5.大阪駅条約


 百香さん。

 俺が初めて彼女と会ったのは、二回生の夏休みだった。


 川本がその頃熱心に通っていたサークル、『オールドミュージックへのいざない』で、仲良くなった女の子がいるから、ぜひメンタルも一緒にイギリスコーヒーへ行かないか?と呼ばれ、謎の三人組が集まったのだ。


 俺はその当時、女の子の知り合いといえばバイト先の宮田さんと中野さんの二人だけ。数少ない貴重な知り合いにも関わらず、その二人とは特別仲が良いわけでもなく、中野さんに至っては何故かとても俺の事を気持ち悪がっているように見えた。二十歳前後の超繊細な心は、ただでさえ周りの反応に敏感だというのに。俺はバイトの時は、店長以上に中野さんに対して気を遣っていたものだ……。


 そんな俺だから、女性と会うと妙に緊張してしまい、大量の脇汗がダダ漏れてしまう。その三人で会った日は、汗の目立たない服を選ぶのにかなりの時間を要した記憶がある。


『メンタル、なんか今日はいつもと感じが違うな。人の話聞いてばっかりやん』

 川本が、ロボットの単純作業のように頷いてばかりの俺を指摘した。


『いや、だって人見知りやし……』


『メンタル君って、すごく真面目そうだね。なんかめっちゃ賢そうな感じがする。』

 百香さんの必死のフォロー。


『いやいや、もっといつもは騒がしいで、メンタルは!』

 川本がダメ押しの一発を決め込んだ。


 その後も他愛無い会話を続けて、ガチガチの俺も少しは慣れてきた。化けの皮が剥がれそうになるのを、必死にコントロールしていたら、その度に川本が『いつもはこう言うてるやん』と、明るくつっこんでくれる。


 本当に楽しかったからその時の会話はこれ以上あまり覚えていない。ただ彼らのサークルがバンドを組んだりライブをしたりする活動系のものではなく、部屋の真ん中に置かれたラジカセで、各々が持ち寄った古い音源をひたすら聴きまくるという、音楽好きが高じて作られた異様なサークルである事だけは分かった。


 それからというもの、三人で会う事もしばしば。そしてもうすでにその頃から、百香さんが川本に対して特別な感情を抱いているのは明白だった。


 あの川本に対する眼差し。そして、気を引こうとする言動。優しいだけでなく素直な百香さんだからこそ、その態度に狡猾さは全く感じられない。ただただ川本の事が好きだったのだろう。


 そして一方の川本も、そんな百香さんの好意に導かれ、彼女に惹かれていった。俺は何度もその事について相談された。俺はカウンセラーと同様、客観的に感じた事をアドバイスしていたが、内心では『恋愛経験値0の俺が、何を分かったような事ぬかしてんの?』と、自分自身に恐々としていた。


 そんな過程を知っていたからこそ、『付き合い始めた』という報告は、泣いてしまうほど嬉しかった。百香さんと川本の幸せそうな笑顔が溶け合う瞬間を見た。これはかの有名な『チェリーボーイ同盟』が破棄された記念すべき日である。あれから一年以上経ったのか。その間に、二人の幸せを何度も目にしている。


 だからこそ百香さんが浮気をしたなんて、俺は信じられなかったのだ。


『百香さんが浮気って……。なんか証拠みたいなんがあるって事?』


 これは踏み込み方を間違えると、川本の心が抉られてしまう。慎重に聞かなければならないが、俺もかなり動揺していた。


『いや、百香が誰かと浮気してるところを直接見た訳じゃない。そうじゃないんやけど、スマホにさ……』


 川本の声が少し震えている。


『机の上にあったスマホにメッセージが来たんよ。なんでもない事やし、見なかったら良かったんやけど、突然光ったスマホに目が反応してしまって』


 俺は川本の顔を直視できなかった。辛いことから逃げたくなるのは俺の悪い癖だ。川本の放つ不安が、俺に強く吹き付ける。じっと耐えて彼と向き合わなければならない。


『その画面にさ、ケイスケって名前の男からメッセージの通知が…………』


『………そこになんて書いてたん?』


 止まってしまった川本。少し躊躇しているように見える。ゆっくりと時間をかけて俺の胸のあたりを見ながら、口を開いた。

 

『“今日も楽しかった!またいつでも呼んで!あと、勿論彼氏にはバレてないやんな?”…… だってさ………』


 川本の必死の苦笑い。口元が歪み、目には困惑の色が浮かぶ。いかに彼の心の傷が深いか、理解するには充分だった。


『なんなんそれ………』


 俺は、身体中の細胞が沸々と煮えたぎっているのを感じた。何かに対する怒り。百香さん?ケイスケと名乗る男?俺は未だ百香さんの浮気の真相に対して疑問を抱きながら、川本を悲しませたという事実が許せなかった。


『はっきりさせなあかんやろ、これは。』


『いや、ちょっと待ってくれ……』


 もうすでに甲冑を身に纏って、『敵はまだ見えぬが出陣じゃ!』と、意気込んでいた俺であったが、川本は『まだ直接聞くのはできない』と、様子を伺うつもりらしい。どうも怯えているように見える。


『でもそのやり取りがほんまやったら百香さんといえども、俺は詰め寄った方がいいと思うで。こんなコソコソと隠れて人を騙して、それでいてあんな平気な顔してんのは、腹が立つ。今までの愛は口先だけか?そんなんで愛を語る奴はこの俺が許さん!しっかり証拠掴んでその男共々徹底的に吊し上げたらぁ!』


 震える俺の拳で、テーブル上のミックスジュースが見事にかき混ざり、ストローが反時計回りに回り出した。オーラの見える占い師がここに居れば、俺のことを二度見しただろう。それほどまでに殺気立っている。


 愛をいまいち知らないこの俺が、他人の愛に口出ししてるのはいささか変な気もするがもうそんな事で立ち止まる事などできない。当の川本を差し置いて、俺は一人勝手にヒートアップしていた。(今考えれば、これはこれで失礼かもしれない。川本の気持ちを大切にしていたつもりだが、逆効果にも思える)


『メンタル。俺、百香の気持ちが知りたいねん。ただそれだけでいい。ちゃんと聞けたら俺は百香の意見を尊重するつもりや』


『まるで性善説の世界にいるようや』


『それの方が気持ちええやろ……?』


 イギリスコーヒーを後にした俺たちは、長い時間、地下で蓄えられていた負のエネルギーを解放する為、JR大阪駅にある時空の広場へと向かった。夜の大阪を上から見ると、お洒落なジオラマの街のようでワクワクする。涼しい風が吹きわたり、その行く先に目をやると青い光を纏い燦爛と輝くぴちょんくん。

癒しの空間で、少しクールダウンできた。


『その“ケイスケ”なる男からのメッセージを川本が見てしまったって事、百香さんは知らんやんな?』


『うん、何も言われへんかった。トップ画面の通知とはいえ、見てしまった事には変わらんし、後ろめたくて』


『じゃあ、俺が探りを入れるわ。なんか俺らもコソコソしてるみたいやけど、はっきりさせるためやから我慢してな』


 そうと決まれば、行動は早い方がいい。俺は早速、百香さんへのメッセージを打った。


『お久しぶりです!明日の夜、ご飯一緒に食べませんか?今俺が受けてる授業『自然薯栽培の革命』って百香さん去年受けてましたよね?そのレポートについて相談したくて』


 ふふっ。違和感は全くなし!


『大丈夫!俺に任せとけ!遠回しに聞いてくるから、何か引っかかる事があれば全て報告する。全ての作戦の本部はここ、大阪駅にしよう。俺達はここから真相を明らかにするのだ』


 川本がやっと自然に笑ってくれた。

 これは川本と俺、そして青いぴちょんくんの間で交わされた歴史的な『大阪駅条約』締結の瞬間である。


          ○


 その夜、一人寂しくベッドの上でYouTubeを見ていると、百香さんから返信があった。

 

『分かりましたー。たつやくんに一応確認だけしとくねー』


 “たつや”とは川本の名前だ。そういえば川本が前に言っていたことがある。


『百香と俺で決めてる事があるんよ。二人それぞれの人間関係を束縛したくないから、お互い異性とどっか行く時は伝えようねって。後でこじれるの嫌やからさ』


 これを初めて聞いた時、『恋愛ってめんどくさっ』と、思ったものだ。


 でも百香さん、今でもちゃんと約束守ってるんだ……川本と繋がってる俺だから、ちゃんと守ってるだけか?


 ひらひらと面を変えるように印象が変わる百香さん。俺は、ますます彼女の事が分からなくなった……。

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