第四章

 翌日、朝から特に何もなく、昼休みもいじめられなかった。平穏無事に一日が終わる。竜彦はささやかな幸せを感じていた。

 しかし、現実は甘くなかった。

「おい竜彦! 放課後一緒に川で遊ぼうぜ」

 帰り際、穂高に呼び止められた。今日から文化祭に向けた準備期間だった。毎年この時期になると、部活動は原則、自主練習となる。実質、休みである。竜彦は絶望の淵に落ちた。

 穂高たちに連行されて、河川敷へ着くと、心置きなく嬲られた。昼休みのいじめがなかった分、エネルギーがあり余っているようだった。

「おらっ竜彦、堪えろ、堪えろ!」

 穂高は大声で怒鳴って殴った。

 地べたに倒れる竜彦。殴る蹴るの暴力は止まらない。口の中が鉄の味で満たされる。意識が朦朧として、耳がうまく働かない。殴られすぎて、感覚が麻痺していた。

 暴力一辺倒もつまらないのか、時折、水責めもされた。

「やめて、やめて!」

 竜彦は叫んだ。しかし、無駄だった。頭を掴まれ水中に沈められる。息ができない恐怖は想像を超えた。

 水責めが終わると、今度は立たされて泥団子をぶつけられた。彼らは身体のどこの部位に当てたかで、競い合った。股間に当たると、三人は馬鹿笑いした。平穏無事に終わると期待していた竜彦だったが、結局いつも通り、傷だらけの泥まみれにされた。

 ひとしきり三人は楽しむと休憩に入った。加害するのも疲れるらしかった。

「ねえ、修治はまだ来ないの?」

 苛ついた、甲高い声が聞こえた。雲井まどかだった。彼女は竜彦がいじめられているのを堤防の陰から見物していた。

「修治? 文化祭の準備でもしてるんじゃね?」

「文化祭の準備? なんで修治がやるの、あたし聞いてない」

「知らねえよ、自分で直接連絡しろよ」

「もういい、あたし帰る」

 まどかが立ち去ろうとすると、穂高が前を塞いだ。

「なんだよ、ノリ悪いな。もうちょっと遊ぼうぜ」

「いい、つまんないから」

 彼女は穂高から目を逸らした。そして、竜彦の方を見た。

「嫌なら抵抗すれば?」

 まどかはじっと彼を見つめる。彼女の瞳は大きく、圧力を感じた。竜彦はどう答えたらいいか分からなかったので、笑って誤魔化した。

「気持ち悪い」

 まどかはそう吐き捨てると、河川敷を去っていった。

「まどかと修治って本当に付き合ってるのかな?」

 去りゆくまどかの背中を見ながら、高木はぼんやりとした口調で言った。

「一応、付き合ってるんだろ」

 蝉川は空を見上げて、嘆きのポーズを取った。「修治ってほんと恵まれてるよな。顔良くて背高くて、運動できて頭も良くて、おまけにまどかと付き合えて。まどか、おれらのことなんか相手にしてくれないからな。ほんと世界って不平等だよ」

「修治、二股してるぜ」穂高がぽつりと言った。

「えっ」

「この間、隣の中学の女子とキスしてた」

「うわあ」

「もうヤッたらしいぜ、しかも学校で」

「まじ、学校でヤッた!?」

「声でけえよ、馬鹿」

 穂高が怒鳴る。蝉川はしゅんと落ち込んだ。 

「穂高くん、それ本当なの?」高木が言った。

「マジだよ。見た奴がいる。他にも別の女子と一緒にいるのも見られてるし。橋の陰でこそこそな。女癖悪いんだよ」

「うわあ」

「なんか意外。イメージ崩れるなあ」

「あいつはそういうやつだよ」穂高はそう言って、口に手を当てる。そして間を置いてから、ふうっと息を吐いた。

 仲間はずれの竜彦は会話に入れず、ぼんやり空を眺めていた。白い煙が空に昇るのが見える。煙は雲のある高さまで行こうとしたが、その願いは叶えられず、すぐに透明になった。




 穂高たちから解放されると、竜彦はすぐに帰宅しようとした。しかし、体操着を教室に置いてきてしまったことに気づき、やむなく学校へ戻った。

 学校に戻ると、放課後にもかかわらず、騒がしかった。大勢の生徒が忙しなく、教室や廊下を行き来している。

 廊下には製作中の立て看板が掛けられ、ロッカーや教室後ろのスペースには、蝶ネクタイや海パン、サングラス、メイド服が散乱している。どれも文化祭の劇で使う衣装である。放課後に文化祭の準備ができるという昂揚感が、校内に充満していた。

 竜彦は熱狂の間をくぐり抜け、二年三組の教室へ入る。体操着だけ持って、ひっそり帰るつもりだった。しかし、事はそううまくいかなかった。

「竜彦!」

 振り返ると、黒い制服を着た、背の高い少年が手を振っている。修治だった。彼の片手には立て看板の装飾に使う段ボールが握られている。

「ちょうど良かった。準備ちょっと手伝ってくれよ」

 修治は優しく笑って言った。嫌味なところが一つもない、純粋な笑顔をしていたので、断るに断れなかった。

 修治に連れられて、竜彦は六組の教室に入った。

「そこで待ってて。道具取ってくる」

 修治は段ボールを置いて出ていった。竜彦は教室に一人取り残された。騒がしい廊下に比べて、ここはとても静かだった。

 六組は空き教室となっていた。かつては一学年六クラスもあったが、生徒数の減少を受け、六組の教室は使われなくなった。滅多に人が出入りしないためか、他の教室よりも物が散らかって荒んでいる。雑然と置かれた机と、ペンキが剥げて汚らしい壁。踊り場の風景に少し似ていた。

「おまたせ」

 そう言って修治が持ってきたのは、救急箱だった。彼は箱の中からガーゼと消毒液を取り出す。

「どうして......」竜彦は驚いた。

「ひどい傷だ。また穂高にやられたのか?」

 修治はガーゼに消毒液を染み込ませ、赤く腫れ上がった竜彦の顔を手当てする。

 傷口に消毒液が染みる。竜彦はびくっと身体を震わせた。

「痛かったか? 優しくするから、もう少し我慢してくれよ」

 この日の修治は特別優しかった。竜彦は気まずさを感じた。日頃のいじめで人間不信になっていたので、急に丁寧に扱われても、居心地が悪かった。それでも、他人からの優しさは傷ついた竜彦の心に染みた。 

「拳銃」 

 手当ての最中、修治は呟いた。竜彦は思わず胸元の拳銃を触りそうになった。

「ほら、学校の近くで拳銃が見つかった話」

「ああ」

「最近はその話題でもちきりだよ。特に穂高たち。あいつら、拳銃を見つけようと必死になってる。見つけたらクラスで自慢するんだってさ。馬鹿だよな。そんなのバレたら警察に捕まるってのに」

「はは、そうだね」

 竜彦は愛想笑いをした。平静を装っているが、心臓の鼓動はいつもの倍以上速かった。

「おれ将来、医者になりたいんだ」

 唐突に修治が言った。

「へえ」

「傷ついた人を見るとほっとけないんだ。使命感に駆られる。弱い立場にいる人を守りたいし、助けたい。だから医者になりたいんだ」

「そうなんだね」

「その反応、あの子に似てるな」

「あの子?」

「ある女の子のことだよ。僕と彼女は幼馴染なんだ。医者になりたいって話をしたら、彼女も竜彦と同じ反応だった。そして、面白い話をしてくれたんだ」

 修治は傷の手当てを終えると、段ボールを机の上に広げた。段ボールには鉛筆で線が引かれている。二人は線に沿って鋏を入れ始めた。

「面白い話?」竜彦はたずねた。

「患者と医者の話さ」修治は物語を話し始めた。「ある患者が精神病棟に隔離されていたんだ。医者は彼の話を聞いてあげた。はじめ医者は彼を馬鹿にしていた。『どうせ気が狂った人間だ。おかしなことを言って困らせてくるんだろう』とね。でも、違った。患者は豊富な知識を持った教養人だったんだ。医者は話をしているうちに、そのことに気づいた。鋭い知性と深い思索。医者は頭が良かったから、患者の言うことが理解できた。世間一般には狂人と判定される人間が、医者の目には哲学者に見えた。医者は患者との哲学的な対話に夢中になった。心を通わせ、価値観を共有する。周囲の人間から後ろ指を刺されても、医者は患者との議論をやめなかった。それだけ患者の思想に共感したんだろう。そして最後は、医者自身も精神病棟へ入れられてしまうんだ。患者と同様、狂人とみなされてね」

 竜彦はすっかり話に聞き入っていた。不思議な話の結末に言葉が出なかった。

「面白いだろ」

「うん」

「でも、もっと面白いのは、医者になりたいと言う人間にこんな話をする、その女の子だと思うんだ」

「変わった子だね」

「そうだね変わってる。でも、どことなく竜彦に似ているよ」

 修治はにこっと笑った。

 竜彦は目を逸らした。これ以上、会話をしていると本当に絆されてしまいそうだった。修治が憎いはずなのに、彼の優しい微笑を見ていると、友達になりたいと思ってしまう。

 沈黙が流れた。二人は黙々と作業を進める。鋏が立てる音以外に響きはなかった。

「竜彦って昔、乱暴だったよな」

「えっ」

「小学生のときだよ」

 修治が小学生のときの話を始めた。

「クラスで一番目立ってたし、人気者だったけど、すごい威張ってた」

「あの頃はその......」

 竜彦は答えに窮した。過去の記憶が蘇る。衝動的に謝罪したい気持ちに駆られた。

「ごめん、あのときは本当にごめん」

「別に謝らなくていいんだ」修治は学ランの第一ボタンを外した。首元が鬱陶しかったのだろう。「ただ、あの頃の竜彦は嫌いだった」

「......」

 竜彦は何も言えなくなった。顔が熱い。火傷するほどに、恥ずかしさが込み上げてくる。

「今の竜彦の方がいいと思う。調子に乗ってないし、落ち着いてる」

 修治の鋏が段ボールの端へ到着する。任された作業はひとまず終わった。

「手伝ってくれて、ありがとうな」

 修治は簡単にお礼をして、二年三組の教室へ戻っていった。

 竜彦は、再び部屋に一人取り残された。




 竜彦は六組の教室を出た。用もないので帰るつもりだったが、ふとオフィーリアを見たくなった。

 美術室の扉を開ける。少女が一人、立っていた。

「どうしたの? こんなところで」

 姫香はきょとんとした表情をした。

 どうしたの、とはこちらのセリフだと竜彦は思った。基本的に、不登校の彼女が教室に来ることはない。事実、階段の踊り場以外で彼女を見かけたのは初めてだった。

「文化祭の手伝いをしていたんだ」

「へえ、なんか意外。きみはそういうことしない人間だと思ってた」

「手伝えと言われて、仕方なくやったんだよ」

「ふーん」

 姫香は興味なさげに言った。彼女はダリの絵の前に立っていた。

「姫香、この絵嫌い」姫香は言った。「奇を衒ってる感じがする。子どもじみた絵だ」

 彼女は眉間に皺を寄せた。竜彦は彼女が自分と同じ感性を持っていることに嬉しくなった。

「竜彦くんも嫌いでしょ」

「嫌いだよ」

「ほら当たった」

「どうして分かったの?」

「分かるよ、竜彦くんの好みくらい」

 姫香は「えへへ」と言って、目を細めて笑った。

 次に二人は、ミレーの絵の前に立った。

「竜彦くん、この絵好きでしょ」

「好きだよ」

 竜彦は思わず答えてしまう。まるで告白でもしているかのような口振りだった。彼はすかさず「この娘の表情が好きなんだ」と訂正した。

「面食いなの?」

「ち、ちがうよ!」

 困っている竜彦を見て、彼女は「えへへ」と笑った。無邪気に笑う姫香は、絶え絶えな表情のオフィーリアと対称的だった。

「本当に綺麗な娘。うっとりしちゃうなあ」

 いつのまにか竜彦と姫香は肩を並べていた。二人は同じくらいの身長に見えて、竜彦の方がほんの三センチほど高い。

 もし並んで歩くなら、と竜彦は妄想した。これくらいの身長差がちょうどいい。お互い会話もしやすいし、上目遣いの彼女も見れる。妄想の中の姫香は、オフィーリアのように口を少し開けて──。

「ねえ」

 竜彦は我に帰る。

「なに?」

「だから、竜彦くんは殺したいほど憎い人間がいる?」

「どうして急にそんなこと」

 急に来た突拍子もない質問に、竜彦は驚いた。

 姫香は答えない。じっと竜彦を見つめている。質問に質問で返すな、という意思表示だった。

 竜彦は考えた。殺したいほど憎い人間。思い当たる節はいくらでもいた。毎日いじめてくる穂高、蝉川、高木。「気持ち悪い」と言ってくる雲井まどか。善人面の学級委員長、飛鳥。見て見ぬふりをする担任の望月。その他同じクラスの有象無象。そして、若槻修治。整った優しい微笑が脳裏に浮かぶ。

「いないと言ったら、嘘だよ」

 竜彦は正直に言った。

「きみを傷つける人間を、きみは許してはいけない。もし銃弾が手に入ったら、きみはいま思いついた人間たちに裁きを下すんだ」

 姫香は真顔で言った。

「できないよ。そんなこと。第一、全員殺したところでどうするの?」

「二人きりの世界へ行きましょう。安らぎの場所へ。そのために邪魔する人間を排除する必要があるの」姫香は、その細い目で竜彦を見つめた。「それは、われわれの惑星全体での新社会の最終的勝利にいたるまで完成することはない」

「それもチェーホフ?」

「いいえ、違うわ」姫香は間を置いてから答えた。

「じゃあ誰の言葉?」

 姫香は顎に手を当て、考え事を始めた。いつものように、チェーホフの知識を披露するとばかり思っていたので、その反応は意外だった。彼女は歩きながら考えていたが、マグリットの絵の前に来ると止まった。

「言葉っていうのは誰が言ったかより、何を言ったかが大切なのよ」彼女の口調はなにやら真理めいていた。「絵画にとって、作者やタイトルがあまり重要でないようにね」

 彼女はさっきまでとは様子が違っていた。竜彦は違和感を覚えた。会話の中で、なにかまずいことを言ったのか不安になった。

「文化祭の準備は楽しい?」姫香は言った。

「別に、普通だよ」

「本当?」

「本当だよ」

「嘘。だって竜彦くん、すごく楽しそうな顔をして、この部屋に入ってきたもの」

「別にそんなことないよ」

 隙を見せた竜彦に、彼女は容赦なく意地悪になる。

「ほら動揺してる。やっぱり楽しかったんだ」

 姫香は目を細めて笑った。いつもの明るい彼女に戻った。

「文化祭ね」

 姫香はぽつりと言った。表情から何かを決意した雰囲気が感じられた。

「そろそろ帰るね」

 時計は五時を指していた。姫香は美術室を去った。竜彦も後を追うように廊下へ出た。彼女の姿はもうどこにもなかった。

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