令和 日本崩壊 五輪を控えた夏の終わりの災害から

なっとう

第1話 序章

 2021年。日本は令和3年となりコロナで延期となった五輪が翌月に控えていた6月の下旬の深夜だった。

 東京郊外の二階建て自宅アパートで、僕は寝酒をあおりながらまったりとしていた。

 突然テレビと携帯に緊急地震速報が流れてきた。

 身構えていると大きな揺れがきた。経験上震度5程度くらいだが、揺れ幅が大きい。

 速報によると震源地は愛知県沖。震度7強。

 数十年前から想定されていた東南海トラフ東海沖地震のようだ。

 僕は今年は大きな地震が起きるのではないかと密かに思っていた。

 数か月前から毎月のように日本各地や南太平洋で地震が頻発していた。気象庁は10年前の東北の余震だと言っていたが、震災当時も同じようなことが起きていた。

 ニュージーランドの地震もそうだったし、今年もニュージーランドでは被害はなかったが起きていた。

 近年なら阪神淡路大震災の1か月前の三陸はるか沖地震は2週間に2回も震度7が起きていた。僕の地元は青森の八戸なのではっきりとした記憶がある。被害は微少だったこと、その後の震災で忘れ去られた災害になっているのが残念だ。


 東海地震は戦後すぐから想定されていた。自動車産業など日本の重要地帯なゆえの政策。

 しかしその間に全国で想定外の地震災害いくつも起きている。

 国としては東北の被害などは重要ではないらしく、阪神淡路でさえそうだった。

 地震予知が忖度やビジネスだということは皆が気づき始めていて東海地震は現実的に起きないのではないかと思っていたはず。

 重要な企業に政府はこれだけ対策をしていますから支持や献金をお願いしますということだ。


 幸いにも僕は大きな地震災害に直接遭ったことはない。 

 東北の震災時の僕は北海道にいたので全くと言っていいほど影響はなかった。

 揺れは震度4が数分、ゆっくりとした今ままで経験したことのない感じだった。

 ただし北海道民は地震に慣れていないので大騒ぎになっていた。僕にとっては久しぶりな感覚を覚えたくらいだった。

 八戸など東北に住んでいれば毎月のように地震があり毎年震度5はあたりまえのようなこと。

 眠っていたとしても揺れる前に目が覚めてしまうような予兆というか予備振動を感じてしまうほど慣れていた。

 だけどそれが地震に対する危機感が薄まっているからこそ津波に警戒していなかった理由でもあると思う。

 二メートルの津波警報が出ても実際は数十センチというのがほとんどだった。あえて確認しに海に行く人もいるくらいだった。

 それに福島の浪江町は母方の祖母の生まれ故郷。大正6年4歳の時に北海道に移住している。母は北海道の生まれ育ちになる。八戸は父の実家になる。

 大学が仙台になり、バイクで浪江や相馬を訪れたことがある。祖母の旧姓のような地名が残っていた。実家は大きな商家だったらしい。

 訪れた日は快晴で波も穏やかな日だった。堤防に立つと水平線が果てしなく、かすかに丸みを確認できる。はるか右の方向に発電所があったことを覚えている。

 さらに福島県では会津に就職先の配属で2年間過ごした。地域の老舗デパートの婦人服売り場だった。大手スーパーに系列吸収されていたが数年後に親会社が破綻してしまい、紆余曲折をへて関東に流れ着いた。

 現在はいろいろありすぎて独身のままアパートで独り暮らし。同じ年代は人口も多いがバブル崩壊の影響を受けているから未婚率は高いようだ。


 テレビは一斉にどこのチャンネルも地震情報に切り替わった。津波の危険があると連呼し、対象地域の避難を呼びかけている。

 予想通り1時間後に津波は沿岸に到達し、テレビでは生中継の映像が流れている。

 名古屋港は瞬く間に浸水し電車の高架を超えて中心部まで迫っている。

 10年前の仙台は海から離れているうえに自動車道に阻まれて市街地までは到達しなかったが、名古屋は中心地まで届いた。街灯が次々と消えていくので深夜とはいえ津波の勢いは想像できる。

 地震から数時間たち午前3時を過ぎた。僕は新しい情報が流れなくなったこともあり睡魔に負けて眠ってしまった。

 

 翌朝目覚めてすぐテレビを点け地震の情報を観ながら支度をはじめた。

 陽が昇り明るくなったことで被害状況がはっきり確認できている。

 津波は最大十メートルだったらしい。規模からいえば東北の時以上になる。

 夜だったこともあり、遠くに避難するよりビルに避難したようで人的被害は少なさそうだ。テレビ画面には屋上や窓から外を覗いている避難者が映っている。

 10年前の東北の教訓を参考に避難のノウハウが生かされたようだ。ただしそれは人命に関してだけで、道路には瓦礫や車が流れついているし、人家の多くも破壊されている。

 これだけの被害だ、復興には時間がかかるはず。なにしろ未だに東北の復興は先が見えていない。復興五輪とは何だったのかを思い忸怩たる思いがする。

 関東地方のほとんどは震度5程度だったので大きな被害はなかったようだ。電車も通常運行のようなのでいつもの時間に部屋を出た。


 電車で三駅先の職場はスーパーマーケットチェーンの食品売り場。この会社に所属して二店舗目になる。

 最寄り駅改札から徒歩10分ほどで着くいわゆる駅近になる。駐車場はなく、裏手に業者用の搬入スペースがあるだけの都内では標準的な規模。レジは四台あるので郊外では比較的大きいほうになると思う。

 タイムカードを押し更衣室兼用の休憩室に向かう。いつもより同僚が多い感じがする。挨拶代わりに地震の話題ばかりが耳に入る。

 開店二時間前になるが店の前にはすでに大勢のお客さんが集まっていた。ぱっと見高齢者が多そうだ。

 生鮮は午前中分として前日に仕込んでおいたものしかないから売り場は空いている。

 いつもだと開店時間に間に合わせて一通り埋めていく。でも外のお客さんの数を見ると圧倒的に足りない。

 店長と僕ら各部門責任者は急きょ相談して食品などその他は揃っているので混乱する前に開店させた。

 当然ながら生鮮品は間に合わず品切れの時間が続いた。

 混雑は昼近くで収まったが、定量の牛乳や豆腐などの日配品は午前中に売り切れた。

 夕方になるといつも以上に混み始めた。ほとんどのお客さんは保存のきく食品を買い求めるので、担当者の僕は定期配送の商品では足りなく、店のワゴンで直接問屋まで取りに行くこと三度。問屋に在庫が豊富にあったので特別な個数制限はしなくて済んだ。

 生鮮でも野菜、魚より肉の売り上げが高かった。たぶんだが冷凍保存をしておくようだ。


 そんな状況が数日続き余震も少なくなり関東はいつもの日常になりつつあった。五輪は東京自体が被害が無かったので、事前の決定通り無観客で開催されることになった。

 春先までは新型コロナのワクチンが世界的不足していることを背景に、外国人観客は受け付けないことを決定していたが、地震によりボランティアが大幅に辞退したりして国民の意識の向上が上がらなかった。

 関係者の人員も少なくしたようで、国体東京大会とも揶揄する人もいるようだ。

 実際に参加国も集まらないようで、種目によっては日本人だけで決行することもありそうだ。

 メダル独占ということも起きそうだ、うれしくもなんともないが。選手はどう思うのだろうか。

 自国開催だから参加は必須だろう、でも聖火リレーのように何かと理由を付けて不参加を表明するかもしれない。

 有力な誰かが最初に表明すれば皆が続くようなきがする。たぶん怪我とか病気を理由にするだろう。

 競技大会は練習のモチベーションを上げるための目標でもあるが同時に怪我の可能性もある。出たくて出た大会で怪我をするのは仕方ないが、強制されて怪我をしたら誰の責任になるのか。


 ワクチンの接種が未だに半分程度しか行われていない現実で、GOTOはおろか県をまたいでの移動も自粛とされている。チケット保持者の観客だけ免罪符としても、そもそもチケットも外国人と同時に返金作業が始まっている。紙媒体としてのチケットも発行されていないので記念品として残すこともできない。

 外国人観客を受け入れないことによって、五輪を見越して建設開業していたホテルは完全に見切りをつけ、外国企業を中心に売り渡していた。その他のホテルも昨年からのコロナで従業員を減らし最低限の営業なので、1か月ほどの繁忙などは対応できない。

 そんな高校の体育祭レベルの五輪を来週に控えた週明けに国民の誰もが想像もしていないであろうことが起きてしまった。

 

 

 その日は三日ほど続いた梅雨の雨が止み、晴れ間が広がった明るい朝に起きた。

 場所は静岡県と山梨県の県境。深夜から弱い地震が起きていた。

 東海地震から2週間ほどなので皆は余震と思っていたし、気象庁も特に警報は出していなかった。

 朝の五時を過ぎた頃、突然の爆音が響いた。

 建物は激しく揺れ、眠っていた人も音に驚き人々はすぐに外に出て見渡すと噴煙が高く上がっていることに気が付いた。 

 富士山が噴火した。

 隣県の静岡山梨では爆音でガラス窓が割れ、噴石が降り注ぎ、溶岩流と火砕流があらゆるところに流れ出した。

 数分後には数百キロ離れた地域にも爆音が届いた。

 僕は速報で外に飛び出し、はるか先にある小さな富士山からの噴煙を確認してから耳に爆音が届いたものだから緊張感が増した。

 

 噴火は江戸時代にもあったので地震同様に想定されており被害規模もシュミレーションされていたが、現実は容易じゃなかった。

 東北の地震も数百年前の記録はあっても伝説程度のことだったので誰も速やかに対応できなかった。むしろ日常的に地震が多く、震度7も近年数回あったが津波は起きなかったからだ。

 日本は火山が多く、噴火は珍しいことではなく被害も少なくない災害の一つなので常時観測されている。だからといって予報が当たるわけじゃなく突然の噴火も少なからずある。

 今回は余震が続き、火山性なのかどうかが判別される前に突然の噴火だった。

 観測担当官などが躊躇したとしても強く非難はできない。

 いつもならご来光の登山客で渋滞するほどの人で埋まる富士だが、地震で登山道が閉鎖されていたのが不幸中の幸いだった。


 噴煙は想定されていた通り風にのって関東に流れてきた。

 最初は切れ目のない低い曇り空のような感じだったが、遠くのビルが霞みはじめたと思ったらすぐ降り始めた。

 黒い小麦粉のような、それでいて聞いたことのないサラサラしたような音。

 外にいた人たちは服に付いた灰を払いながらようやく避難を始めた。マスクを手で押さえながら家に戻ったり車を発進させたり。

 噴火が夜明けすぐだったので皆が行動する前であったことが幸いだった。

 次第に積もり始めると最初に携帯電話が使えなくなりテレビが映らなくなった。

 災害用ラジオのスイッチを入れたが雑音しか拾わない。

 しばらくは動いていたはずの冷蔵庫も止まったということは停電にもなったということになる。

 試しに電灯をスイッチを押してみるが点かない。

 まさかと思い水道の蛇口をひねってみたが流れない。

 ガスはプロパンなので使えそうだがガス漏れ警報器は機能していない。

 給湯器は使えないが料理はできそうだ。

 

 富士山の噴火はただちに全国へ緊急災害情報として発信された。しかし国としてできたことはそれが最後だった。

 政治家も官僚も警察消防はもちろん関東の自衛隊基地も機能不全になり何も出来ずにいた。

 灰が充満していると電磁波は遮断され全ての指示が出せていなかった。

 視界不良なうえ車やヘリコプターのエンジンは損傷するからむやみに動かせない。警察も消防も自衛隊も同じだ。

 例え100メートル前方に要救助者がいたとしても辿り着けないし搬送先にも行けない。

 先日の地震より関東より西からの救助は期待できない。東北か日本海側からになるが陸路はもちろん空路もダメだ。全て徒歩になるとしたらいつになるというのだ。


 噴火直後に店長が出勤していることを期待して連絡を試みたが電話もメールも繋がらない。

 仕方なく部屋で待機というかおとなしくしていることにした。

 テレビもラジオも役に立たない外も出歩けない。人類が僕以外いなくなったかのようなくらい情報が得られない。

 いちおう同じアパートの人と接触をしてみたが先方も同じ状況であった。でもちゃんと人間がいたことに安堵した。僕の部屋にも同じように来る人が何人かいたから心境は同じなんだと。

 ただ何も進展がしないことがはっきりしてしまった。


 翌朝になり噴火自体は収まりつつあるようだが、灰は風に舞っていて外出は出来そうにない。

 全身防護をして出歩いてみようかと考えたが止めた。誰も歩いていないだろうし、たとえ出会えたしてもお互い同じような状況だということを確認するだけになりそうだ。

 万が一危険なことになっても誰も助けてはくれない。

 窓から見た感じだと車のタイヤが埋まっているので五十センチくらいは積もっていそうだ。

 雪であっても災害レベル大雪になる。

 昼を過ぎた頃から雨が降り出した。天気予報など確認することはできないが季節的にはまだ梅雨は開けていない。数日は続くのだろう。雨が灰に吸われているのを眺めるままの時間が過ぎていった。

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