香港の港を出航後、公海上で突如「発生源」となったクルーズ船──各国メディアとそれに煽られた人々は、根拠のないままにウイルス発生の責任を他国に押し付けあう言説フェイクニュースを際限なく発信し続けた。国対国のレッテルの貼り合いのほか、国対自治体、自治体対自治体、さらには市民の相互監視による、より小規模な町対町、地域対地域といった「内戦」も多発した。スマートフォンがトリガーとなり、ミサイルの発射ボタンとなる「ハッシュタグ戦争」によって、従来のいかなる戦争よりも大勢の人が死んでいった。

 止め処なく湧いてくるデマに、WHOほかあらゆる国際機関、政府機関はなす術がなかった。陰謀論や滅亡論、国家論や精神論に基づく大小さまざまな社会集団クラスタが濫造され、それぞれが瞬く間に感染者集団クラスターと化していった。



 六月二五日──英国バーミンガムなどを中心に拡散された「クラウドウイルスは5Gタワーから発せられる電波によって突然変異したウイルスである」とする説が欧州全土で強い支持を獲得し、〝電気通信作業員狩り〟が横行。各地で通信タワーが破壊され、多数の作業員が暴力被害に遭ったほか、〈アンチ5Gクラスター〉の発生により、これまでに約四〇〇万人が死亡。


 八月四日──「すだちの果汁にキシリトール配合の歯磨き粉を溶かしたものでうがいをすれば感染しない」という噂が日本全国で急速に広まる。〈スーパー買い占めクラスター〉によりこれまで少なくとも二五万人が死亡。


 九月二日──宇宙開発分野で世界的に知られる米国人実業家アントレプレナーが提唱した「この宇宙はコンピュータ・シミュレーションであり、クラウドウイルスは宇宙の容量削減のための一斉削除クリーンアップを行うプログラムである」という考えが新興宗教に発展して〈容量教ストレージストクラスター〉が誕生。これまでの死者数は推定五〇〇〇万。


 一〇月一〇日──再選をかけた選挙を翌月に控えた米国大統領が、側近の強い反対を押し切りホワイトハウスで行った選挙集会で自らを「感染症から自然回復した最初の人間」と宣言。「科学者は中国から賄賂を受け取る詐欺師集団であり、ワクチン開発は十分可能だ」と述べ、年内に全国民にワクチンを提供することを目指す〈オペレーション・ハイパー・ドライブ〉を速やかに発動するとした。大統領は集会場にいた八〇〇〇人の支持者と共にウイルスに侵され死亡したが、この集会によって大統領が得た求心力による破壊は彼の死後も持続。救世主たる大統領の復活を信じる小規模な〈アナスタシス・クラスター〉が全米各地で興亡を繰り返す状況はいまなお続き、これまでの死者の数はおよそ一・五億人にも上るとされ、これによって米国は事実上滅亡したものと考えられている。



 菅藻はスーパー・インフルエンサースーパー・スプレッダーたちがバイラルなウイルス性の情報拡散によって世界を滅ぼしてゆく様を、これではクラウドウイルスというより影響力クラウトウイルスだな、などと考えながら一人眺めていた。

 そしていまは、なぜ自分が感染せずいまだ健康に生きているのだろうか、と考えながら、家族が待つ我が家へと車を走らせている。

 集団意識を持つことが死を意味するとわかってもなお、何かに所属し、対立し合うことをやめられない人間の性質を、外野に立って分析する社会学者という立場にあることが幸いしたのかもしれない。あるいは、政府が立ち上げた会議の構成員の身でありながら不謹慎と言われそうだが、もとより他人との間に連帯感情を抱きにくい体質なのかもしれない。会議のメンバーに対しても、仲間意識と呼べるようなものを感じたことはただの一度もない。別に冷たくしようとしているのではないが、基本的に帰属には束縛が伴うし、心を縛りつけるものは、それがどんなものであれ好きになることは難しい。

 菅藻はだしぬけに、思い出すまいと努めてきた橋間のこと、そして、彼が付けたタローというあだ名のことを思い出した。おそらく彼は誰にでもあだ名を付けるような人間で、そこに深い意味はなかったのだろう。それでも、あだ名で呼ばれるような間柄だったには違いないのだ。初めて他人に付けられた、あだ名らしいあだ名……本来なら今頃はウォームカラーにぼかされた記憶の断片になっているはずだったそれは、ある日突然「彼ら」が接触してきたことで、特別な意味を与えられてしまった。

けっして忘れることのできない、一八〇度回転していた日常が、さらに三六〇度回転して再反転の再反転を起こした日。世界から〈日常・非日常〉の対立を可能とする前提が失われて、〈非日常⇄非日常〉の非論理的論理式のみが真となった、あの日──





 ひと月ほど前、なんの予告もなく、橋間のコミュニケーションアプリのアカウントが消えた。

 いつかその日が来ることを、菅藻は最初に連絡を取り始めた頃から覚悟していた。彼はリアル、ウェブを問わず自分よりもずっと知り合いの数も多かったし、何より、物事に関心を持つことができるという、自分にはない資質を持っていた。

 途方に暮れてスマートフォンの画面を眺める菅藻の目に、一件のメール通知が飛び込んできた。メールにはリンクと共に、短い文面が添えられていた。

 

《こんにちは、私はQ。立体素計画が動き出しています! リンク先で次の設問にお答えください──あなたはどんな妖怪ですか?》


 機械翻訳? スパムメール? しかし有識者会議構成員専用のメールアカウントだ。それとも、情報漏洩があったのだろうか? だが「妖怪」というワードチョイスには、相手を罠にかけようという意思を感じさせない、妙なイノセンスがある。

 菅藻はリンク先に飛び、表示されたフォームに〈TOIRE NO TARO KUN〉と入力して送信ボタンを押した。すると黒い背景色に薄いグレーの文字が浮かぶチャット画面が表示され、菅藻が先に何かあいさつでもするべきかと迷っているうちに、三〇秒ほどで最初のメッセージが送られてきた。

《TAROさん、来ていただけると信じていました》

〈あなたが「Q」ですか?〉

《はい、私はQです。あるいは「私たち」といってもいいかもしれません》

〈私たち?〉

《私たちは立体素計画の実現を目指す技術者チームです。チーム内での情報交換は、感染防止のため匿名のチャットルームで行います》

〈「立体素計画」とはなんですか?〉

《人類を、そしてその科学文明を救うための、方舟となる計画です。立案者はTAROさん、あなたです》

〈そんな計画は初耳ですが〉

《計画の進展に合わせて呼び名は変わりましたが、もともとは「統合都市計画」から出発したものですから》

統合都市計画シンセティック・シティ・プロジェクト〟──人々の集団意識を媒介し、あらゆる物理的障壁を難なく突破するクラウドウイルスの感染拡大を抑え込むために必要なのは、社会距離拡大戦略ソーシャル・ディスタンシングではなく精神距離拡大戦略メンタル・ディスタンシングだ。その理論には、情報社会学の考え方を応用することができる。〈中央集権型現実シェアード・リアリティ〉から〈自律分散型現実ディストリビューテッド・リアリティ〉へ──。「現実」という一個の大陸をバラバラに壊し、無数の小さな島のような〝現実たちリアリティーズ〟を形成すれば、物理的距離に関係なく心と心の距離を引き離すことができる。複数の現実を生み出す試みは、これまでに幾度も仮想バーチャル空間の創出という形で展開されてきたが、それらはいずれも散発的なものに止まった。人類には身体という物理的制約があり、精神だけを仮想空間に転送アップロードする技術も現時点では存在しないため、仮想空間を物理フィジカル空間と同格の現実感リアリティをもった〝第二の現実アナザー・リアリティ〟として体感することができないからだ。それならば、反対に仮想空間の方を物理空間の側へ招き入れてやれば良い。すなわち、物理現実フィジカル・リアリティ仮想現実バーチャル・リアリティがひとつに合わさった、統合現実シンセティック・リアリティ……〝プログラム可能な物体プログラマブルマター〟のブロックで作られた都市空間……人々の思うままに流れる、水のように不定形の街……テクノロジーによって模倣エミュレートされたユプ族の秘術……〈でも、あれは議論にも値しない絵空事と一蹴されたはずです。プログラマブルマターの開発は、現在の科学技術レベルでは不可能だと〉

《事実、あなたが計画を立案した五月時点では不可能でした。その後、クラウドウイルスの形態学的分析が進められてゆく中で、ヌクレオカプシドを取り巻く謎の膜状の構造体がウイルス・ネットワークの構築に重要な役割を担っていることが発見され、それを応用することで、遺伝情報の超高速かつ無制限な複製・書き換えを(DNAシーケンサーやDNAシンセサイザーといった従来技術に依存することなく)可能にする新技術を、米国国防高等研究計画局(DARPA)の研究チームが確立したのです。この発見をウイルス・ネットワークを遮断する方向で応用する研究は残念ながら現在までのところ十分になされていませんし、そのような研究を完遂するための人的リソースも物的リソースも、もはや人類には残されていません。ですが、合成生物学の分野でブレイクスルーが起きたことにより、プログラマブルマター開発における合成生物学的アプローチがにわかに現実味を帯びました。「クレイトロニクス」の名で知られる、従来の機械工学的アプローチ(ナノスケールの自己組織化ロボットの群体)が抱えていた、CPUや発電素子、エネルギー貯蔵装置のナノスケール化といった課題が一挙に克服され、人類は一気呵成にプログラマブルマターの時代へと突入したのです。私たちは現在、与えられた3Dデータを塩基データに変換し、自在に自己の再組織化を行い形状変化することのできる箱型の自律生命デバイス開発の最終段階にまで到達しています。私たちはそのデバイスを「立体素(BOXEL)」と呼んでいます》

〈私が言うのもなんですが、やっぱり絵空事に聞こえますね〉

《すでに日本を含む先進各国では統合都市建設予定地の選定、移住候補者の選別および隔離保護、都市の初期人口を維持するための凍結ヒト胚確保が進められています。少なくとも、臨時国連で現在もっぱらの議題となっている、一切の情報通信技術を放棄して文明を第二次産業革命以前の水準まで巻き戻すという計画よりは現実的だ。社会行動学者として、あなたもそれには同意するでしょう?》

〈さあ、どうでしょうか。私には、あなた方の存在自体が疑わしく思えます〉

《それこそが私たちの狙いですよ。お互いに疑わしい存在でいればいるほど、感染予防効果も高い。Qという名前ばかりは、ちょっとやりすぎだったかもしれませんけどね。とにかく、私たちが嘘を言っているのでないことは、どの道、時が来ればわかりますよ。今日はこれくらいにしましょう。後日、準備が整いましたら改めて連絡します》

〈最後にひとつ、橋間君のことを聞いてもいいですか〉

 ……

 これまでのやり取りで最も長い沈黙が流れた。

《あなたがお察ししている通りです。彼はいま、隔離施設で治療を受けていますが、健康状態についてお答えすることはできません。当然、連絡も取れませんし、場所をお教えすることもできません。そのための隔離措置ですから。以後、このチャットルームでは彼の名を出さないようにしてください》


 そして、それからひと月が過ぎた今朝になってようやく、Qから再びチャットメッセージが届いたのだった。


《TAROさん、長らくお待たせしました。私たちのラボにあなたをお招きする準備が整いました。霞ヶ関駅B3a出口付近の自販機でカフェオレ(中)→麻婆スープ(右)→ミネラルウォーター(左2)の順番に購入してください》


「この先の出口は只今工事中です」と書かれた立て看板横の三角コーンを跨ぎ、地上の街同様に殺風景な抜け殻と化した駅のコンコースを通り抜けて、コインロッカー奥の陰になったスペースに設置された当たりつき自動販売機の前にやってきた菅藻は、さっそく一三〇円を投入して、指示通りに下段に三つ並んだカフェオレ缶の真ん中のボタンを押した。

 ボタンを押すたびにルーレットが終わるのを待たされるもどかしさは耐えがたく思われたが、麻婆スープ缶を購入した後で投入金表示が点滅する『1111』に変わり、当たりが出たことを告げるビープ音が三度鳴るのを聞くと、少し気分が落ち着いた。せっかく当たりが出たというのに一番値段の低いミネラルウォーターを買わなければならないなんて、なんとも損な巡り合わせだ、などと考えながら菅藻は上段左端に四つ並んだミネラルウォーターの左から二番目のボタンをしっかり見定め、念を込めるように慎重に押した。

 きっかり〇・五キロ分の水が落下する音が響く。再び回り出したルーレットは、再び『1111』で止まって点滅し、再びビープ音が鳴り始める。

 一度……二度……三度……

 ビープ音を数えながら、秘密の暗号にしてもなぜわざわざドリンクを買わせたりするのだろうと、遅まきながら湧いてきた疑問に囚われていると、いきなり救急車のサイレンを逆再生したような音を立てて自動販売機のメインドアのロックが解除され、いつの間にか『9999』に変わっていた投入金表示を赤く光らせながら扉が開いた。

 扉の奥は、人が一人やっと入れるだけの、何もない棺桶のような部屋だった。入ってみると、床が微かにぐらついた。ボタンがどこにもないのですぐには判断がつかなかったが、どうやらエレベーターらしい。菅藻は後悔が頭をもたげるのを感じたが、扉が閉まり部屋が下降を始めると諦めがついた。こうなったら、もう成り行きに任せるしかない。


 エレベーターは一〇階分ほど下って止まった。扉が開くと、エレベーターの狭さと釣り合いの取れた幅の短いホームと一両編成の無人電車がすぐ目の前に待ち構えていた。エレベーターを降りて背後で扉が閉まると、それに連動するように正面の電車の扉が開く。巨大な人工生物の消化器のようだと菅藻は思った。自動販売機やエレベーターの扉と同様に忠実な弁の機能を果たす電車の扉は、菅藻が乗り込んだ途端に自動で閉まり、菅藻はレールの敷かれた小腸の中を進む内視鏡カプセルに揺られて、ゆっくりと運ばれていった。

 線路内には照明灯や誘導灯の類はひとつもなく、全自動運転の電車にはヘッドライトさえついていない。車内照明の明かりがほんの一部でも壁を照らしてくれることを期待したが、トンネルはかなり広いらしく、カーブのときも車両の窓が壁に接近することは一度もなかった。おかげで方向感覚が掴めず、速度が一度落ちた際に進行方向が変わったようにも感じられたものの、確証が持てなかった。無駄な努力をやめて椅子に深く座り、先ほどのカフェオレと麻婆スープの代金二七〇円は返してもらえるのだろうかとか、どうせならカフェオレじゃなくブラックを指定してくれれば良かったのに、とか考えているうちに、電車が「駅」に到着した。


 左右から迫りくる無限の暗闇の中で、打ちっぱなしのコンクリート壁に空けられた巨大な台形の横穴だけが、白色光LEDに冷たく照らし出されている。穴の中は暗かったが、奥には宝石のように光を反射して流れる水が見えた。こんな場所に滝があるのだろうか? 穴に入った途端、石膏の薄片を踏み砕く音がした。いや、横穴の構造のせいでそう聞こえただけで、本当はカメラのシャッター音かもしれない……あの独特のくぐもった破擦には、平常心を一瞬で粉々にする作用がある。だがあたりを見回しても、どこにもそれらしいものは見当たらない。

 しばらく進むと、先ほどまで滝に見えていたものの正体がわかった。明かりを透かしながら、空調設備から絶えず送られてくる風を受けてはためくビニールカーテン。さらさらという流水のような音は、カーテンの末端部分がコンクリートの床面をこする音だ。なぜこんなものが、さっきはあんなに輝いて見えたのだろう。早くも目が地下生活に慣れきってしまったのだろうか。そういえば、さっきから何もかも白黒に見えている気がする……

 すると、ビニールカーテンの隙間を手でかき分けながら誰かこちらにやってきた。全身を白いビニールの防護服に包み、顔には中心に黒い線の入った、光沢を放つ卵のようなフルフェイスマスクを付けている。体格からすると男性らしい。近くに立つと、菅藻が長身の相手を見上げる形となった。相手は菅藻の背後にある何かを覗こうとするかのように首を小刻みに動かした後、短い間を置いて話し始めた。

「タローさん、ようこそいらっしゃいました」

「あなたがQさん……メッセージを送っていた方ですか」

 再び短い間。

「ええ、〝私〟はQです。ですが、いまあなたに喋っている相手は違います。〝彼〟はこの研究施設の〈アバター研究員〉の一人です」

「なるほど。つまり、〝彼〟は〝あなた〟の指示通りに喋り、行動しているだけだと」

 発話指示をロードする待機時間。

「概ねそんなところです。〝彼〟の役割は、この研究施設の〝デジタルな複製デジタルツイン〟としてエクストラネット上に構築された仮想ラボのアバターに実体を与えることです。仮想ラボは〈Vラボ〉と呼ばれ、〝私たち〟の研究活動の中心拠点です。〝彼〟のマスクの内側に映し出されているのはそのVラボであり、あなたのことは直接には見えていません。あなたの声を拾っているのも、〝彼〟の鼓膜ではなくラボの収音マイクです」

「仮想ラボがあるのなら、わざわざ私をここに招かずとも、そちらを見せればいいのではないですか」

 読み込み中ナウ・ローディング

「この計画が国際的な最重要機密であることをどうかご理解ください。大本の立案者とはいえ、タローさんはまだVラボにアクセスする権限を与えられていません。それに、〝私たち〟の進めている計画が単なるおとぎ話でないことを実感していただくにはやはり、この物理ラボを直接見てもらうのが一番だという結論になりました」

「矛盾していませんか? 以前は、おとぎ話なのだと思わせたいと言っていたはずですよ」

 三二……七〇……九四……九九%……

「意地悪を言わないでくださいよ。〝私たち〟はあなたの理解と協力を得たいだけなんですから。もっとも、〝私たち〟が質の悪い冗談を言っているのでないことはここまでの道のりで十分わかったでしょうから、ここで引き返していただいても別に構いませんけど」

 今度は菅藻が返答をロードする番だった。

「冗談でしょう?」

 

 ラボ内には、同じ防護服とフルフェイスマスクを身に着けた〈アバター研究員〉が少なくとも百人はいるようだった。何かの器具を持って移動する者、二人組になって重いプラスチックコンテナを運ぶ者、指令を待っているのか隅に一人で立ち尽くしている者などさまざまだが、会話をしている者は一人もいなかった。彼らの目と耳に入るのは自分への指示のみであり、ほかの研究員のことは知覚していないのだと、Q(のアバター)が解説した。奥の厚いガラスで隔てられた区画では、壁に取り付けられた無数のアームがレールに沿って上下に駆動しながら、中央の培養装置と思わしき三階建てビルほどもあるアルミ製の直方体の側面に並んだスロットを高速で開け閉めしている。天井や壁面を覆い尽くす細かい穴は、おそらくモニタリングのためのセンサーだろう。

 ラボをひと回りした後、Q(のアバター)は研究員たちの作業スペースから一段高い位置に作られた、大きなテーブルを大量のモニターが取り囲む区画へと菅藻を招き入れながら言った。「いかがですか。立体素の現物をすぐにお見せできないのが残念ですが、なかなかのものでしょう」

「ええ、見事ですね。しかしこれならもう私の出る幕はないのでは?」

「そんなことはありません。与えられた3Dデータに合わせて形状変化するデバイスの開発は、あくまでハードウェア面の課題であり、目標到達に必要な要素の半分に過ぎません。ソフトウェア面ではまだ多くの課題が残されています。まずは、都市住民ユーザーの意思に沿った3Dデータの作成を半自動で行うプログラムが必要になるでしょうね。形状を変えようとするたびにいちいち何日もかけて自前でデータを作成しなければならないのでは、統合都市の意味がありませんから。タローさんがソフトウェア開発の専門家でないことはもちろん承知しておりますが、立案者として設計にあたりコンサルタントになっていただければと思っています」

「おっしゃるように私は専門家じゃありませんが、そういうことなら、早速お力になれるかもしれません。いや、正確に言えば、私が力を借りようと思っていた人物を紹介できるかもしれません。〈統合都市計画〉のために協力が必要になるだろうと考え、私は……〈友達〉の協力を得て、小砂子という名の、数年前に若くして業界を退き隠遁したプログラマーの行方を調べ、コンタクトを取ることに成功しました。彼は非協力的でしたが、それは有識者会議の面々と同様、やはり計画の内容があまりに荒唐無稽に思えたからでしょう。このラボのことを知れば、彼の態度も変わるかもしれません」

「その小砂子という人が、すでにクラウドに罹ってしまっていなければ良いですが」

「彼が私の想像する通りの人間なら、その心配はないでしょう」

「わかりました。タローさんに仲介していただいた方がスムーズでしょうから、タローさんの個人端末にVラボの資料データを共有できるように手続きを取ります。ただし、その前にタローさんに立体素計画の主要メンバーとなることを正式に承諾していただきたいのです。いますぐにというわけではありません。ひと晩、ゆっくりとお考えになってください。それから、色々と不安はあるでしょうけれど、今晩はご家族と過ごされることをお勧めします。ラボを実際に見ていただいたのに、家族の顔を見ないで決めてしまうというのは、不公平ですからね」





 首都高速川口線から東北自動車道に入ったあたりで、菅藻は車を道路の端に停め、都が〈ウィンター・ステイホーム・トーキョー注意報〉をレベル〝ダブルレッド:インフェルノアラーム〟から〝スーパー・ダブルレッド:バーストパニック〟へ引き上げると決定したことを伝えるカーラジオを切り、ハイブリッドエンジンの静かな駆動のリズムに耳をすませながら目を閉じた。そして、バズワードの洪水はもうたくさんだ、と考え、次に、「バズワード」という言葉もバズワードなんだっけ、と考え、そう考える自分の考えについて考えを巡らせてから、ようやく自分がこれから選ぶべき道について考えることにした。何か重要なことを決めようとするとき、菅藻はいつも静けさを人一倍必要とした。幸い、静寂はいま地球で最も潤沢な資源だった。

 最初に頭に浮かんだのは、家で待つ家族の姿だった。画面越しの先生とクラスメイトたちを最後に目にしてから半年が経過し、初めて一緒に遊ぶ日を心待ちに一生懸命覚えた顔の特徴さえ、もうすでに忘れつつある娘。そんな娘を守ろうと、本当は娘に負けない大声で泣き叫びたいほどの閉塞感を感じているにも関わらず、懸命に感情を押し殺しながら、自宅を外界から途絶させ続ける妻。心を納めるべき2LDKの神殿。慎ましやかな聖域。だが現状を考えれば、その聖域が侵されるのは時間の問題だ。たとえ自分からうつることがなくとも、家族がまだ健康体でいること自体、奇跡的な幸運なのだ。一刻も早くプロジェクトから身を引き、どこか遠くの、家族だけで孤立して生活できる環境に恵まれた場所へ移ることが最善の選択かもしれない。

 次に浮かんできたのは、Q(のアバター)と別れた、地下研究施設の大テーブルとモニターの部屋。数十年後か、数年後か、あるいは数か月後か──立体素の試作品第一号のお披露目が行われている。テーブルの中心に置かれた立方体を挟むようにして、スーツ姿の男が両脇に立つ。立方体がひとりでに変形を始め、終わると左の男が「リンゴになった」と言う。右の男は「いや、オレンジだ」と言う。モニターに映し出されたカメラの映像には、リンゴとオレンジの中間のような灰色の物体が映っている。その後ろに並んで立つ〈アバター研究員〉たちの中に──いや、すべての〈アバター研究員〉のマスクの裏に、橋間の顔があるように思えて仕方がなかった。

 ハンドルに顔を伏せ、スマートフォンを取り出してQから送られてきたメッセージを改めて確認する。デジタル署名を入れて返送すれば、晴れて世界を救う秘密組織の幹部になれる。何にも関心を持たずに生きる処世術の弱点は、何をするにも決断力がなくなることだ。菅藻は生まれて初めて、そのことを心の底から痛感した。

 菅藻はサイドブレーキを解除して、再び自分のほかは誰も走っていない高速道路を走行し始めた。このままずっと高速を降りずに、本当に人類最後の一人になるまで走り続けていたいような気分だった。



【統合都市TOKYO 至適暦10.00a-999.999】


 小砂子は寝付けなかった。目を閉じるたびに瞼の裏に浮かぶ皮だけになった恋人の姿が、彼を震え上がらせた。今夜もまた、彼女の夢を見るだろうか……

 上体を起こし、ベッドの脇の小棚へ手を伸ばして睡眠薬の箱を取り出す。だが昼間に見た広告被膜のことを思い出し、蓋を開ける前に中身が空であることを悟った。あの広告を見たときにすぐ注文コマンドを送るべきだったのだ。だが、死んだ魚のような目がチャームポイントの〝人造ヒト型リストカット系マグロ〟が「安らかな眠りにつけそう」と宣伝する睡眠薬を即座に注文するには、小砂子の精神はまだ安定し過ぎている。

 小砂子はベッドの横に自分の背丈と同じくらいの高さの薄い板をレンダリングすると、正面に立って視覚テクスチャを「鏡面」に設定した。小砂子はアクリル毛羽の柔らかく蒸れた毛先を肌で直接感じているときが最も熟睡できるので、全裸で寝るのが長年の癖になっている。生まれつきの仏頂面を際立たせるように刻まれた、額と口元の細い皺……ねじれて二股に裂けた先端があらぬ方向に伸びる、胸部から腹部の全体を覆う体毛……たるんだ太ももの間で半世紀以上にわたり締め上げられて、黒くうっ血した陰茎……内出血の痕が水漏れのシミのように残る、ひしゃげた足の爪……立体素の鏡面が映し出す壊れかけた蛋白質の集積物を眺めるうち、小砂子は唐突に、それが本当の自分の姿ではないように思えてきた。いったいこれが、知らないうちに自分で自分に被せた被膜ではないと、どうして言えるだろう? そう思った途端、小砂子の眠りを妨げていた不安の霧はたちまち吹き飛ばされた。

 自らに被膜を被せていたのは、彼女も同様だ。彼女の「本当の姿」など、どこにもありはしない。始めから、ただ被膜があるだけなのだ……心の内側か外側かという所在の違いはあっても、被膜であることに変わりはない……


(この部屋の六面を構成する立体素よ! 被膜一体の構築に必要な数量分だけ我が足元に集え!)


 ……立体素……もしクラウドウイルスも立体素も存在していなかったら、ぼくはどんな人生を送っていただろう……恋人に見放され、世間の目に怯えながら、ただ死を待つばかりだった、そんなぼくに、再び夢を実現する機会をくれた菅藻教授……彼はいまどこで何をしているのだろう。ひょっとして、彼もこの街の住人なのだろうか。今日もどこかで、被膜一枚隔てた距離ですれ違っていたのかもしれない。あるいは、世界の反対側のジャングルで、家族と小規模で素朴な暮らしを営んでいるのかもしれない。いずれも、まだ生きていると仮定しての話だが……


(分かれて二つの小山となり、左右の足を構築せよ──小さな指の先に、白く丸い爪のある足を!)


 ……人工の子宮から産まれ、AIがランダム生成する子守唄を聴いて育った人間が、いったいどんな夢に怯えるというのだろう? いまや夢の中に「他人」という旧時代ビフォアクラウドの亡霊を見るのは、旧時代を経験したことのある、ぼくのような人間だけだ。そしてその亡霊も、あと数十年のうちに古い人間たちと共に消え去る。母の顔を認識できなかった幼児の悲劇も、恋人の顔を認識できなかった男の悲劇も、この〝集団以後アフタークラウドの世界〟からは存在しなくなるのだ……


(そのまま上へ細く伸びて再度結合──結合部には、生まれたてのような薄桃色のペニスだ!)


 ……かつては、この統合都市の住人の中にも、現実と虚構の境界が失われる感覚に順応できず、立体素の機能を破壊する計画を立てようとした者たちがいた……だが、みんな実行する前にクラウドに感染して死んでしまった。順応できたものだけが生き残り、次の世代を生産するための精子と卵子の供給源となる。遺伝子ではなく意伝子ミームを運ぶウイルスによる、自然淘汰。適者生存。本来の意味とはだいぶ異なるが、これも集団規模の〈ウイルス進化〉と呼べなくもないのかもしれない……


(適度なエストロゲン分泌を感じさせる腹部のなだらかな起伏──体毛はなしだ! バストは……まあこんなものだろう)


 ……ぼくもそろそろ、この統合都市の責任者として、未来に目を向けるときが来たようだ。睡眠中の脳信号を積極的アクティブに読み取るよう、立体素に新たな改良を加えるという案を再検討してみようか……目が覚めれば、そのまま夢の続きが広がっている世界……夢と現実の境界線は消え失せ、覚めることのない明晰夢の楽園エデンへと昇りつめて、万人は自分自身の神として君臨する……そういえば、大学の頃に興味本位で取った宗教学の講義で若い非常勤講師が話していたっけ。『カトリック神学において、〝地獄〟とは〈愛によっても埋めることのできない他者との断絶状態〉と定義されている』。だが、事実は逆だったわけだ! 人類は神がもたらしたウイルスという恵みによって、以前ならばけっして届かなかった精神の新たな段階へ到達し、自己の実現を極めた存在へと進化する……その人類2.0──〈遠隔人類ホモ・リモータス〉が行き着く果てにあるのは──


(ミッドナイトブルーの髪に包まれ、月の光を湛えた顔──記憶と食い違っていようが構うものか! こんなにも美しいのだから!)


 恋人の被膜は皮膚にピッタリと馴染んだ。その感触は、アクリル毛羽のふとんなど比べ物にならないほどの快感と安堵感をもって小砂子の身体を包み込んだ。小砂子がほほ笑むと、被膜もそれに合わせてほほ笑む。内なる恋人をいまその身に纏い、小砂子は自分が確かに幸福であることを実感して、心の中でつぶやいた。

 今夜は、いい夢が見られそうだ。 

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