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 群青との日々は、穏やかに過ぎていった。

 群青は朝型らしく、僕が起きる頃には既にキャンバスに向かっていて、けれども朝食は(下手をすれば三食すべて)缶コーヒーで済まそうとしてしまうから、僕が作る食事を一緒に食べるのが日常になった。

 晴れた日には、群青はスケッチブックを片手に写生に出かけることも多く、僕も同行させてもらった。

「君は退屈ではないか?」

「全然。……群青こそ、僕がいて迷惑じゃない?」

「いや、全く」

 そんな会話を重ねて。

 ひと月が過ぎて、街路樹に新芽が萌え、そろそろ初夏の足音が聞こえてきた頃、群青は僕に、珍しく買い出しを頼んだ。

 群青との生活にもすっかり慣れて、僕は自分から家事の一切を引き受けていた。日当一万とはいうものの、モデルをするのは昼と夜に数時間ずつしかなく、やはり僕には過ぎた額に思えて落ち着かなかった。

 それに、一緒に暮らして気付いたことだが、群青は、かなりの生活破綻者だった。食事はすぐに缶コーヒーで済まそうとするし、一度絵に集中すると、平気で夜を徹して二日も三日も没頭してしまう。洗濯はかろうじてするものの、掃除に至っては壊滅的で、部屋がモノで溢れずに済んでいるのは単に画材以外のモノ――生活雑貨自体が、極端に少ないからだ。

「私は君を使用人として雇った覚えはないが……」

「これくらいさせてもらわないと、僕の気持ちが休まらないんだ。……もちろん、余計なことでなければ、だけど」

「余計なことではない」

 群青は即答した。

「私はどうにも家事というものが苦手だ。だから、とても助かっている」

 素直な感謝の言葉を貰って、僕の頬は、自然とゆるんだ。役に立てて嬉しい。胸の奥が、じんわりと温かくなる。

「それじゃ、買い出し、行ってきます」

「ああ。……頼む」

 アパートメントを出て、近くのグロッサリーストアへ向かう。陽射しは高く白く、そして明るい。街路樹の新緑と相まって、その眩しさに、僕は目を細めた。

 群青に頼まれたものはすぐに買えて、僕はついでにその他の日用品も何点か揃えてから帰路についた。それでも、予定していた時間よりは、少し早い。

 群青に頼まれたものは、ダースでパッケージされている缶コーヒーだった。群青はストック棚に、同じ銘柄の缶コーヒーを大量に買い置きしている。休憩時間には必ず一本か二本は開けているし、外出時には上着のポケットに二本か三本、入れていくのを忘れない。初めて出会った日に彼が未開封の缶コーヒーを僕に差し出したのは、いつでも持ち歩いているからだったのだ。

「ただいま、群――……うわっ!」

 玄関を開けようとした丁度そのタイミングで内側から扉が引かれ、僕は勢い余って前によろけた。

「……っ、と」

 家の中から出てきた硬い胸に、僕は正面からぶつかる格好になった。相手は少し驚いた声を上げたものの、危なげなく僕を受けとめてくれた。

 僕より背の高い……僕よりいくつか年上だろう男の人だった。肩くらいまで伸ばした淡い色の髪を、後ろで無造作に束ねている。カラーレンズの眼鏡をかけ、高級そうな派手な色のジャケットを羽織っている。誰だろう……。

「あれ? 君、もしかして、渚・カナイくん?」

「……そうですけど」

 初対面の人に軽い口調で確認され、僕は胡乱うろんさを隠せずに彼を見上げた。

「ふうん。君が、ね……」

 僕の頭の天辺から足の先まで、彼は値踏みするように視線を往復させた。

「あの、貴方は……?」

 居心地の悪さに、僕は思わず声を低くして問う。「あぁ、俺?」と、彼は軽薄に、へらりと笑った。

「俺は、傑流スグル・サクマ」

「サクマ……?」

 思わず聞き返した僕に、彼――傑流・サクマは、三日月形に目を細めた。

「そう。群青先生を推している画廊の次期オーナーってこと」

 ヨロシク、と彼はわざとらしく愛嬌たっぷりに小首をかたむけてみせた。僕は決して背が低いほうではないのに(むしろ、この国の平均身長よりは高いくらいなのに)、彼を見上げなければならないことが、ひどく悔しかった。

「それじゃ。これからも御贔屓ごひいきに」

 片目をつむり、彼はひらりと僕の横をすり抜けて――

 刹那、振り向きざまに、すっと僕に耳打ちをした。

「君は、気をつけて」


「群青先生に、とらわれないように」


「えっ……?」

「あっ、そうだ」

 僕の声を遮り、彼が口の端だけで笑う。

「手当てしてあげなよ、群青先生、けっこう、酷くしちゃったからさ」

「なに、言って……」

「じゃあね」

 今度こそ、彼は僕に背を向け、振り返ることなく階段を降りていった。いやな予感がした。僕は急いで玄関を開ける。もどかしくて、廊下の途中で荷物を放り出し、アトリエを抜けて、群青の寝室へ。

「群青ッ……!」

 最初に目に入ったのは、乱れたシーツと、散らばった紙幣。そして鼻腔をかすめた、記憶に染みついた忌まわしい臭い。

「……群青……?」

 ぐらり。視界がゆがむ。眩暈めまいがする。

 缶コーヒーを片手に、群青はベッドの端に座っていた。ワークパンツは穿いていたものの、シャツはボタンが引き千切られ、痩せた胸が暴かれている。青白い肌に、打撲と鬱血の痕が彼処かしこに浮いているのが見えた。衣服にもシーツにも点々と紅いしずくが滲んでいて、その中には、僕が目を背けたくてたまらないものも飛び散り、染みを作っていた。

「……早かったな」

 群青が視線を上げる。乱れた髪。掠れた声。

「なに……して……」

「君には関係ない」

 低い声で一言、答えて、群青は切れた唇の端をめた。

「利き手は無事だ。彼は、私の手を絶対に傷つけはしない」

「そういう問題じゃないし、関係なくなんか……っ!」

 ない、と言いかけて、口をつぐむ。関係なくなんかない。そう言えたらよかった。でも、言えはしない。僕は群青に雇われているだけの、ただのモデルに過ぎない。群青に、関係ないと言われてしまえば、僕は排除されたも同然だ。どうすればいい。僕は、どうすれば……。

 そんな僕を見て、群青が、小さく息をつく気配がした。

「……悪い」

 何についての謝罪なのか。群青は悪くない。

「あの人は……貴方の恋人?」

「いや、違う」

「じゃあ、脅迫でもされているの?」

「違う」

「……なら、何かの見返り?」

「それも違う」


「これは、彼の願いの代償だ」


「……代償……?」

 僕は思わず聞き返す。暴力的に抱かれることが、何の代償になるっていうんだ。体の横で、僕は両手を握りこむ。見慣れた紅い色に恐怖した。嗅ぎ慣れた白の臭いに嫌悪した。せせらわらう世界に足首をつかまれた気がして、やめろ、やめろよと、胸の内で僕はわめく。

「すまない」

 凛とした静かな声が、僕の耳を柔らかに打った。僕は、はっと顔を上げる。

 群青が、深い青の瞳で、僕を見つめていた。

「私は……どれだけ金を積まれても、彼をモデルにすることはできなかった」



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