呼ばない。呼べない。 ー水瓶座の夜夜中

 

 ぽたぽたと落ちる水滴を、私はさっきからずっと眺めている。

 長風呂だからあっという間に浴槽のお湯は温くなる。お湯を両手で掬って、しわしわにふやけた指に視線を向ける。これならまだ入れる。カランを右回りに捻れると熱いお湯がドボドボと湯船に注がれた。追い焚き機能のある家に住みたかったけれど、お風呂とトイレが別なだけよしとしなければ。

 カランとは蛇口のことなのだけど、なぜかうちの実家では蛇口のことをずっとカランと呼んでいた。その癖が染み付いて、みんなの前でそう口にしてしまうと、不思議そうに私を見るので、ちょっと気まずさがあったりもする。昭和初期に建てられた一般的な実家はお洒落でもなければ派手でもないのに、なぜそんな言い方をしてたのだろう。

 浴槽の中で半端に伸ばした足の先に、熱湯が降り注いでいる。足元から身体がじわじわと熱くなる。もう我慢できないかもって思ってから、足先で熱湯を攪拌させる。こんなことをしているから浴槽から外に出ると、毎回足の先が真っ赤になっている。いつからかわからないけど、この入り方が癖付いてしまった。変な癖ってもしかしたら私、沢山あるかも。そう思ったのはつい最近のことだ。

 カランを捻って熱湯を止める。湯気が立ち上ってあっという間に鏡には何も映らなくなった。低く換気扇の音がする。耳を澄ませて水滴の音を聞く。お風呂場の中にいると、私は家のどこにいるよりも気持ちが落ち着く。出来ればほとんどの時間をお風呂場で過ごしたいと思うほど。お風呂で眠くなるのは、自分が生まれる前に戻った気持ちになるからだと、私は思っている。

 冷えた肩を湯船に沈める。お尻を浮かせると背骨の一つ一つがゆっくり曲がって、浴槽に溶ける。伸びた髪の毛が浴槽の中でゆらゆら揺れる。狭い浴槽で足を抱えて、横をむく。左耳がお湯に触れて頬が沈んでいく。右耳で水滴の音を聞く。そのまま湯船に体の全てを沈めた。体の中の全てを吐き出すように少しずつ息を吐く。泡が浴槽を満たしているだろうけれど、私には見えない。いつからだろう。お湯とか水の中で目を開けられなくなったのは。私たちが何も怖くなくて、何も自分以上に大切なものはなかった頃、私はいくらでも目を開けていられた。お湯の中でも水の中でも、みなければいけないものも、みなくてもいいものも、なんでも私は見ていられた。大人になるにつれて、どんどん、どんどん目は開けられなくなった。私はもう、痛い想いもしたくない。勢いよく水面から顔を出し、息を大きく吸って、もう一度浴槽に沈む。溢れたお湯の音がくぐもって遠くに聞こえた。わずかな水滴の浸食も許さないように目をきつくつむった。


 冷蔵庫から冷えたお茶を取り出す。頭の中がぼーっとする。多分のぼせてるな。でも、こうでもしないと頭の中から考え事がなくなっていかないのだ。結構無理矢理なやり方かもしれないけど、今の私はこういうちょっと荒っぽいやり方がちょうどいい。

 お茶を口に含んで下で転がす。ゆっくり飲み込んでいくと、体の中を水分が通っていくのがわかる。なん口かお茶を飲んでから暗い部屋のベットに横になった。目を閉じると少し天井が回っている気がする。ゆっくり目を開けて、閉じるを繰り返す。目が暗闇に慣れてくると少しだけ体が楽になった。でもほら、また。体が冷えると同時に、頭の中はふつふつと色々な考えが巡ってきて結局頭でっかちになる。せっかく空っぽにしたくて何時間もお風呂場に止まっていたのに。もう一度お風呂に入りたい。もう一度、お湯の中に包まれていたい。デジタルの時計は午前2時をすぎている。


 どんなに技術が発達してもいい。私が老いて時代というものに囚われなくなって、時代に取り残されていい、それが自然なことだと思えるようになっても、頭の中が全て見えるような技術だけは産まれないでほしいと思う。思考が実体化して好き勝手に動き始めるような時代だけは絶対に来ないでほしい。愛想笑いが全部バレてしまうのが嫌だとか、本当は大嫌いなものを好きだと言っていることとか、そういうことが見えるのが嫌なわけじゃない。私が決して頭の中でさえ呼ばない名前が、白日に晒されるのが怖いのだ。その名前を聞くだけで、その名前を見るだけで、その名前を連想されるものだって、何一つ聞きたくなくてみたくない。頭の中の全てが見えて仕舞えば、私が決して呼ばない名前が、私の体のどこかに存在していて、標本にされた魚みたいに透けて見えてしまう。そうしたら私のどんな罪を暴かれ罰されることよりも恐ろしくて仕方がない。その時点で生きてゆかれない。

 頭の中をいつでも覗かれていいように、あの名前は絶対に呼ばない。もう二度と口にすることのない名前。誰もいなくても、誰にも聞かれなくても、呟くことすら許されないし、思い描くことすら叶わない。すでに言葉にしても、意味のないものになっているとしても。



「運命って信じる?」

「・・・それなりにね。」

「もっと早く出会っていたらって、思う?」

「思わない・・・わけじゃないけど、今じゃないと出会えなかったって思う。」

「うん、そうだよね。」

「・・・ねぇ、どんな家がいいかなぁ?」

「そうだなー、部屋は何部屋か欲しいな。ずっと一緒にいたいけどさ、別々なことを別々の部屋でやって、飽きて、会いたくなったらすぐに会いに行ける距離。そんな距離ならいいと思わない?」

「うん、思う。でもそれって理想だよね、現実じゃないし。」

「じゃあさ、それを目標の一つにしよう。今から色々探してみようよ。」

「え、いいの?それ、楽しいかも。あ、あのね、友達はね、住んでみたい街に言って、この家に住んだとしたら、途中のこの店に寄って休みの日はあそこに行って、とかって考えるデートを彼としてるんだって。」

「それめちゃくちゃいいじゃん。今度やろうよ。」

「いいね、次の土曜行こうよ。」

「うん、行こう。」

「・・・ねぇ、ぎゅーってして。」

「もうぎゅーってしてるじゃん。」

「全然足りないー。もっとぎゅってして。」

「やっぱりかわいい。そういうところ、めちゃくちゃ好き。」

「私も−--大好き。」



「本当に?」

「うん、いいよ、好きなとこ行こうよ。」

「うーん、好きなとこって言われても難しいなぁ。」

「なんでよ、どこでもいいよ。」

「どこでもかぁ。じゃあ・・・絶対にいけないと思うけど言っていい?」

「いいよ。」

「私たちのこと、私たちの全部、何もかも誰も知らないところに行きたい。」

「そっか。うん、いいよ、どこでも楽しいよ、一緒なら。」

「・・・そんなに簡単に言っていいのー?」

「簡単じゃないよ、決めてるから。」

「すぐ出来ないじゃん。」

「・・・でも今ここには誰もいないよ。」

「・・・まぁそうなんだけどさ。」

「ずっとここにいる?」

「・・・いいよ。−--がいるなら。」

「どこでもいいよね、二人なら。」

「うん、いい。どこでも。」



「ちゃんと別の場所で生きてても、ずっと忘れないと思う。」

「そりゃそうだよ。特別だから。」

「ね、なんか私たち不思議だよね。ずっと多分大切だもん。」

「すごいよね、なかなか出会えないと思うよ。」

「ね、すごいよね。」

「うん。ありがとう、本当に。」

「こちらこそだよ、そんなこと。」

「なんか不思議な気持ち。」

「さっきからそればっか。」

「だってそうじゃん、同じでしょ。」

「うん、同じ。すごくわかるよ。」

「ぎゅってする?」

「うん、する。」

「・・・よし、おいで。」



「・・・」

「なんか言ってよ。」

「・・・」

「どうして怒ってるの、教えて、わかんない。」

「・・・自分で考えな。」

「だって、喜んで欲しくて。」

「・・・そう。」

「ねぇ、ごめんね、ごめん。お願いだから、手を繋いで。」

「・・・」

「お願い。こんな風に終わりたくない。」

「・・・」

「今日一日、こんな風に終わりたくない。お願い。手だけ、つないで。手だけでいいから、一緒に歩いて。これ以上先にいかないで、ねぇ、−--。」



「めっちゃいいじゃん。来てよかった。」

「うわー、よかった。わざわざありがとう。」

「いいよ、もっと早く来ればよかったな。」

「また次もあるからさ、よかったら。」

「いくいく、絶対行く。」

「ふふ、そんなに?よかった、前からずっとちゃんと話したかったんだよね。」

「俺も、俺もおんなじ?」

「えー?またまたぁ、嘘でしょ?」

「俺嘘言わないよ、言ったことなくない?」

「そんなこともよく知らないから。」

「じゃあ、たくさん話そうよ。」

「いいよ、楽しそう。連絡ちょうだいよ。」

「おっけ、今日連絡する。」

「覚えたからね、約束ね。」



「やっぱり、すごいね。」

「ん?」

「私が知らないものばっか見せてくれる。本当すごい。」

「喜んでもらえたならよかった。」

「次はこの前言ってたあそこ行きたいな。」

「ああ、あの先週の?」

「そう、行きたい。」

「よし、じゃあ次、あそこね。好きなパン屋があるんだよね。」

「あ、行きたい、連れてって。」

「おっけ、じゃあ明日、行こう。」



「私、変じゃなかった?」

「変じゃないよ、全然。むしろごめん。」

「ううん。こんなことになるなんて思ってなかったけど、すごく幸せ。絶対に無理だと思ってたから。本当に。」

「俺だってめっちゃドキドキしてるよ。」

「・・・いや、嘘っしょ。」

「だから嘘じゃないってば、わかったでしょ。もう。」

「まぁ、そうね、そんなに暇じゃないもんね。」

「そうだよ、よくわかってるでしょ。」

「・・・うん、まぁね。あー、もう無理。」

「何よ。」

「もう明日から、普通でいられる自信がない。」

「俺も。」

「うわ、それは嘘だわ。絶対大丈夫でしょ。」

「・・・」

「あ、ばかにしてるわ。」

「馬鹿にしてないよ、心外だな。」

「・・・今日だけなんて思ってないんだけど、わかってる?」

「うん、わかってるよ。さっきも言ったじゃん。」

「なんか、信じられないから。」

「約束は守るよ。」

「・・・うん、ねぇ触っていい?」

「うん、いいよ。」

「夢みたいなの、本当に。」

「うん。」

「すごく、嬉しいの。でもなんか怖い。」

「うん。」

「すごく好きなの。」

「うん、俺も。」

「なんか涙出そう。」

「うん。」

「−--。」

「うん。」



「うわ、すごいな。カップルばっかり。」

「まぁ。」

「こんなことよく知ってるね。来たことあるの?」

「ううん、行ってみたいなって思ってたから。」

「この駅に降りたこともほぼないし、こんなのがあるのも知らなかった。ここすごく落ち着く。暗いとこって落ち着くー。」

「わかるわ。うるさくないのもいいよね。」

「うん、内装もめっちゃいい。あ、ほらみてあれ。」

「あ、おおー、いいね。めっちゃ綺麗。」

「これ待ち受けにしよっかな。」

「いいじゃん。撮ったら俺にも頂戴。」

「いいよいいよ。あ、こんなはしゃいでうるさくないかな。」

「大丈夫でしょ、みんな周りなんて気にしてないよ。」

「・・・確かに。みんな自分たちの世界だなぁ・・・」

「なんかウケるね。」

「うん・・・ありがとうね、ちゃんと次、探してくれて。」

「そりゃそうでしょ。一緒に来れてよかった。」

「・・・うん、ありがと。」

「また来ようね。」

「うん。来よう。」



「ありがとう。」

「ごめんね。」

「こちらこそ。」

「幸せだった?」

「もちろん。」

「これからも変わらない?」

「うん、変わらないよ。」

「そっか。ちゃんと大事?」

「うん、大事。」

「うん。ありがとう。私も。」

「うん。俺も。」

「本当にありがとう。−--。」



「気付かれたらどうする?」

「うーん、どうしようかな。」

「私、それがある時とない時、ちゃんとみてるよ。」

「マジか、バレてないと思ったけど。」

「わかるよ、いつもみてるもん。」

「でも言ってこないよね。」

「うん。だって、なんか嫌じゃないの。」

「・・・大人だよね。そういうところ。」

「今更?」

「ごめん。」

「ううん、じゃあキスして。」

「・・・今?」

「うん、今。」

「今はダメだよ。わかるでしょ。」

「いいじゃん、それくらい許してよ。」

「・・・」

「ねぇ・・・」

「・・・もう、こっちおいで、静かに。」

「難しいよ、もう。」

「・・・こっち、おいで。」



 寝ていたのか起きていたのかわからない狭間の時間をなんという名で呼ぶのだろう。ほんの少し眠っていた気もするし、ずっと起きていたかもしれない。妄想かもしれないし、現実かもしれない。本物の想い出だった気もするし、偽物の想い出だった気もする。この手の中に何も残っていない。何も残さなかったし、残せなかった。あの時私はキスしたのだろうか。あの人は、私の髪に触れただろうか。遠い記憶じゃないはずなのに、何ももう残っていない。今の私は本当に曖昧だ。曖昧で狭間にいる私は、何という名で表されるのだろう。

 気付くのが遅かった。ちゃんと境界線を引いていたはずだけど、そんなものはあっという間になくなっていた。もしかしたらそんなもの初めから存在しなかったのかもしれない。そんなことにも気づけないのに、私はどうすればよかっただろう。あの手に触れなければよかったと思うけど、あの手に触れるしかなかった。多分もう一度あの瞬間に戻っても、私は結局あの手を取ってしまう。なぜ愛してしまったんだろう。なぜ今も愛してしまっているんだろう。名前を呼びたい。もう一度、名前を呼びたい。戻ってしまいたいと思うけど、そんなこと、許されない。

 いつだって私は割り切って生きてきた。冷たいと思われても、私は私であって、あなたの私にも、私のあなたにもなれない。ちゃんと出来ていたはずなのに。強烈な熱で私の境界は溶かされてしまった。あれから私は上手に息が出来ない。熱いお湯に頭を沈めても、掌がふやけても、真っ赤になった足の甲も、私が私でいられる術は出し尽くしてしまった。なのに、あの時失った私のどこかは、欠けたままだ。私とあの人の間には時の流れより茫漠な何かが横たわっている。あんなにも近いと思っていたのに、もう私の目には映らない。もう、私の目にはあの人を映せない。泣いてしまえればいいのに。頭と心と私の体の全てが痛みに悲鳴をあげていても、なぜか一度も泣けないでいる。涙すら、あの人は持っていってしまった。私から、何もかもを奪ってしまった。

 ちゃんと生きていられると思っていた。同じ場所を歩いていなくても、ぶつかって途切れて、別の場所から歩いて行っても、結局また別の生き方で、一緒に生きていられると思っていた。あなたが歩く道を私はみている。棒のように突っ立ったまま、ただみている。私はあなたの後ろすら、歩けない。

 

 わずかなカーテンの隙間から薄く淡い光が差し込む。完全に冷えた身体から私の意識が抜けていく。今日は夢をみたくない。私は膝を抱え、外が白んでいるのをみないように、ベランダの窓に背を向けた。

 

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