4 - それは呪いのように

 年代物のガソリン車の後部座席に詰め込まれるや、僕は目隠しをつけられた。どこへ連れていかれるのかと訊ねても、もちろんはっきりとした答えはない。両脇を赤髪の男とロン毛男に固められたまま、悪路の揺れに耐えること数十分(本当はもっと短かったかもしれないし、長かったかもしれない。目隠しされたまま続く極度の緊張状態は、僕の時間間隔を容易に狂わせた)、僕は圏外アンフェイスのどこかにある雑居ビルの前にいた。

 驚いたのはそのビルが全くと言っていいほど風化の影響を受けず、綺麗なまま佇んでいるということだ。


「ここは……」

「〈ヴォルケイノ〉って言やぁ、分かるか?」


 隣りでそう言ったのは赤髪の男だった。口にされた名前は、少なからず一度くらいは聞いたことのあるものだった。

〈ヴォルケイノ〉というのは〈天傘領域アンブレラ〉周辺の圏外アンフェイスで活動するギャング集団の名前だ。無法地帯である圏外アンフェイスにはこういう組織が乱立しているが、中でも〈ヴォルケイノ〉は武闘派で知られる危険な集団だ。

 おそらく僕も、そしてヒナタも恐ろしく厄介な相手と関わってしまったことは確かだった。そしてそれ同じくらいの確かさで、これから起こることのろくでもなさを予感した。

 僕は彼に言われるがまま、入り口から続く段差の急な階段を上る。

 二階にある事務所に入ると、ちょうどソファに腰かけて煙草を吹かしていた男が立ち上がり、赤髪の男へ向けてどすの利いた声で挨拶をする。どうやらこの赤髪は組織のなかでもそれなりの立ち位置らしかった。

 奥にある扉の前に立たされる。赤髪の男が扉を三度ノックした。


「例の男を連れてきました」

「入ってください」


 嗄れた声が扉の向こうから聞こえた。赤髪の男が扉を開け、僕は中へと入るよう顎で促される。

 部屋のなかは甘い香の匂いがした。赤を基調とした毒々しい内装に、ソファや机、棚などの調度品はどれも艶やかな黒で統一されている。ヒナタの花屋とはまた違った意味で色に満ちた空間はもはや視覚への暴力とでも言うべき鮮やかさだ。部屋の奥の壁には〝〟の荒々しい書が額に収められて飾られている。そのすぐ下に、奇妙な男がいた。

 皮膚が爛れて剥がれ落ちて剥き出しになった顔の右側。左半分だけ施したピエロのような白塗りの化粧メイク。左の目元には獣に引っ掛かれたような三本旋の傷があり、撫で付けた髪は金髪の癖毛。奇抜過ぎる緑色のスーツと紫色のシャツは、圏外アンフェイスではまずお目にかかれない上等な生地のものだと一目で分かる。

 このピエロ男が赤髪の言っていた〝アニキ〟なのだろう。想像していたのとはだいぶ違ったけれど、その異様な佇まいにはそう納得できるだけの凄みが滲んでいた。

 ピエロ男の右の義眼がぐるんと動き、僕を捉えた。


「ようこそ☆ 〈ヴォルケイノ〉へ」


 ピエロ男が指を鳴らすとどこからともなく陽気な音楽がかかった。ピエロ男は長い舌でべろりと口の周りを舐め回し、目の前に来るよう僕へ向けて手招きをする。


「ようこそ、アクタガワ。いや、?」


 その一言で僕は既に全身に張り巡らせていた警戒と緊張を、より鋭くせざるを得なかった。


「まあそう警戒しないでくださいよ。私の名はスカーフェイス。見ての通り、〈ヴォルケイノ〉で幹部を任されている者です」

「僕を知っているのか……」

「もちろんですよ。拳闘士名リングネーム、イエロージャケット。当時最年少記録の一四歳二カ月で〈機鋼拳闘アイアンフィスト〉公式ライセンスを取得。戦績は七戦無敗。史上最速でのセカンド・ギア昇格も視野に収めていたけれど、七戦目の勝利のあと、突如としてリングから去った逸材。それが君でしょう、アクタガワ」


 僕は全身から嫌な汗が噴き出すのを感じていた。鳴り響いている陽気な音楽は頭のなかでどんどんと大きくなり、乱暴にも思えるシンバルの音が脳の根っこを揺さぶった。


「やっぱりあれですかね。七戦目。あの事故がきっかけなんですか?」


 ピエロ男――スカーフェイスは顔の左半分をにたりと歪める。僕は何も答えられなかったし、答えたくなかった。がくがくと震え出す全身を抑えつけることで精いっぱいだった。


「まあ気持ちは分かりますよ。試合規約レギュレーションギリギリの裏拳。いくらグローブが薄い部分だからってまさか首の骨が折れて、そのまま死んでしまうなんて思いもしないですよね。私も初めてときは、信じられないくらいに吐きまくったもんですよ」


 茶化すように嗚咽をしたあとで、スカーフェイスが楽しそうに笑う。

 この男の言う通りだった。僕はあの試合――七戦目、勝てば上位リーグであるセカンド・ギア昇格戦への挑戦権を獲得できると言われた試合で、対戦相手を殺した。試合規約レギュレーションでは認められていない拳の裏側での打撃だった。裏拳は明確な違反ではない。しかしグローブの構造などから危険行為に当たる可能性の高い行為だ。だから普通は誰も使わず、だからこそ意表を突く必殺のカウンターになり得たのだ。そして僕の渾身の一撃を頸椎に受けた対戦相手はそのままリングに沈み、二度と立ち上がることはなかった。

 あのときの感触は今でも覚えている。余すことなく伝わった衝撃が人体を破壊する手応えとでも言うべきだろうか。噛み締めたはずの勝利の余韻はその実、摘み取った命の残響だった。ぐるんと回った首。光を失った虚のような目。どこか遠くで響いている観客の悲鳴。

 もちろん〈機鋼拳闘アイアンフィスト〉は常に危険と紙一重のスポーツだ。当たり所が悪ければ、死者が出ることだって珍しいことではない。それに僕の裏拳は相手の意表を突き、勝利を捥ぎ取るための選択であり、相手に対する害意や、まして殺意などがあったわけでは断じてない。

 だからあれは事故だ。トレーナーや同じジムの先輩たちは僕に何度もそう言ってくれたし、実際に僕も繰り返し自分に言い聞かせた。

 だけど対戦相手のあの顔が頭から離れないのだ。光の失った鉛玉みたいな目に僕を鈍く映しながら、何度だって訴える。俺を殺したのはお前だ、と。

 そうして僕はリングから退いた。いや、正確に言うならばリングに上がれなくなった。競技用義腕の鋼と蒸気の匂いを感じるたび、スポットライトが肌を焼くたび、歓声と野次のなかに身を置くたび、僕の心臓は信じられないくらいの早鐘を打った。震える全身には脂汗が噴き出した。視界は眩み、内臓が捩れて吐き気が込み上げた。

 いつだって、あの顔が僕を見ていた。

 僕は眉間に力を込めて霞んでぼやける焦点を定めようとする。楽しげながらも冷酷さと不気味さに漲るスカーフェイスの歪み切った笑顔が見える。


「さて、前置きはこのへんにしましょうか。とにかく会えて光栄ですよ」


 スカーフェイスは薬指と小指のない右手を差し出す。前置きというには少し挑発的に過ぎるだろう。僕は数瞬だけ迷った末、その手を握り返して握手を交わす。


「私たちのことは知ってます? 〈ヴォルケイノ〉」

「聞いたことはある。詳しくは知らない」


 既に話は本題へと入っていた。僕は目の前の男に注意深く意識を向ける。だがあまりに奇抜な顔面のせいか、意図どころか表情すらもろくに読み取れない。


「うん、そうですか。なら話が早いです。仕事の話がしたくて呼んだんです」

「仕事?」

「そう。今度、ウチが仕切ってる賭場で闇拳闘するんですけどね。ルール無用、相手が死ぬか立てなくなるかするまでのデスマッチ。そのメイン試合に出てほしいんです。相手殺しのイエロージャケットにはぴったりでしょう?」

「断る。僕はもうリングに立てない。それに立つつもりもない」

「てめえっ!」


 即答が不躾だったのだろう。部屋の入り口近くで限りなく存在感を消していた赤髪の男が声を荒げる。すぐさまスカーフェイスが中指と薬指の間から縦に裂けている左手を翳した。視界の隅に飛び込んできた赤髪の男が金縛りにあったようにぴたりと止まる。もちろん金縛りや手品などではなく、絶対的な上下関係が為せるわざだ。


「どーどー。今は貴方が出る幕じゃない。弁えましょう?」

「し、失礼しました……」


 赤髪の男が引き下がる。スカーフェイスは仕切り直すように咳払いを一つ挟む。しかし続いた言葉は僕の予想の遥か斜め上のものだった。


「アクタガワ。貴方、あの花屋のことお好きなんでしょ?」


 意味が分からなかった。もちろん思春期の少年じみた恋バナを咲かせたいわけではないだろう。何となく、不愉快な予感がした。


「言った通り、このオファーは仕事の相談です。つまり貴方と私は対等なビジネスパートナー。あのイエロージャケットがリングに上るとなれば、盛り上がることは間違いないですからね。当然、ファイトマネーだってはずみます」


 スカーフェイスは開いた右手を僕へ向け、それから指が足りないと気づいて左手に変えた。


「五〇万……」

「いいや、ゼロが一つ足りません」


 僕は思わず息を呑んだ。驚愕を隠すことなんてできやしなかった。そして同時に、先の恋バナじみた発言の意図を理解する。

 五〇〇万――それはヒナタが抱える借金を返済してなお、お釣りがくるほどの大金だった。いや、それだけじゃない。それほどの大金があれば、彼女を〈天傘領域アンブレラ〉へと連れていき灰貌症の治療を受けさせることだってできるかもしれない。


「そうですね、よし。前金で五〇〇万。勝てばもう五〇〇万。これだけあれば灰貌症だって治療してやれますよねぇ。悪い話じゃぁないはずです。貴方にも、花屋にも。もしかすると幸せな未来が待っているかもしれないですよ」


 スカーフェイスは左の口角を吊り上げる。僕は答えに窮し、唇を浅く噛んだ。

 ヒナタのことを考えれば断る選択肢はない。彼女の灰貌症は既に末期症状と呼べるほどにまで進行してしまっている。

 頭では分かっていた。だけどリングが怖かった。再びあの場所に立とうとする自分を思い描くだけで、僕の視界はぐにゃりと歪み、手足は意志とは無関係に震え出すのだ。

 僕が黙り込んでいると、スカーフェイスは両手を打ち鳴らした。


「まあいいでしょう。イベントは一〇日後。それまでに答えを出してくれればオーケーです♪」


 スカーフェイスは胸ポケットから紙片を一枚取り出し、それにイベント会場となる場所のアドレスと自分の連絡先を書きなぐる。立ち上がったかと思えば執務机を軽々と乗り越え、僕のシャツのポケットへとそれを入れた。


   ◇


〈ヴォルケイノ〉から解放された僕はヒナタに無事を伝えるために花屋へと向かった。

 いや、無事を伝えるためなんて建前だ。僕は怖かったのだ。再びリングへ立つよう告げられたことが、そしてそんな自分の姿を想像してしまうことが、とてつもなく恐ろしかった。手足は震え、全身に嫌な汗が噴き出して止まらなかった。

 だから僕はとにかくヒナタに会いたかった。ヒナタの顔を見れば、あの笑顔を向けられれば、きっとこのささくれだった心も癒すことができる。僕はそんなことを期待して、自分本位な感情のままに花屋へと向かったのだ。

 その夜、〈黒灰ダスト〉がここ最近では珍しいほどに強く降っていた。そのせいで夜の闇はどこか白んで見える。僕は花屋の廂の下に小走りで飛び込み、肩に積もる〈黒灰ダスト〉を払いのける。そこでようやく違和感に気づいた。

 とっくに閉店時間は過ぎている。それなのに花屋のシャッターは空いたままだった。

 胸騒ぎがした。僕は扉を押し開けて、ヒナタの姿を探した。


「――ヒナタッ!」


 彼女はすぐに見つかった。花に囲まれた通路の真ん中で、車椅子から落ちたヒナタがうつ伏せに倒れていた。


「ヒナタッ、ヒナタッ!」


 僕は駆け寄って彼女を抱き起こす。その拍子、灰化していた彼女の右肘から先がぽきりと折れた。

 僕は絶句した。さっき一緒にいたときよりも症状が明らかに進んでいる。見える肌のほぼ全てが灰化し、手が触れる先からもろもろと表面が崩れていく。身体は信じられないくらいに軽く、そして物のように冷たかった。

 僕は速やかに、だが細心の注意を払いながら彼女の身体を車椅子に座らせる。脈も呼吸も微かだったがまだある。ヒナタはまだ生きている。

 僕は自分の防塵マスクを彼女にかぶせ、そのまま花屋を飛び出す。

 無我夢中だった。降りしきる〈黒灰ダスト〉に抗いながら、僕は彼女を乗せた車椅子を押していく。白けた闇は、ごうごうと風の音を響かせながら、今にも僕らを呑み込もうとしているようだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る