第18話


 目の前の少女が泣いていた。


 絶対に人に弱みを見せようとしない少女が泣いていた。

 あの、いつも毅然したリンがこのような薄汚い男に押し倒されて、ただ涙を流していた。


 それだけじゃない。

 その男に殴られたのか、頬がひどく酷くはれて、制服の前が肌蹴ていた。

 それに眞己は目を細めた。


「……お前……リンに、なにをした?」


「まだなにも。これからするところだが、見学していくかね」


 眞己が取り囲まれたからか、余裕の表情を浮かべてリンに覆いかぶさっている男が言った。

 激昂のあまり、思わす一歩踏み出しそうになるが、それをどうにかとどまる。


 この言葉と状況なら判断するにまだ事前だ。最悪の事態にはなっていない。

 ならば、眞巳のすることは決まっている。


 鳴海が来るまでの時間稼ぎだ。


「聞きたいことがある」


「なんだ?」


「赤坂恵は、お前の情報を漏らさないために自決した」


 びくりっとリンの身体が震える。


「それが?」


「彼女がそこまでして──オレ達を裏切ってまで護りたかった妹は、今どこにいる?」


 ニタリと嫌らしい笑みを浮かべる男。


「決まっているだろう? とっくに始末したよ」


 その言葉に動揺したのは、眞巳よりもリンのほうだった。大きく目を見開いている。


 琴葉の情報通りだった。

 まだ生きているのなら助け出したかったが、本当にあねごは、この鬼畜に踊らされただけだったのか。

 この男を殺す理由がまた一つ増えた。


 わずかな殺気に反応したのか、周囲の男の重圧が増した。彼らの銃口はすでに手足や急所にそれぞれ向けられており、眞己は指一つ動かすことも許されない状況だ。


 圧倒的な武力に護られている男は再び行動を開始した。


「遠慮することはない。じっくりと鑑賞していくといい」


 その言葉を発してリンにのしかかる力を強めた。


「やめて……っ。いやあ、いやあぁ──っ!」


 リンが悲鳴を上げた。


 怒りのあまり臓腑が燃えるような熱を持ち、逆に頭の芯は氷塊をぶち込まれたようにガンガンに冷え切った。


「………………ッ」


 強く歯を食いしばりすぎた奥歯が砕けた。その痛みと血の味で理性を取り戻す。


 ここで激情に呑まれては駄目だ。自分のするべきことを思い出せと、何度も自分に言い聞かせる。もうすでに十分は経過したから、鳴海先生の部隊編成は終わった頃だろう。あとは到着を待つだけだ。

 だから、考えるべきはどうすれば時間を引き伸ばせるかだ。

 それを念頭において、眞己はゆっくり、、、、と行動を起こした。


「──おい」


「ァあ、なん──あ……?」


 栄一郎の言葉が終わる前に、眞己は銃を構えていた。

 それは周囲の誰も反応できない動きだった。


 眞己の動きが、特別速かったわけではない。むしろその逆だ。誰でも視認できるほど遅い動きだった。

 それにもかかわらず誰も反応できなかったのだ。特殊な訓練を受け、歴戦の猛者である姫宮家の私設軍──ハウンド部隊の者達ですら。


 これは鳴海先生に教わった技術の一つ。人の意識と感覚の間隙かんげきをつく技だ。これを極めれば相手に自分が死んだことを認識させることなく殺すこともできる。


「それ以上動くな。殺すぞ」


 眞己は必要以上に抑制された声を発した。

 栄一郎の血の気が引くのがここからでも見て取れた。


「さて、どうする。この距離だったら、オレが撃ち殺される前に、お前の軽そうな頭に二発はぶち込める」


 これで膠着状態には持ち込めた。あとはどれだけこの状態を維持できるかだ。


 周囲には銃を構えた十数人にもの軍人達。


 目の前には、血の気の引いた男の顔。


 そして、なにかに縋るように、それでいてその弱みを見せないように耐えているリンがいた。


 緊張感が場を支配した。


 汗が頬を伝って流れた。状況がこのままであるうちに鳴海が来ることを切に願った。

 だが、これが危うい状況であることもわかっていた。些細なことで場が動いてしまうことも。


 そして、場は動いた。この場でもっとも愚かな男の一言で。


「……ふっ、私を殺すか。いいだろう。やれるものならばやってみろ」


 蒼白な顔にそれでも虚勢を貼り付けて言い放った。


「ただし、冥土の土産を残してやろう。──おい、貴様等。私が殺されたら、この女を犯してから殺し、さらにその死体まで犯しつくしてやれ」


「──なッ?」


 ニヤリと栄一郎がいやらしい笑みを浮かべ、リンの身体を盾にするように引き摺り起こす。そして眞己に見せつけるようにしてリンの胸を弄ぶように揉みだした。


「──ゃ……っ」


「……ッ」


 眞己は引き金にかかる指を振るわせた。


 だが、それだけだった。


「どうした? 私が動いたら殺すのではなかったかァア?」


 眞己が動かないことを確信したのか、栄一郎の態度が不遜になった。リンの身体を弄る手の動きが激しくなる。


「────っ」


 リンがそれに耐えるように唇を噛みしめ声を押し殺していた。

 眞己はそれを見て、なお──動けなかった。動けば、場は完全に破綻してしまう。これ以上時間を稼ぐことができなくなってしまう。


「ク……、ハハハハハ! そうだ。それでいい。そのままでいれば良いものを拝ましてやろう。それともお零れでもくれてやろうかァ?」


 栄一郎が狂ったような哄笑をあげながら言う。

 眞己はその言葉に頭の中が真っ白になった。

 鬼道鳴海の応援のことも、死んだ赤坂恵のことも、脳内から消えた。

 残った思考はただひとつ──


 ──この男を殺してやる、それだけだった。


 照準を、栄一郎の、頭部に合わせる。引き金はただ引くのではなく、むしろ絞り込むようにする。それだけで弾丸は銃口から発射され、この男の頭蓋を粉々砕いてくれる。

 だが──


 眞己はそれを思いとどまった。


 いや、リンの視線に思いとどまされたのだ。

 眞己は唇を血が出るほど噛みしめた。


 彼女はわかっているのだ。眞己の目的が時間稼ぎだと。だが自分が無用に騒ぎ立てれば眞己が行動を起こすかもしれない。そうすれば眞己に待っているのは死でしかない。そしてその後に自分も犯され殺されるのだと。

 それがわかっているから彼女は声を押し殺して耐えているのだ。その目に涙をため、歯をくいしばりながら必死に。


 眞己を護るために。二人で生き残るために。


 ああ、クソッ。なんてことだろう。オレはリンを護るためにここにいるはずなのに、逆に彼女に護られているのだ。

 眞己は無力感に苛まれながら銃を下ろした。


「ハッ、とうとう諦めたか──」


 その後も栄一郎はなにかを言っていたようだが、眞己は聞いていなかった。


 ただあまりの怒りに灼つきそうになる理性を必死に繋ぎとめていた。許せなかった。目の前の理不尽さが、この醜悪な男が、なによりも自分の無力さが。それでも眞己はただ見ていることしかできなかった。ただ耐えているリンを。

 そして、彼女と目が合った。


 ──だいじょうぶだよ──


 リンは声に出さずに、そう唇を動かしていた。

 その目は涙で濡れていたのに。その細い身体は可哀想なぐらい震えていたのに。それでも、眞己を安心させるために無理やり笑みを浮かべたのだ。


 その瞬間──、かろうじて繋がれていた理性の糸がブチ切れた。


「悪い。リン」


 このまま、あと数分でも我慢できれば、鳴海先生がやってきてこの愚か者どもを殲滅してくれるのかもしれない。

 それでも──


 これ以上、この薄汚い男が、リンに指一本でも触れている状況に我慢ならない。


 そして、眞己は行動を起こした。


 誰も、反応できないほど、ひどくゆっくり、、、、、、、とした動きで銃を持つ手をあげた。


 銃口が、目標に向く。


 だがそれは栄一郎に対してではなかった。


 それは、自分が乗ってきた大型の単車CB一〇〇〇に対してであった。

 未だにエンジンがかかりっぱなしのCB──そのエンジンタンクに向けて、眞己はおもむろに引き金を引いた。


 ──銃声。


 その音でやっとハウンド部隊の者達が反応した。さすが歴戦の猛者達であった。一瞬で状況を理解し、ある者はこれから起こるであろう爆発から身を護ろうと伏せようとした。またある者は眞己を撃ち取ろうと引き金を引こうとした。またある者は栄一郎を護ろうと動いた。


 だが、遅い。

 銃弾は狙い違わず単車のタンクを撃ち抜いていた。


 また、そのときすでに眞己は栄一郎とリンまでの間合いを一瞬にして詰めた後だった。そのまま速度を落とすことなくリンを抱きかかえるようにして奪取する。その際、栄一郎に置き土産を残すのも忘れなかった。

 そして──


 ──轟音。


 爆炎と爆風が周囲の者達を残らず薙ぎ払った。

 それは眞己とリンも例外ではなかった。人如きでは抗することができない暴力の塊とでもいうべき衝撃が二人を吹き飛ばす。

 それでも眞己は、リンだけは護ってみせると、彼女を抱く手に力を込め、ただその身を盾とした。

 そして、意識は真っ白に染まった。


 後頭部に鋭い痛みを感じて目が覚めた。痛みは鈍痛となりいつまでも頭部に残り、めまいも、耳鳴りもやまなかったが、そんなことかまっていられない。

 気絶していたのは一瞬だったと思う。


「──リン!」


 眞己は目を開けるとまずリンの安否を確認した。

 だが、眼鏡が吹き飛ばされたのか、視界はぼんやりとかすんでいてハッキリしなかった。だが、リンの呼吸もしっかりしていたし、彼女から血の匂いもしなかったので大事はないと判断した。


「よかった……」


 それにひとまず安心するも、節々の痛む身体を無理やり動かして、リンを抱きかかえたまま動き始めた。もちろん出口へと向かうためだ。

 ハウンド部隊がこれで全滅したとは思えない。むしろ大部分は無事だろう。相手の混乱が収まる前に逃走するのが最良の策である。


「…………ッッ!」


 だが、その動きは途中で中断せざるを得なかった。

 こめかみに冷たい感触と共に、信じられないほどの殺気が押しつけられた。

 冷たい汗が背筋を伝う。


 どうする?


 思考は一瞬──

 殺れるまえに、殺れ──


 眞己は手首だけをかえし最小限の動きで銃口を相手に向けた。引き金にかかる指に力を込め──る前に聞き慣れた声が耳朶を叩く。


「この超短絡思考者め。私の燐に毛筋ほどの傷がついていてみろ。地獄の責め苦を与えてやるぞ……ッ」


 その獰猛な声の前に、眞己は思わず脱力してしまった。


「……遅いですよ。鳴海先生……」


 そう眞己に銃を突きつけているのは白衣に身を包んだ絶世の美女だった。


「黙れ。ここで一思いに殺してやるから往生しろ」


 眞己は深く嘆息した。


「勘弁してくださいよ。今はリンが最優先でしょう?」


 眞己がそう言うと、鳴海は忌々しげに鼻を鳴らし、やっと銃口を下ろしてくれた。


「さっさと行け。後始末は私がやっといてやる」


 そう言い残すと、鳴海は踵を返した。

 眞己はその背に向けて一言だけ言わせてもらった。


「鳴海先生。──出口ってどっちですか?」


 眼鏡を失った眞己の視界は、出口がわからないほどかすんでいた。


「……右だ。明るいほうへ向かえ」


 呆れたように鳴海は言った。


「どうも」


 眞己はリンを抱えなおすと、とりあえず指示通りに歩き始めた。



●△◽️



 燐を横抱きにした眞己を見送ると鳴海はため息をひとつ落とした。


 そして、改めて歩みを再開した。

 その周りでは、鳴海が召集した軍隊がハウンド部隊を容赦なく皆殺しにしていた。


 鳴海が出した命令はふたつ。


 ひとつ目はリンを救い出すこと。


 ふたつ目は『見敵殲滅』

 虫一匹たりとも逃すことは許さない。地獄絵図が展開されていた。


 その中で生きている敵は、一人だけだった。


「お久しぶりですね。栄一郎様」


 鳴海は酷薄に見下ろした。栄一郎は腹を押さえながら無様に床に転がっていた。


「き、貴様は、燐の──」


「ええ、燐のお世話をさせていただいております」


「き、き、貴様如きが……、本家の、血筋──ぎぃやぁあッッ!」


 鳴海は不快な声で囀る男の腹を無造作に蹴りあげた。


「あらあら、重症じゃないですか?」


 栄一郎の腹からは血が溢れ出していた。致命傷ではないが、一刻も早く治療をしないと出血多量で死ぬだろう。

 これをうちの部隊がやったとは思えない。鳴海の部隊の者だったら一撃で完全に殺している。だとすると、


「これは眞己の仕業か」


 いい置き土産をしてくれたものだ。リンを掠め取った合間に銃弾をこの男の腹にぶち込んでおくとは、私の教育の賜物だろう。そんなことを考えながら鳴海は栄一郎をなぶる言葉を再開した。


「苦しいですか? まあ腹の傷は地獄の苦しみを与えてくれる割に、結局は出血多量による死がほとんどですからね。長く苦しめること請け合いですよ」


「……あぐァ、ク、クソがァ。このままでは、済まさんぞ……。この、アマども……ッッ。姫宮の番犬が貴様等を狩ってくれるだろう、よ……」


 顔中に苦悶と脂汗を貼り付けながら、栄一郎が罵る言葉を吐いた。

 それを聞いた鳴海は唇の両端を吊り上げ獰猛な笑みをその美貌に刻んだ。


「クスクスクス。そうですね。確かにこのままで済ますなんてないでしょう。地獄の番犬はすでに狩りに出ていますし」


 獰猛な、そう地獄の獣の如き笑みを貼り付けたまま、鳴海は口調をガラリと変えた。


「そう。反逆者である貴様を──狩るために」


 そうして鳴海は、栄一郎の歯を砕きながら口内に銃口を突っ込んだ。


「がァ……ッ」


「正式に自己紹介をしたことはなかったな、クソジジイ。私は鬼道鳴海。姫宮一族第七の家門──暗殺を司る、地獄の番犬ケルベロスの長たる者だ」


 存在するはずのない──第七家。


 それは姫宮家の害になるものを殲滅するだけの家系。

 それは血の繋がりによってではなく、才ある子どもを選んで集められる姓なき一族。

 共通しているのは──殺戮の才能と、姫宮家への忠誠。

 地獄の番犬の牙は、何者であろうとも、その咽笛を噛み砕く。

 そう例え姫宮の血筋の人間であっても、姫宮家に害をなす者は始末されるのだ。


 その言葉の意味を理解した栄一郎の顔が恐怖に歪んだ。


「だ、助げれぐでぇ……」


 栄一郎が口に銃口がある状態の不鮮明な声で命乞いをした。


 鳴海はそれに真っ赤な唇を歪めることで返した。


「さようなら」


 ──ドンッッ!


 これで生きている敵はいなくなった。

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