1-5話



「そなたの顔が見たい。面を上げよ」

「は、はい……」

 彼我の距離は、約五丈ほどだろうか。

 これまでに入ったことのない、禁城の広間にまでやって来た英鈴は、そのきらびやかな内装に目を向ける余裕などまったくなく、最上級の敬意を表すために、床に伏して拝礼していた。

 そして彼方かなたより響くかのように厳かに耳に届いたのは、他ならぬこの国の皇帝、ていしゆしんの言葉。低く、しかし確かに燕志が言っていたように温かさを感じるその声は、まるで乾いた大地を潤す雨のように、緊張しきった英鈴の心にみ渡ってゆく。

 しかし周囲には文武百官、とはいかないが、それなりの人数の士大夫と衛兵たちとが控えている。何か不手際があれば即死罪である。旺華国において、皇帝とはそういう存在なのだ。

 英鈴はまるでまな板の上に載せられた川魚のような気持ちで、ゆっくりと、命じられた通りに、その顔を上げた。すると──

「きゃっ……!?」

「おお、すまんな」

 べんかんを頭にいただき、服喪を示す白い上衣をまとった若き皇帝──朱心の顔が目の前にあったもので、驚きのあまり大声をあげそうになる。というよりも、ほとんど口から飛び出しかけていた悲鳴をみ込んだせいで、のどの一部が引きれて痛くなってしまった。

(そんな。いつの間に……!?)

 皇帝ともなると、歩き方すらも常人とは異なるのだろうか。まったく気配を感じなかった。

 こちらが頭を上げるまでのわずかな時間に、音もなく、歩み寄ってきていたようだ。

 一方で朱心はというと、いかにも愉快そうに朗らかな笑みを浮かべている。その笑みは、状況も忘れてつい見入ってしまいそうなほど、美しいものだった。

 たとえるなら、夜闇にえわたる月光。あるいは、春の大河の穏やかな水面みなもきらめきのよう、だろうか。冠から長く下がった豊かな黒髪と、すっきりと整っためんぼうは、まさに神話の女仙のようなのに、こちらを見据える明るく澄んだまなしはしさに満ちていて、その相反した魅力がそのまま、まさに彼を皇帝と言わしめる威光となっていた。

(と……遠くから見た時も、美しい方だとは思っていたけど……)

 こんなに間近でそのりようがんを拝むことになるとは、思ってもみなかった。

 半ばうっとりとしかけてしまいつつも、あまりまじまじと見ていては無礼かと思い、英鈴は少し相手から視線を外す。話しかけたりはしない。むしろできない。不敬にあたるからだ。

 一方で朱心は「ふむふむ」と興味深そうにこちらの顔を見てから、数歩下がる。

「なるほど。噂通り、利発でさとそうな顔立ちをしている」

「恐れながら、陛下」

 と、玉座の隣に控えている燕志が、礼と共に言う。

「御身がそう近くては、英鈴殿も落ち着かぬことでしょう。あと数歩ほど、お下がりくださいませ」

「それもそうだな、燕志」

 朱心はおうように頷き、さらに数歩下がった。それくらいの距離だと、こちらも息をしやすい。

(ふう……よ、よかった)

 緊張の極限からようやく解放されて、英鈴は、再び朱心のほうを向いた。彼がたたずむその背後、玉座と壁には、と金で彩られた飛雲とりゆうじんの浮彫が至る所に施されている。

 龍神はこの大陸を太古の昔に創り出した存在であり、皇帝はその代理としてこの地を治めている──それがこの旺華国に広く伝わる信仰である。

 たとえさほど信仰深いわけでもない者であっても、この玉座の煌びやかさと、皇帝の姿を目の当たりにすれば、きっと自然と心を改めてしまうことだろう。

(いいえ、それよりも……)

 燕志の言葉通り、皇帝陛下はこちらを咎めるために呼び出したのではないようだ。

 ではなぜ──と、何度目かになる自問を繰り返すより先に、朱心が口を開いた。

「そなたが、白充媛に仕える宮女の董英鈴だな。華州はえいけいがいの董大薬店の娘だという」

「はっ……はい。仰せの通りでございます……」

「はは、そうかしこまるな」

 朱心は朗らかに笑い、続きを口にした。

「そなたは後宮の妃嬪や、城の衛兵たちに薬茶を売っていると聞く。なんでも、薬の効き目は保っているというのにたいそう飲みやすいそうだな?」

「はい。皆さまのお口に合うように……その、工夫いたしましたので」

「なるほど」

 答えに満足そうにすると、朱心は僅かにそのひとみに真剣な色を増して、こう告げた。

「そんなそなたに、頼みがある」

(頼み……!?)

「余、自らのための頼みだ」

 我知らず見開いた瞳の視線が、まっすぐに朱心の視線と合わさる。

 しかしそれを不敬かとらすより先に、皇帝ははっきりと言った。

「余のために──飲みやすい薬を作ってくれぬか?」

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