気付けば、葉が枯れ始める頃です ー天秤座のひとりごと

 

 とりあえず今までの私は、うまく生きていたと思うのです。他人と争うのは好きではなくて、どちらかといえば調和が保たれていることを好むほうだと思います。ただしその性質とは、一方に肩入れもしないと言うことなのです。ですから特に女性からは反感を買うことが多くあったと思います。私の印象でありますが、女性とは、間違っていようが正しかろうが、自分の肩を持って欲しいという性質なのです。そのことを理解していても、私にはどちらかの肩を持つことはどうしても難しいのです。

 私は審判ではありません。ほんの少しだけ、二つのバランスを取ることが得意なだけです。あくまで私は傍観者なのです。何故、人というものは自分と他者とを混ぜこぜにしてしまうのでしょうか。いえ、初めから他人と自分の境界が曖昧な人ならいいのです。人懐っこくて図々しいくらいの人の方が好きだったりします。ただ、物分かりの良さそうな顔をした人ほど、厄介です。関係が深まるごとに本心が出てくるのです。初めは『このくらいの距離感がいい』だの『自立しあっていきたいね』だの言っているのに、自分のテリトリーに相手を入れられたと思えた途端、私の発する言葉や態度について『冷たい人ね』だの『感情がないの』だの言いたいように言ってきては、挙げ句の果てに涙を流したりするのです。私はずっとそれらを理解できずにいました。いえ、理解しようともしていませんでした。人は好きです。でも自分は自分、他人は他人でしかありません。

 ただ、そんな自分にも激しく波に翻弄されるような感情があったのです。今まで知りませんでした。理解できませんでした。


 『運命』という言葉をあなたはよく遣っていました。そんな言葉をさらりと口にできる人が現実に存在しているとは、なかなか信じ難いことでした。

 遊歩道に鈍く光る心許ない灯りの下で、あなたはギターを弾いていました。普段の私なら、目にも止めません。ですが、その日に限っては違ったのです。人通りの少ない道です。こんなところでギターを弾いている人を見たことがありません。危ないなと思いました。こんなところで誰か変な人に声をかけられないのだろうか、じめじめした遊歩道で虫がたくさんいるようなところで不快じゃないのだろうか、と。きっと不躾な視線を送っていたのだろうと思います。私は目つきはお世辞にも、いいものとは言えないのです。あなたと視線が合いました。あなたは私に微笑みかけましたね。今でも私は心配で仕方ありません。そんな不用心で大丈夫だろうかと。卑怯な大人達の中であなたは大丈夫なのかと。


 同じマンションの、しかも隣の部屋に引っ越していたとわかったときに、あなたはまたもや、運命だよ、と目を輝かせて言いました。正直やめた方がいいと思います。軽々しくそんな風に口にするのは。そういうことを本気にする人はこの世の中に沢山いると思います。私はあなたが変な問題に巻き込まれないのかがとても心配なのです。それは昔も今も変わることがありません。

 

 私の気が向いた時に、あなたと私で遊歩道を歩きました。その何度目かの散歩の時に私はあなたに聞きました。歌を聴いて欲しいのならば、こんな人気のない遊歩道じゃなくて、もっと駅前に行ったりとかすればいいんじゃないかと。あなたはその時、見当外れなことばかり言っていました。ここはとても美しい場所。曲を作っている時もこの遊歩道の景色が思い浮かぶのと。あなたの返事はあそこで歌う理由の一つではあるかもしれないけれど、確固たる理由には該当しません。美しい場所なら他にもあるし、私の頭の中でも、ふと思い浮かぶ場所はいくらでもあります。あの場所で歌うことは、手法ではあるけれど、手段ではないとあなたは言っていました。

 私にあなたの全てが理解できていたわけではありません。いえ、人を全て理解することなど到底無理な話なのです。意見やアドバイスはできたところで、それはあくまで他人の声であり、自分の意思ではありません。それを聞くのも聞かぬのもその人次第です。だから私の声や意見が届かなくても悲しむものではないのです。そして無駄なことでもないのです。他人の意見を聞いて、他人が何を選択するかはその人の自由なのです。わかっています。わかっているのです。でもどうしてでしょうか。それを分かっていながら、私は何故か傲慢になってしまいました。あなたに対してだけは。


 私がベランダに出てタバコを吸っていると、少し窓を開けているらしいあなたの部屋から、いつもギターの音が聴こえてきました。ギターの音が一旦止むと、ギターの音より小さなあなたの呟きも聴こえてきました。あーでもないこーでもないとぼやいていることが多かったですね。気づいていますか。それとも自分のことだと気づかないものでしょうか。私にも経験はあります。寝言を指摘された時です。寝言というものは厄介です。私の意識は眠っている状態だから、覚えているはずもありません。それが可愛い寝言ならまだしも、碌でもないことを口走ったならいい方向に進むことなどありません。深層心理が夢や寝言に現れるというのは本当なのでしょうかね。


 遊歩道での散歩や、ベランダで聴こえるギターとあなたの声。それらが私の生活に溶け込んでも私自身はさほど変わっていないと思っていました。でもあなたを駅前で見かけた時、ひどく動揺した自分に驚いたこと、昨日のことのように思い出します。あなたは何人もの人に囲まれていました。ギターを持って歌うあなたはあなたであるはずなのに、見慣れたあなたとは全くの別人に見えました。あなたの前には自分の名前が書かれたダサいプラカードみたいなものが置かれていました。CDらしきものも見えます。そして、少し離れたところから、何人もの人がスマートフォン片手に動画を撮っているようでした。女の子や男の子、おじいさんもいました。その半円から外れるようにしている人も、みんなあなたを見ていました。私はその場に暫く立ち竦んでいた気がします。我に返った私は、あなたの視線がギャラリーから離れないうちに家へと帰りました。


 とりあえず、今までの私はうまく生きていたと思うのです。それは嘘ではありませんでした。あなたを駅前で見たその日まで、本当にそう信じていました。私が今まで懸命に考えて行動して、うまく生きていたと思っていたのは幻だったのでしょうか。私だって、初めから他者との境界をうまく生きていたわけではありません。いろいろな経験と理解を身につけて、うまく立ち回れるようになったのです。そんな私は、幻だったのでしょうか。私は、ここまできて初めて、あなたに囚われていたことを知ったのです。

 感情とは恐ろしいものなのですね。私はこの時初めて女性達の気持ちがわかった気がするのです。私自身だけを肯定して欲しい。そんな気持ちが巻き起こったのです。あなたの歌が、遠いの人へも届けばいいと思っていたけれど、本当はただただ、私だけに届けばいいと思っていたのです。どこへも行けず、届きもせず、踏まれてねじ伏せられて路肩に捨てられてしまえばいいと思っていたのです。そうしたら私だけが、あなたを理解していられると。そんな愚かな考えを、誰かに、誰でもいいから正しいと守ってほしかったのです。もしかしたら私は、自分の中に潜む恐ろしい考えに気づかないように、他者との距離を守っていたのかも知れません。他者は他者として存在すると知っています。ずっと前から痛いほどに知っている。手に触れられなかった痛みを、私は初めて形に見てしまったのです。なんて愚かで哀れで痛ましいのでしょうか。だから私を救ってほしい。初めて知ったこの痛みに効く薬は、一体誰が処方してくれるのでしょうか。


 私はいつの間にか、あなたのことがわからなくなりました。今までとても近い所にいたと思っていたのに。頭の中にはいつも、あなたの爪弾くギターの音が響いて、時にはうざったいくらいでした。今だから言えるけれど、あなたの細い首のどこにあの強い歌声を出す力があるんだと、遊歩道で出会った日に思っていたのです。勿論そんなこと、顔にも言葉にもだしていませんでしたが。

 思えばあなたの作る音楽たちは、柔らかくて優しくて、でも一緒には連れて行けないと言っているような音楽でした。どの曲も初めて耳にした曲なのに、ずっと前から知ってたようでした。あなたの作る音楽達は私の耳から喉元を通り過ぎて、体に染み渡っていくのです。一度聴けばすぐに鼻歌混じりに歌うことができました。それなのに、あなたの旋律も全く覚えられなくなってしまいました。ベランダにも出られなくなりました。そしてそれは私を絶望的な気持ちにさせたのです。

 私とあなたの関係に名前はありません。ただの隣人だけれどもただの隣人ではありませんでした。恋人でもなかったし、友情かと言われればそれも正しくない気がしていました。

 とても愛しくて、愛していました。それは一般的な恋などに当てはめることができないほどの強い想いでした。そして不思議なことに、愛しい思いと同時に、あなたのことが誰よりも気に食わないのです。あなたの歌が私一人のために奏でられているわけではないからです。その傲慢な思いに、私が気づいてしまったからです。

 あなたはとても自由な人に見えて、実の所は自分を自分で縛って、ふとした瞬間にとても沈鬱な表情を見せるのでした。その度、さりげなく声をかけ、励まし、味方でいると大丈夫だと何度も何度も言葉にせずとも伝えてきました。それなのにあなたは、私が隣にいたことを簡単に忘れ、自分の力だけで、強くなって乗り越えたように歌うのです。そんなあなたが気に食わないのです。私の醜い感情ばかりを引き摺り出して、あなたは一人で立ち上がり、歩いていってしまうのです。


 あなたはまだ隣の部屋に静かに存在していました。私は壁に耳を当ててあなたの弾くギターの音を聴き逃さないように必死でした。そんな私を側から見たら、きっと阿呆に見えるんでしょうね。気が狂っているとでも思われるのではないでしょうか。あなたの音だけがどんどん聴こえなくなりました。あなたの音が聴こえない。そんな自分自身が怖くて仕方がないのです。


 私とあなたの関係に名前がないように、一度離れたら面白いくらい二人の間には何も残っていませんでした。連絡先を交換していないことに今更気づきます。それだけあなたの隣が当たり前になっていたのです。他人との境界をちゃんと作って生きていたはずなのに、私はただの脆い人間になっていました。そして私は思い知らされました。私があなたと会おうとしなければ、どんな時にでもあなたには会えないということです。私はいつの間にか、あなたを探していました。あの本屋にいるだろうか、あの遊歩道で歌っているだろうかと。駅前のラーメン屋に入ったのはいつだったか。教えてもらったカフェのコーヒーが飲みたいけれど、一人で行くのは恥ずかしい。後からこの街にやってきたはずのあなたは、私よりもこの街に馴染んでいたようでした。隣同士でも一度たりともお互いの部屋に入ったことはありません。一緒にマンションへ帰っても、ドアを開ければもう、私たちは本当に知らないもの同士だったのです。もう少し早く、ちゃんと気づければよかったのです。薄い壁はあまりに分厚く私たちの間にあったのです。


 私の隣の部屋から全ての音が聞こえなくなりました。決して私の耳がおかしくなったわけではありませんでした。物理的なことです。あなたは荷物が少ない人だったのでしょう。だって私は結構敏感なタイプなのです。誰かが隣に引っ越ししてきたことに私が気づかないわけはないのです。だからあなたがいなくなったことにもまた、すぐには気づきませんでした。もしかしたら意識的にあなたの全ての音を聞かないようにしていたのかも知れません。これ以上思い知らされないように、傷つかないようにと。


 懐かしいことを思い出すとき、なんだかとても泣きそうな、それでいて甘やかな気持ちになるのは何故なのでしょうか。わからないこと知りたいと思うようになったことを、成長だと思ってもいいのかも知れない。最近は割と本気でそう思うようになりました。この前同僚に『人間ぽくなったのかもね』と笑われても、釣られて笑えるくらいにはなっています。以前の私ならもっと機械的な返事をしていたかも知れません。機械的というか、理論的というか。どうでしょうね。変わったのでしょうか。


 久しぶりに、あなたの音楽を聴きました。もう壁に耳が埋まってしまうくらい押し付けているわけではありません。あなたが隣の部屋にいたあの頃よりもちゃんとあなたの音楽が聴こえます。張り裂けそうな歌声も、ギターの音も。あなたはもう隣にはいないし、私一人のために届けているわけではないのに。必死に反芻し思い出していたあの頃よりも、しっかりと耳から私の体の細胞ひとつひとつに響きます。

 

  あの日、あなたと過ごした人生の中のわずかな時間。

  夕闇に溶け込みかけた遊歩道。

  ギャラリーから外れた景色の中で去っていく背中。

  仏頂面のあなたと向き合ったおしゃれすぎるカフェテリア。

 

 私が知っていて知ることのできなかった、あなたが見たらしい景色が、ラジオから流れています。私はやっと理解したのです。大多数の人に向けたあなたの音楽の中にちゃんと私がいたことを。そこにはあなただけではない。ちゃんと私が存在していたのです。悲しいのでしょうか、切ないのでしょうか。はたまた嬉しいのでしょうか。私たちはまたどこかで会えるのでしょうか。この感情はなんでしょうか。私はこの複雑に組み上げられたパーツの小さな感情の欠片も、ちゃんと知りたいと思うのです。

 

 秋風が強くなってきました。もうすぐコートを出さなければいけません。あなたが私のすぐ隣にいた頃に、買って着古したコートしかクローゼットにはありません。私は明日、新しいコートを買いに行こうと思います。秋風が北風に変わっても、その風に揺られて踊り出したくなるような真新しいコートを買いたいと思います。あなたも風邪をひかぬよう、くれぐれもお気をつけて。私はまだ今もあの部屋にいるけれど、ほんの少しだけ、遠くに歩いていこうと思うのです。



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