ある先人の話

 それから1週間後の昼下がり、僕はいつものようにリビングの椅子に腰掛け、窓の外に広がる空を見上げていた。その日は珍しく雨が振っておらず、太陽が雲間から顔を覗かせていた。ほの暗い部屋の中が、太陽の姿があるだけで少しだけ明るくなったように感じられる。

 その時、つけっぱなしにしていたテレビからある単語が聞こえてきた。それは僕の意識を引き寄せるのに十分な力を持っていた。僕の耳に届いたのは、『引きこもり』という単語だったからだ。

 僕はテレビの方に視線をやった。『引きこもりの現状。~社会復帰のために私達が出来ること~』というテロップが表示されている。スタジオには神妙な顔をした女性キャスターと、顔にモザイクをかけられた男性が映っている。


『本日は、ここ数年で問題になっている若者の引きこもりについて焦点を当てたいと思います。長期化する引きこもりから脱するにはどうすればいいのか? それを考えるために、5年間の引きこもり生活からの脱出に成功した山田さんにお話を伺いたいと思います。山田さん、よろしくお願いします』


『よろしくお願いします』


 女性キャスターが淀みない口調で言い、山田さんと呼ばれた男性が頭を下げた。僕は食い入るように山田さんの姿を見つめた。


『まず、山田さんが引きこもりになったきっかけを教えていただけますか?』


『はい、私は大卒で就職したのですが、最初の職場が非常にハードだったんです。みんな自分の仕事が忙し過ぎて新人に構っている余裕がない。質問をすれば嫌な顔をされて、理解できないと罵られる。毎日人に気を遣って、神経をすり減らしながら会社に行っていましたね。

 それでも最初は頑張ったんですよ。毎日深夜近くまで残業して、休日返上で働きました。睡眠時間は3、4時間でしたね。もう心身ともにボロボロですよ』


 山田さんの話を聞きながら、僕は胃がきゅっと締めつけられる気がした。まるで数ヶ月前の自分を見ているようだ。


『そんな生活を続けて2年くらい経った時でしたか。仕事中に突然倒れたんです。気づいた時には病院にいて、過労と診断されました。

 医師からは休職を勧められましたが、最初はその気はありませんでした。自分の居場所がなくなるんじゃないかと不安だったんです。

 でも……2、3日病院で過ごすうちに、自分の身体も大切にしないといけないと考えるようになって。結局休職することにしました』


 僕は俯いた。山田さんは僕なんかよりも遥かに過酷な環境で2年間も頑張ってきたのに、僕はたった10か月しか耐えられなかった。そんな自分の体たらくが恥ずかしくなったのだ。


『大変なご苦労をされてきたんですね……。退院後はどんな生活を送っていたんですか?』女性キャスターが眉を下げて尋ねた。


『最初は正直、何をしていいかわかりませんでしたね。ただ、昼間から家にいることの違和感や、自分が社会から置いて行かれたような焦りは毎日感じていました。一刻も早く職場復帰しようと、最初はそればっかり考えてましたね』


 僕は自分が休職したての頃を思い出した。あの頃の僕も山田さんと同じような気持ちを抱いていた。自分が社会の本流ほんりゅうから外れたことに罪悪感を抱き、早く元の生活に戻らねばと焦燥を感じていた。


『でも……そういう生活を1か月くらい続けてるうちに、だんだん仕事のことを考える時間が減っていったんです。今の生活が思いのほか気に入ったというか……。最初は職場復帰を望んでいたのに、おかしいですよね』


 山田さんが自重したように笑った(と思うが、モザイクなのでよくわからない)が、その気持ちは僕にもよく理解できた。一度オアシスを経験した者は、二度と砂漠に戻ろうとは思わない。


『休職予定期間は半年でしたが、会社に戻りたいとは思いませんでした。だからそのまま退職することにしたんです。

 それからまた半年ほど経って、そろそろ仕事を探そうと思ったんです。

 でも、求人情報を見ても応募する気にはなれなかった。もし新しく働いた職場で、また前と同じような目に遭ったら? あれだけ辛い経験をもう一度して、自分は耐えられるのか? いろいろ考え出すと止まらなくなりました』


 それはまさに、今の僕の状態だった。いつか社会に戻らねばいけないことはわかっている。だけど踏み出すのが怖い。また抑うつの波に呑まれるのではないかという不安に押し潰されそうになる。


『……そんな生活を続けて、気づいたら5年も経ってました。私もさすがに焦りましたよ。

 でも、いざ仕事を探そうとするとやっぱり尻込みしてしまうんです。面接官に無職期間をとがめられるんじゃないかと思うと怖くて、結局何も出来ずに時間ばかりが過ぎて、完全に悪循環でした』


 僕は今や身を乗り出すようにして山田さんの話を聞いていた。番組の冒頭で、山田さんは引きこもりから脱出したと言っていた。僕と同じ境遇にあった彼は、どうやって社会へのかけはしを渡すことに成功したのだろう。

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