第7話 てがかり

 思い切って引き出しを開けた。

 入っていたのは手帳と、ぶ厚くふくらんだ名刺入れ、それと手紙のたば。


 手紙はおいておき、手帳を手にとる。

 黒い皮の表紙で、高校生が持つにしてはしっかりした作りだ。


「お母さんの手帳を見るのは、なんだか…すごいことに思える」


 うん、わかる。ひみつをのぞくような気がする。しかも、唯川夏目の手帳なのだ。


 手帳を開いてみると、きちんとした字でこまごまと書いていた。

                 

 まずは、「明日の予定」が何なのかを見ないと…。

 わくわくする心を抑えて夏目はページをめくる。


 書かれていたのは、


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


 本屋さんに行くこと 

 ☆ 

「歌のベストテン」を見ること

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


「これだけ?」

 思わずぼくは言った。


「この星マークは何? 仕事なら、場所と時間を書いてると思わない? 何か学校であるのかな?」


「さあ、わからない。ほかの日も見てみる」


 夏目は今週の予定をよみ、そして手帳をめくって来週の予定もよむ。

 仕事らしきものの予定は、ない。友だちの誕生日とか学校のことばかりだ。


 少なくとも高校生活は充実していたらしい。


「日付を、さかのぼってみてるけど」


 夏目はていねいに手帳を見ていた。貴重な手がかりなのだ。

 けど、1週間前も1月前も仕事はゼロ。


 そのかわりというべきか、友だちがテレビ出演したことは、たくさん書いている。


「数えたら、友だち10人くらいがTVに出ているよ」


「TVに出ているどころか、倉沢ひばり、小沢杏子…、

 友だちって人気歌手だ。

 きみのお母さんは、きっと高校の『芸能クラス』だったんだ」


 むかしは、子役の俳優などは仕事が平日に入るせいで、小・中学校にも行けなかった時代があったのだ。


 そういう子たちも教育を受けられるようにしたい、と考えた大人が芸能人も通えるクラスをふつうの学校の中につくった。

 そこでは演技や歌を学ぶのではない。英語や国語などふつうの教科を学ぶのだ。


 唯川夏目は、そんな『芸能クラス』に通っているんだろう。

 そして…、


「大活躍してるみたい…クラスの友だちは」


 夏目は手帳を指さして見せた。

「あ。お母さんにも仕事があった、ほら、2ヶ月ちょっと前に」


 たしかに土日に、撮影が入っている。


「今のところ仕事らしいものはこれだけね。たった一つ」

 しかも何の撮影だったのかわからない。


「ほかに仕事の話らしいのは、『オーディション』だけだね。

 赤坂、渋谷とか、半年で28回も、CMから雑誌まで、かたっぱしから受けてるみたい」


「受かったのかな?」


「受かってたら、こんなに受け続けてない」


 未来は暗い声でいう。


 ——今の時点では、まったく売れていない


 あの「見守る人」の言葉どおりだ。

 だけど、ぼくたちは何かが引っかかっていた。


 どうして、こんな時を選んで送りこまれたんだろう? 


 夏目は、どうも納得いかないという顔で、ぼくに言った。


「ほかにも、奇妙なことに気づいたの。レッスンがとても少ないんだよ。

 デビューする前は、みんな特訓するものじゃないの?」


 たしかにそうだ。期待されている子ほど、歌やダンスや演技をプロのもとで訓練されるものだ。

 なのに、唯川夏目は半年の間にたった数回しかレッスンが入っていない。それもダンスのレッスンで、歌のレッスンは1回だけ。

 ……いったいどういうことだろう?


 そのとき、はらりと手帳から1枚の紙が落ちる。

 夏目は指でつまんでみると、「唯川夏目」と書かれた名刺だった。


「お母さんの名刺だ。

 そういえば、名刺入れがあったね」


 夏目は、ぶあつい名刺入れを取り出して、中身をトランプのカードのように、机に広げた。


「いろんな人から名刺をもらってる。出版社とか、テレビ局の人の名刺もある。

 オーディションで交換したの?」


「オーディションって、名刺をもらうものなのかな…?」


 わからないことだらけで、迷路の中にいるようなものだった。

 夏目は、名刺をきれいにそろえて名刺入れにしまいながら、つぶやいた。


「これだけ調べて、わかったことは、

 17歳のお母さんは親から離れて、たった一人で東京に来た。

 トップアイドルどころか、オーディションには落ち続けていたということ」


 いったいお母さんは、部屋に戻ってきてこの椅子に座って、何を考えていたの?


 何をしようとしていたの?




 時計の針が、1時をまわる。

 これは死んではじめてわかったけれど、ぼくは眠らなくていい。

 でも人間というものは眠らないといけない。


 とくに、とつぜん母親のみがわりになってしまった人には、休息が必要だ。


 ぼくは、いやがる夏目の言葉に耳を貸さず、探索を打ち切らせた。


「今日はもう十分だ」

 それから、夏目にベッドに入ることと、その前にお風呂に入るように、言い渡した。


「ぼくは見たりしないから。アイドル候補がお風呂に入らないなんて許されないだろう?」


 死んでよかったのは、上から目線で生きている人にモノが言えることだ。

 みんな恐れ入って聞いてくれる。


 そうはいっても…、

 これは夏目にとって「過酷かこくすぎる仕事」だ。


(お風呂ってことは…必然的に服を脱ぎ、お母さんのからだを見ることになる…

 そんなのできない)


 ……夏目がそう思って当然だ。17歳の親の体を見るなんて、恥ずかしいに決まってる。


 ぐずぐずしていたけれど、結局しかたなく夏目は立ち上がり、まさしく勇気をふりしぼって、右手の奥にある小さなバスに入った。


 ぼくは断言するけれどもちろん見たりしない。

 だけど、夏目はせまいお風呂の中で果敢に取り組んでいるようだ。


(どうしよう。お母さん…わたしみることなんてできない。


 そうだ上をむいて洗おう…そうね…でも、ずっと上を見て洗えないかも…やっぱりむりむり)。


 ぼくは、彼女の反応がおもしろくて、つい引き込まれている自分に気づいて、心の声を聞くのを止めた。


 それから夏目は、ものすごい早業でお風呂から出てきた。

「こっちを見ないで」とぼくをぴしゃりと一喝する。


 いまの夏目の顔、まるで湯気が出ているトマトだ。

 壁に背中をもたせかけ、上を見て大きく息を吐きだす。


「ごめんね。おかあさんのほうが恥ずかしいよね」

(でも私はあなたに借りた体を大事にするからね。心配しなくていいよ)。


 

 彼女はベッドに横たわった瞬間に寝息をたてはじめた。

 疲れていたんだろう(それはそうだ)。

 なにしろ大変な一日だったんだ。


 ぼくはふと、夏目のほほに垂れた髪にふれたいという衝動にかられた。

 …でも、思いとどまった。


 生きている人間に触れることは、禁じられていたから。


 少しだけ彼女の寝顔をながめてから、そっと部屋を出た。

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