筍と仏像と終末の花

台上ありん

第1話

 たけのこを掘らなければならない。

 ソメイヨシノが散りヤマザクラが咲き残っている四月下旬の早朝、私は納屋から細長い歯のついた鍬を取り出した。

 私にとって筍を掘るという行動は、趣味や道楽ではなく、現金を得るためでもなく、まして筍を食べることを楽しむためでもない。漫然と私の労力と時間を奪い去る退屈な義務だった。

 私は山を所有している。土地の正式な所有権は私の父に属しているが、やがて一人息子である私に相続されるべきものであり、また日々の管理は私がしているのだから、私の所有物としておいて差し支えあるまい。

 しかし私は私の財産を自慢したいわけではない。「山」とは言うものの、徒歩で頂点に達するに十五分も要しないほどのもので、地表がなんらかの作用で多少いびつに盛り上がっただけの「丘」とでも言うべきものだろう。

 山のふもとの低地になっているところには、車一台が通れるほどの狭いアスファルトの市道が走っており、その左右の空間が私の所有する土地ということになっている。

 山には杉の木がきれいに並んで植林されている。幹の太さが直径三十センチを超えるものもいくつかある。一昔前ならこの杉の木は伐採すればカネになったのであろうが、今や国産材は売れたところで、切り出して製材所に運ぶコストすら賄うことができない。ただ花粉とかいう毒物を撒き散らかして公害の要因になるほかは、なんら為すところがない。

 まったく、山は財産などではなく、負債でしかない。山からは一銭のカネも得ることがないのに、固定資産税はしっかりと請求される。実際、売ろうと思っても無料でも買い手が付かないだろう。

 山の入り口、市道のすぐ横は、竹林になっている。

 この竹林の筍を掘らねばならないのだ。

「竹害」という言葉を調べてもらえばその理由がよく理解していただけると思うのだが、とにかく竹というのは厄介な植物。

 その生命力はもはや圧倒的で、放置しておけばどんどんその生息域を広げていってしまう。ただ増えるだけならそれほど問題にはならないのだが、よそ様の敷地にまで根を広げたり、アスファルトやコンクリートを突き破ったりもする。

 それを防ぐには、新たに生える竹の数を減らすしかなく、数を減らすには竹にならない筍のうちに引っこ抜くのがもっとも効率的となる。ある程度成長してから切り落としてもよいのだが、成長した竹は必然的に筍よりも重量も体積も大きくなっているので、切り出すにも手間がかかる。また、竹を処分するために燃やしていると、散発的に焼けた竹が「パンッ!」という音を立てて、火の粉をはじく。その拳銃の弾が発射されたような音は、まことに不愉快なものだ。

 私は市道の手前の広くなっている部分に車を停め、トランクの中から鍬を取り出した。

 陽はまだ登っておらず、視界一面が水墨画のように灰色の濃淡のみで占められる。

 竹林に入ると、葉が擦れあう音が私の頭上から降ってくるように聞こえてきた。弱い風が吹いているらしい。

 竹林の入り口というべきところから数歩入って左手側に、高さ五十センチほどの石の仏像が立っている。積年の風雨でその姿は削られているため、仏像の顔はのっぺらぼうのようになっていて、わずかな凹凸がかつてそこらに目や鼻や口があったことを教える。

 何年前に建てられたものか、想像もできない。五十年や六十年ではないだろう。ひょっとすれば、百年どころか二百年を超えるかもしれない。

 私の祖父はここに来ると、必ずこの仏像に手を合わせていた。

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