6

 昼下がり。モデルの仕事の時間まで少し間が空いたので、僕はしばらく振りに、旧市街を訪れた。片手に、ささやかな花束をたずさえて。

 湊が身を投げた廃ビルは、しくも僕が選んだ場所と同じで、あまりに出来すぎた偶然に、いささか怖いような気持ちになった。

 旧市街は、新市街に満ちたスモッグとは種類の異なるよどんだ空気がただよっている。腐り、汚れ、蝕まれた、世界の底に吹き溜まった空気だ。しばらく忘れかけていたけれど、僕にとっては、至極、身に馴染んだもの。

「よぉ、渚じゃないか」

 不意に、街路の陰から、声が掛かった。聞き覚えのある声だ。僕はそちらを向く。僕が過去に属していたグループのメンバーが三人。酒かドラッグか、どちらにせよわった目で、僕を見ている。

「久しぶりだなぁ、渚」

 ざり、と汚れたブーツの底が、ひび割れた石畳を踏む。

「飛び降りて死んだってうわさで聞いたけど、なんだ、生きてるんじゃん」

「じゃあ、どこかの金持ちに拾われて飼われてるって噂のほうが本当だったわけか」

「なんにしても、だ」


「勝手に幸せになるなよ、むかつくから」


 どん、と肩を小突かれた。はずみで花束を取り落としそうになって、とっさに持つ手に力を込める。一瞥いちべつしたメンバーの一人が鼻で笑った。

「花なんか持って、こんな場所に何の用だったんだ?」

「勝手にメンバーを抜けて、行方をくらまして、ただで済むと思ったのかよ」

 三人が、取り囲むように距離を詰めてくる。じりじりと、反対側の路地裏の壁際へと、僕は追いつめられていく。

 メンバーの一人が、ジャケットのポケットからバタフライナイフを取り出した。こぼれた刃をちらつかせながら、さらに僕に詰め寄って、

「ペナルティだ。ちゃんと払うもの払っていけよ。持ち合わせがないなら、体で払ってもいいぜ? 得意だろ、お前」

 下卑た視線が舐め回すように注がれる。僕は唇を噛んだ。振り切って逃げるにも、三対一では分が悪い。でも、ここでみずから脚をひらく選択肢は、今の僕にはなかった。以前の僕なら、自分の体なんてどうでもいいと、容易たやすく彼らに与えていたのに。

「いやだ」

 相手をまっすぐににらみつけ、僕は拒絶した。勝ち誇ったようだった相手の瞳が、仄暗く揺らめく。

「なんだと?」

「おい! お前、拒否できる立場かよ」

「稼ぎ頭だったくせに抜けやがって」

 抵抗は虚しかった。肩をつかまれ、足を払われ、両側から引き倒される。

 押さえつけられた手の先で、花束がぐちゃぐちゃに踏み潰されていく。

「そっち、脚、もっと押さえろ!」

「噛まないように、これでも咥えさせとけ!」

「このっ……おとなしく……っ」

 ガッと頭と鳩尾みぞおちに衝撃が走り、痛みとともに視界がぶれた。息が詰まり、口の中に血の味が滲む。一拍遅れて、頬を殴られ腹部を蹴られたのだと理解する。

 いやだ、と、強く、つよく、思った。なおも抵抗しようと、手足に力を込める。

 この体を傷つけられたくない。

 だって、この体は……、

 今の、僕の体は――


「やめろ」


 凛と響く声が、雑音を打った。ここにあるはずのない声だ。ありえない。だって、この声は、

「……群青……?」

 路地裏の入り口に、長身の影が立っていた。走ってきたのか、肩で息をしている。

「誰だ? あんた」

 ぞろぞろと、僕を押さえつけていたメンバーが立ち上がり、僕から群青へと距離を詰めていく。

「彼は私のモデルだ。傷をつけるな」

 後退するどころか、群青は彼らを正面から見据え、こちらに向かって歩いてくる。だめだ、群青。来ちゃダメだ。叫びたいのに、込み上げる痛みで声が出ない。

「……群青、逃げ――」

「金が欲しいのなら、拾うといい」

 静かに、淡々と、それでいて有無を言わさない強い声色で、群青は言い放った。そして無造作にポケットから札束を取り出すと、彼らの背後へ、ばさりと投げた。札束は空中で解け、ばらばらと紙吹雪のように舞い散っていく。

 虚を突かれたのは、メンバーだけではなかった。

「立てるか?」

 掛けられた声に我に返ると、群青が僕のそばかがんで、背中を支え、抱き起こしてくれている。

「……大丈夫……」

「では、走ろう」

 手を引かれた。なんで、どうして……考える前に、駆け出していた。無我夢中で、群青の背中だけを見つめて、走った。

 旧市街を抜けて新市街へと辿り着くまで、群青は僕の手を離さなかった。

 絵筆を握る利き手だった。

 泣きたくなるような、温かい手だった。


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