第二章 【大銀杏の引力】 舞台:自宅

ベッドの上。誠二郎がハツの右乳房をしゃぶっている。豊作な干し葡萄の実をほしいままにしているのだ。


誠二郎「母乳は出ないのか? ハツ」


ハツ「人の母ではないからね」


誠二郎「とくとく」


ハツ「……」


誠二郎「とくとく」


ハツ「……」


誠二郎「ごめん。乳首に跡がついちゃった」


ハツ「気にしなくていいよ。天然のおしゃぶりさ」


誠二郎「それじゃあ、お言葉に甘えて」


ハツ「しっかり吸いなさい。慶応来の酸いも甘いも知った生気さ」


誠二郎「とくとく」


ハツ「……」


誠二郎「とくとく」


ハツ「……」


誠二郎の頭に、無数の光景が広がる。ノスタルジックな光景。軍帽をかぶり列車に乗る青年。彼との別れを惜しみ涙する華奢な美人。


青年はやがて凶弾に倒れ、人事不省となり帰らぬ人となる。そのイメージの奔流。


誠二郎「この光景は……」


ハツ「かつて私の乳を吸った者たちの宇宙。今は死者となったけど、私の乳首を通してあなたたちは繋がっている。


イメージの中で、青年が『ハツ、ありがとう』という。イメージの先を追いかけるように、誠二郎はハツの乳首を乱暴に吸引する。


ハツ「……痛い」


誠二郎「しゅごごごごごごごごごごごご」


誠二郎は途端に涙を流した。


誠二郎「俺は今、死者と会話をしている」


ハツ「彼はなんて?」


誠二郎「ありがとうって。……みんな、ありがとうって」


ハツ「そう。それならよかった」


落涙の伝播。乳泉とくとく宇宙、それすなわち、時間の重力が放射する大銀杏の神秘。


惜しむらくは、それがハツの最期の言葉になったことだ。


ベッドに横臥しぴたりとも動かなくなったハツの姿を見て、誠二郎は愕然とした。ハツの乳首からは、もう何の味もしない。青年の姿も見えやしなかった。

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